2011年12月18日日曜日

最近の学生さんの安全率 = 1 以下?

大学の教育体制は高校までとは違う。自分で自分を律して,自分でスケジュールを立てて,それに従って成果を挙げていくのが正しい道である。さて,紙で橋の模型を作ってそれが支えられる重りの大小で競争しようという研修を実施している。冬セメスタの科目なことから,10 月末までに説明を終えて,模型を作るための余裕をみて 12 月初旬に重りを載せることにしている。10 月 20 日までに説明して 12 月 10 日くらいに実験をするようにすれば,6 週末くらいはあるから模型を試作するのに十分だろうと思ってそういう日程にしてある。
果たして・・・
来週実験をしようとするある日,学生さんから「課題は何でしたっけ?」とか「いただいたソフトが動かないのですが」とかの質問が来るのである。初めてやる事業に自分の能力でどのくらいかかるかわからないというのが,社会に出て接する仕事だ。その予行演習を大学ではやっていることになるのだが,1 週間でいいものが作ることが可能なのだろうか。本当にそう思っているとすると,ちとまずいと思うのだが。もう大学でまともな教育はできなくなっていると感じる今日この頃である。

2011年12月17日土曜日

OS メーカーなんだから・・・

Visual BASIC が無料配布になった。何故か ac.jp のメイルアドレスでは登録できないため(契約書を詳細には読んでないため),プライベートなアドレスを使用して登録した。しかし,コンパイルしたバイナリが,やはり他のデフォルトのコンピュータでは,ある種のライブラリを追加インストールしないと動かない。cygwin でコンパイルしたものが,そのライブラリを必要とするのは仕方がない。しかし,MS 社は OS のメーカーである。その OS の標準ライブラリで動くようなバイナリをどうしてビルドできないのか。これでは,利用者を増やすことは難しいのではないか。
昔作ったバイナリの場合は,ライブラリと一緒に配布して,標準設定のコンピュータ利用者にも使ってもらえた。もっと昔のは,そのバイナリ単体で今でも使える。最新のは,どうなんだろう。やり方は今のところわからない。配付可能なライブラリがあるのであれば,最初からそれを OS に附属させておけばいいのではないのか。そうすれば,その OS を使うユーザは,プログラム開発も MS 社のもので行う可能性は高いだろうに。現状では,個別にダウンロード・インストールが必要だ。通信費もかかるし,それは MS 社の収入にもならないのだが・・・
もうひとつ! 自宅で作成したものを大学に持って行ってみたところ,FORM や各 Box 等の見た目が同じにはならないのだ。うぅーん。とても MS 社らしい結果だが,困ったものである。だから評判が悪いのにねぇ・・・インストールされているフォント等の都合(フォントサイズでビルドするのが最も違いが少ないのだが)のように見えるが,あのスライド関連ソフトでも相変わらず文字化け等が頻繁に生じる。

2011年12月11日日曜日

スポーツ応援

北朝鮮でのサッカー試合時の事情は,彼らからしたら今も戦時の敵国なんだろうが,戦争中であっても相手国の国歌・国旗には敬意を表することになっているのではないかと思ったのだが・・・微妙な内容になるとまずいのでこのくらいで止める。
さて,女子バレーボールもそうだが,日本チームのサービス時の声援と,相手国の場合との差や,試合中の声援というのは,僕はあまり好きになれない。声援というよりも,相手への威圧になっているような場合があるからだ。ゴルフのように,プレィヤーが動作に入ってボールが生きている間は静かにしたらどうなのか。ボールが死んだ段階で応援なり声援を送ればいいのではないか。
高校野球のバッター塁走中のガッツポーズは以前は禁止だったが,もうやり放題だ。相手に対する敬意というのがまずあって・・・というのが日本の文化だと聞いたことがあるのだが,こういうところだけグローバリゼーションを是認しておいて,経済・政治上ではそれに抵抗しても,説得力は無いのではないか。

2011年12月10日土曜日

バックライト:どんどん贅沢になっていく

先日,電子メモを購入した。手のひらに乗って,タッチペンで書き込み,99 枚分のメモが保存できる。注文時に既購入者のログを見たところ,暗いとか重いといった書き込みがあったので多少心配していたが,届いてみたら,いつも使っている電子辞書程度の明るさだし,150 g 程度で,いつもポケットに入れているわけではないので十分な軽さだと感じた。何故ネガティブな書き込みが多いのかなぁと思っていた・・・
同じ週のゼミで,携帯電話の充電の話になったので,2 週間に一回と発言したところ,全員に驚かれた。皆さん,二日程度で充電が必要で,部屋にいる間は充電器に置いたままにしているとか。で,再度,あの電子メモのログを見ると,バックライトをつけると 2 日くらいで電池が無くなるので,それを無しにして 2 ヶ月くらいの寿命を確保しているらしいとの発売社情報の書き込みがあった。
そうなんだぁ! 世の中の人たちは,もっと明るい液晶画面に慣れてしまっているから,こういうネガティブな書き込みが多いのだということがわかった。あの震災後の節電云々の盛り上がりはやはり単なる言葉だけだったのではないかと実感した次第だ。日本は極端だ。節電だというと廊下の電気を昼間は消してしまって,すれ違うまで相手が確認できずに挨拶が遅れる,かと思うと,事務室や公共の場はもちろん自宅の電灯は,アメリカのそれに比べたらものすごく明るい。目の色素の関係もあるでしょうが,日本も,もっと暗い人生でもいいのではないでしょうか。アメリカの下宿が暗いと感じたのは,着いて一ヶ月程度だったですよ。

2011年12月4日日曜日

ざんがいがさんがいにちらばっている

一階(いっかい)でエレベータに乗る。研究室は 13 階だ。ボタンを押す。しばらくすると着いてドアが開く。するとエレベータがしゃべる・・・「じゅうさんがいです」と。ほぉー,じゅうさんがいなんだ。忘れ物を思い出して 4 階まで降りることにした。ボタンを押す。しばらくするとドアが開いて「よんかいです」。あ,違った 3 階だ,面倒だからこのままエレベータで行こう・・・で,3 階に着く。エレベータが「さんがいです」。
うぅーむ。どういう規則なんだろう。他はすべて「かい」のようだ。ま,「ごがいです」とは言わんだろうなぁ。
さて,ドアが閉まりかけているエレベータのドアのセィフティ・ノブを押して開け,乗り込んだ。するとエレベータがおせっかいにも「かけこみ乗車(だったかな?)はおやめください」と。本当にムカッときましたよ。相変わらず瞬間湯沸かし器だねぇ,俺は。と思ったが,別にかけこんだわけではない。ゆっくりと歩き寄ってから,閉まりかけているドアを止めたのだ。ボタンよりもノブの方が大きいから確実だ。本当にムカッと来ましたよ。ちょっとだけ強くたたいたのは間違いないのだが・・・

2011年12月3日土曜日

予定を組むこと・・・必ずしも前向きではないが

先日の TV 番組では,建築家の安藤忠雄氏が中学校で講義をした。ネットで検索すると嫌いな人が多いようだ。あの打ちっ放しのコンクリートは僕も嫌いである。が,それは好き嫌い(自分の家があぁだったら嫌だというくらい)の問題なので,どうでもいいことだ。山口瞳さんのご自宅は打ちっ放しだったかな?
その授業中に,最初にヨーロッパを訪問したときのこと等に関連した質問が中学生から出たのだが(中身は忘れた),関連して,「これから何をするか。今日何をするか。将来何をするか。ということを常に考えるのが必要」という彼の発言には賛同する。特に,卒論のために研究室に配属された以降の大学生および大学院生は,自由に自分の生活時間を設計できる。大学に就職した教員も同様である。このとき,やはり一番大事なのは,まず「明日は何をやるか,どの問題を潰してやるか,どういうアプローチをしてみようか。」ということを頭に思い描くことだ。もちろん紙に書く(今は,携帯の電子メモもあるから便利だが)のがいい。これを毎日・毎週やることによって,自分の仕事の目的意識が保てるので,象牙の塔と揶揄されようと,誰も資金援助してくれなくとも,自分の好奇心を満足させるような研究を遂行できる。否,そうしないと遂行できないだろうと思う。
ところがである。「今日はこれをすればあれが解決するぞ」と意気込んで大学に行き,手を動かし始めた途端に「あ,これは先週やったのと結局は同じだ,駄目だ」となったときが困るのである。その日は,もう何も手につかない。ま,しかし,それが人生だ。

2011年11月27日日曜日

自覚のある人々

ブータン国王夫妻がおみえになった。一言! すがすがしい。

2011年11月26日土曜日

模範解答

学生による授業評価の自由記述欄に,相変わらず宿題の解答の説明を要求する文が続いている。
いま,振動の授業を担当している。学生だったときのとてもいいノートをそのまま講義ノートにしている。宿題も当時のものを持っているのだが,いくつかは僕自身が解けない。だから,それは宿題には出せない。卒業して 30 年以上経っていて,講義ノートも作るのではあるが,正しい解答を求められる自信が無い。それが実力というものではないのだろうか。大学生にもなって解答を教えてもらっても,やはり自分で見出せなかったものは駄目だろうと思うのであるが・・・学ぶことと覚えることとは全く次元が違うのである。
論文を読む。研究には必須だ。しかし中身がわからない。また,どうしてそういう結果になるのかわからない。数年いや 10 年後くらいに読み直してみると,あ,なぁんだと解けるものもあるがそれは極めて稀である。もちろん,誰も正解を教えてはくれないのだ。それが研究(企業での技術開発)というフィールドの実態ではないのか。
また,工場での技術の伝承では,よく,どこが悪いだの褒めるだのは無いまま技術の伝承が行われるのが実態だろう。教えたくても,言葉にできないことの方が多いんだろう。仕事の出来などの判定もそうだ。できそこないの成果は無言で捨てられるのが当然だろう。いちいち理由を聞いても教えてはくれないのが普通だろう。そこいらへんが,最近,学生さんや若い職員さんには通じないことである。

2011年11月20日日曜日

大学に金をつぎ込むこと

金をぶら下げてする研究,まさに実用化の研究,これは大学教員がやる必要が無い事業であろう。やってもいいけどね・・・本学工学部ではそうらしいんです・・・でも聞くところによると,力学の基本とか数値解析法の基礎は(土木以外では)きちんとは講義されていないらしい・・・大学は教育機関なのに・・・
企業も,大学には金をつぎ込むのではなく人を送り込み,金は自分の会社の研究部門(をちゃんと保持して)に注いで,大学で育ててもらった人をこき使って実用化する方がよっぽどいいものができるだろう。大学は人を育てる場所というのが第一義であり,研究の仕組ややり方を教える場所であって,実用物の開発の場ではないからだ。そういう基礎的な研究では,自分の道を失ったり,つまずいたりすることが多々あり得る。そこで必要なことを大学で学ぶのであると思うのだが。
しかし・・・金金金・・・・・という教員が回りにいっぱいいる・・・組織的に金集めを呼びかけてくるし・・・

2011年11月19日土曜日

男と女

先日の TV で,なるほどという情景を見た。女性を 10 名ほどバスに乗せておくと,そのうち会話が始まり,いろいろな情報交換をするというのだ。確かに(やらせかもしれないが)部分的な会話から全体に拡がって行く様子が見える。これに対し,男性の場合にはほぼ何も起きないし,会話も発生しないというのである。これもうなずける光景だった。
プールである。更衣室でよく会う方とはもちろん挨拶はする。そのうちお天気などの会話もするようになる。しかし,お仕事が何であるのか,どのあたりに暮らしているのかなどについてはお互いに全く聞き合わない。大抵は泳ぐことに関した情報交換である。たまたま受付の学生さんが僕を先生と呼んでしまうと,職業がばれるが,それほどお互いに深く知り合うことは無い。1 年以上経っても飲み会を開催するということもない。
しかしである。女性会員は,その男性の家族のことや住まいや職業も知っている。受付にいる女性が,ある男性会員のお嬢さんだということも知っている。女性同士だと,一ヶ月も経たないうちに,離婚したことなども含む,かなり高度な(?) 個人情報を得ているのである。すごいと思うが,厚かましいと思った方がいいのだろうか。しかし,僕自身が女性会員から根掘り葉掘りものを聞かれたことは無い。しかし,素性は既に広く知られている。性別の違いがここまでの差があるというのは驚きである。常連の飲み会も,女性からの働きかけで開催されることが多い。本当に不思議だ。

2011年11月13日日曜日

Q 連続体

まだ 5 年しか使っていない自宅のノート PC だが,同僚達はそんなに古いのは使わないらしい。HD のことなどがちょっと心配になったことなどを考えて,新しいノートを買った。Dos 窓 full window 表示でしか使えない自作ソフトがあることから,古い方も捨てるわけにはいかないので,HD を入れ替えて少しだけ寿命を長くしておくことにした。HD の丸々コピーソフトで作った HD を挿したところ,一度のリブートでそのまま使えるようになった。こういうバックアップは便利である。助かった。製造業さんの話だと,HD は寿命を 5 年に設定して設計製作されているそうだから,あと 5 年は・・・
さて,古い CPU が 1.66 GHz 0.99 GB RAM だったので,2.30 GHz 3.41 GB RAM でも十分だと考えて注文・購入。しかしである。LaTeX のコンパイルに時間が倍かかる。うぅーむ。何故なんだろう。素人には理解できない。しかしである。昨日それが(何もしてないのだが・・・)突然速くなった。どうやら設定がありそうだ・・・で,パフォーマンスと電源設定にようやく到達し,「省エネ」から「高パフォーマンス」に変更したところ 2 倍の速さに戻った。昨今は節電のてまに CPU にも休憩をとらせるようだ。ゆとり教育がこんなところにまで影響しているとは・・・
さて,ファイルシステムを眺めてみたら,`Q' というドライブ(パティション)がある。どうやらバックアップ・リカバリ用らしい。友人にそのことを話したら,さすが万能の力を持つ・・・一部の人にしか通じない会話だ・・・

2011年11月12日土曜日

分数をきちんと理解していますか? 僕は駄目

確率・統計が全く理解できない。解答を見ても,その解説を聞いても,それが正しいという確信が全く持てない。すべての場合をあげることができない。漏れがある,あるいは,あるのではないかと不安が消えない。確率なんか,小学生には無理だと信じている。
さて分数である。新聞に「言葉で説明して納得させる」のが必要という記事があり,簡単な分数の足し算の「正しい答」を出した児童に説明させて,間違った児童に納得させるのがいいとあった。しかし,中身は,小数に変換するか円グラフにしての説明だ。それが分数の本質だろうが,そこが理解できないのだから困っているんじゃないのか。つまり,「何故小数にするの?」「何故円グラフにしなければならないの?」がわからないのだ。これにわかり易く答えられる教諭がどのくらいいるのだろうか。分数の足し算を間違った児童も,小数の足し算は間違わないだろう。どうなの?
京都大学の故森毅先生の随筆に次のような記述があった。
小学校で 2/3 + 1/4 を計算させて,3/7 と答えた女子児童の分子さん(仮名)の解答を先生が×にしたところ,分子さんは正しいと主張した。彼女曰く「分子んちは一人っ子だから家族 3 人に女の人が 2 人です。だから女の人の割合は 2/3。そしてね,隣の数男君(仮名)ちは男兄弟だけの 4 人家族だから女の人は 1 人です。だから二つの家族で女の人の割合は (2+1)/(3+4) = 3/7 で,女の人の正しい『割合』になります。分数って割合ですよね先生?」と。「間違った答」をきちんと説明する分子さんを理解させられる教諭が,現在の日本に何人いるか疑問だ,というのが森先生の主張だったと記憶する。僕には説得できません。

2011年10月30日日曜日

第一式に第二式を代入してあげると第一式が喜ぶよ

TV の料理番組である。煮る前に**を処置しておくといいらしく「予め**を焼いて揚げる」ようにする必要があるらしいのだ。もちろん**は野菜なり魚である。あれっ? 3 回も火を通すんだ・・・
さて,先生達の中にも同じような表現をする人がいて,学生さんが真似ることになる。材料定数を設定して「あげる」とプログラムが喜んで答を出してくれるらしい。単に設定して「やった」だけでは起動すらしないプログラムがあるらしいのだ。数式も代入してあげないと,思ったような良好な関係式が得られないことがあるらしい。
ペットが家族の一員になっているらしい。しかしである。犬にはえさをあげるのではなく,やればいいだけだ。エレベータに乗っていると途中で他学科の学生さんが乗ってくる。目的地は一階のようだ。一階に着く。僕のためにドアを押さえていてあげようという学生さんは,最近はほとんどいない。先に降りようとすると仕方なしに,「開けてやるから,とっとと出ろよ」という目をしてボタンを押してはくださいますが。
昨今,普通の家族のような中での殺人やら他人との関係が非常に危ぶむべき状況になっている一方で,宇宙からの機械を擬人化した上で涙し,3 本も映画を作成するというのは,どこかがやはりおかしいのではないかと思うのであるが・・・

2011年10月29日土曜日

本当にそんなことしますかね

電子図書が増えてきているという。ま,僕の講義ノートなんて誰も出版してくれないから,昔からそもそも電子図書だ。印税も入らない。さて,そのリーダーの TV CM で「えっ,それってアリ?」というのを見た。タブレット様の画面に一ページが表示されている。縦書きである。さて次のページへと移ろうとしているのだろう。ページの左下に人の指が現れ,そちらからめくるのだ。これっておかしくないか。そんなことしたら左下の最後に読む部分は読めないじゃん。僕は(もちろん紙に印字された文庫本の)左上を人差し指を当ててちょこっとめくって次のページ側にその人差し指を差し込んだまま読み続け,左下に目が達したときにめくる。左手だけで読める。が,そんな行為をこのリーダーの画面上ではできないからなのだろうか。左下を読んでからめくっているのだろうか。悠長な人なんだなこの読者は・・・きっと。いや,CM が単にイメージでしか作られていないからかもしれないが,もしこのタブレットのページめくりの設定がそうなっているとしたら,ソフト屋さんの想像力が疑われるところだ。
学生さんが持ってたので,持ち運び用ハードディスク型音楽記録・再生装置を購入した。指をスライドさせて音量を調整するが,どうしても微調整ができない。曲を選ぶときにもスライド指を使うのだが,こっちはボタンも使えるので確実な選択が可能だ。ディジタル機器操作がアナログなところがすばらしいが,そのアナログな指スライドの感度を時間方向に漸増させられないだろうか。スライドさせ始めた最初は感度が悪く,少しずつしか動かないが,一周するころからは感度が良くなるようにするのだ。これだと微調整が可能になる。もう少し,老人にも便利にしてくれないものだろうか。

2011年10月23日日曜日

学生さんは偉いパートツー

夏学期に橋の見学のために現地集合をした。5 分前までに半分以上は来ているようだ。しかしそのあとが来ない。全員揃うのはたいていは約束の時刻よりもあとになる。プールで会うお母さんに聞いてみたところ,小学校等では 5 分前運動のような教育をしているはずだし,自分の息子はそういったことをした,とのことだった。今二十歳近くの学生が子供の頃にはもうしなくなっていたのかもしれない。マナーというのは昨今のハラスメントの定義に似ている。他人に嫌な思いをさせないことであって,何故という理由付きでやるべきこととは若干違う。おぉ,そうそう,学生さんだけではないぞぉ。教員,女性,多分三十代。会食で年上の招待者よりも先に弁当を開けて食べ始める。年上の教員の前を横切って資料を取る。僕は君にそういうことをされても怒らない人でしたっけね。
秋に,同様の橋の見学をした。准教授の車に 8 人乗るので,彼が連れて行ってくれる。全学教育キャンパス横の郵便局前で集合して 2 時に出発としてある。私がまず 10 分くらい前にそこにいる。准教授の車がほぼ同じタイミングで来て駐車する。そのあとが来ない。5 分ほど前に 6 人中 4 人がどうにか来ている。直前に一人だ。実は雨が気になったので,2 時ちょっと過ぎに出た。車が駐車場から出たのは 5 分過ぎくらいだったと思う。そして終了後,最後の一人からメイルが入っていて,数分遅れたので自転車で行きたいから橋の場所を教えて欲しいとのことだった。配付資料に橋の名前はあるのだが,それよりもさぁ・・・

2011年10月22日土曜日

男尊女卑の九州人

そういう風評がある。ほとんど当ってない,とどこかに書いたかな。ご主人が帰宅する。食卓横には魔法瓶が既にスタンバイ。その横には高級ではない焼酎の一升瓶(か紙パック:僕は,さつま島美人の紙パックをご近所の酒屋さんに取り寄せてもらっている)。さてご主人が着席して子供もそろうと,奥様が「おやっとさぁ(平らに発音した上で「さ」以降は上げていくこと:お疲れ様という意味)」と発声して食事が始まる。もちろんご主人はしょちゅである。「いただきます」と言うことは無い。鹿児島ではない九州の場合は,このあたりの細かい手続きは違っているが,ま,子供の前では,そして外では,ご主人には優しくしてくれる。ご夫婦で例えば結婚式に招かれたとする。会場では,たいていはご主人が偉そうに歩いている。これができない例えば九州外からの奥様は,早晩三行半を交付されるだろう。
なんだ,噂通りじゃないか。が,しかしである。その結婚式から帰宅すると実は家庭では奥様の方が主導権を持っている。多分「今日は付き合ってもらってありがとう。疲れただろう。」と,ご主人は奥様にはとても優しい。出張しても夜には奥様に電話をする。夫婦二人きりだと,たいていは奥様の方が地位は上だろう。しかし,表に出ると奥様はご主人を立てる(ような振りをする)必要がある。それが九州の男性を心地よくさせる。これをめんどくさいと思う例えば九州外からの奥様は,先に書いたような事態になるだろう。
大きな問題点は,九州男子が奥様だけでなくたいていの(もちろん個々に気に入らない異性はたくさんいるのだが!)女性に優しいことだろうか。あ,それって僕だけ・・・ごめん。

2011年10月16日日曜日

学生さんは偉い

学年当り 4 名くらいずつ担任になって年に 2 回面談をしなければならない。役所が褒めるシステムだが,正直くだらない。やっていることの 99% 程度の手間と時間と記録には意味が無いからだ。他に効果が上がるシステムがあって,僕らの学科ではそれを以前からやっていたが,結局,それと併用しなければならない,というより,後者の方が効果が上がるのだ。ま,頭の悪い人たちや役人さんたちが盛り上がっているだけなので,放置しておこう。
さて,2 時間目の講義(3 年生:1 年生も同じキャンパス)のあと,昼休みの 12 時から 13 時までその教室にいるから面談に来て欲しいというメイルを 1 年生に流す。あなたが学生だったら,いつ行きますか? もちろん大半は 12 時から 30 分以内のどこかで現れる。食堂が混むから,先に食事というのも十分納得できる。しかし,13 時 10 分くらい前に嫌そうな顔をしながら 2 名でつるんで来る学生がいた。1 年生だが二人で起業して社長でもやっているに違いない。

2011年10月15日土曜日

科学的に怪しい話

そんな話について最近は出版もされていて,中身はとても面白いらしい。TV の巨大なスーパーヒーローが着地したときに何が起こるか・・・等などである。
さて学生のころの週末夜のラジオで,某洋酒メーカー提供のクラシカル音楽付きトーク番組があった。芥川也寸志さんと野際陽子さんがゲストと面白い話をしながら音楽のこともしゃべる洒落た番組だった。その中で今でも少しおぼえている(僕が複数の記憶から作り上げたものもあるかも)怪しい話がある。
A) 大きなサボテンが二つ立っている。ある日,その片方をナイフでメチャクチャにしたとする。次の日,その同じ人物がそこに近づくと,もう一つのサボテンに流れる電流がとても異常になる。という生物関係の先生の話。
B) ゴビ砂漠に夜寝転がっている。すると,ときどき「シュゥー(だったかな?)」という音がする。それが,大きめの星が地平線から現れた瞬間の光が発する音なのだ。というのはどなただったか。単に静かなことを誇張しただけだったか。
芥川さんの話も面白かった。
C) 某楽団(確かアマチュアの)のシンバル奏者は真面目な方で何でも一所懸命。ある曲で打ったところ(座屈して飛び移り)シンバルが逆曲率に一瞬変形したあと,元に戻ったものだから二回鳴ったとか,取っ手が切れて転がって演奏中にガシャン・ガシャンと音が鳴ったとか,本当だろうか。
D) オーボー奏者にはハゲが多い。なにしろ必要な息の量は少ない上に鳴り難く,熱が頭に溜まってしまうから。
E) 髪の毛はアンテナ。音楽会で前に髪の長い女性がいたときは「振り向け,振り向け」と念じると,たいてい振り向く(芥川さんじゃなかったかな?)。
最近 TV は,内輪話だけのくだらないトーク番組ばかりでつまらないです。

2011年10月9日日曜日

情報過多をどうしたらいいって?

情報というキーワードで大学が改組したりしたのは一昔前。頭に来たのは,文科省への概算要求のキーワードとして情報とか環境を使ったあと(もちろん,役所が掲げた看板を褒めないと損になるからだが)に,そういうキーワードそのものに対して,その役所の役人(トップに近い)が馬鹿にしたことである。先生達が打ち上げたくだらないキーワードだったとでも言いたいようだった。本当に頭に来ました。とはいえ,役人の中で最低レベルと言われる文科省役人の,さらにその下に配置されている教員は,ま,ゴミみたいなものなのでしょう。
さて,情報量ということに戻るが,これ,つまり情報を「絞る」研究はどのくらい進んでいるのだろう。junk が多すぎる。論文数で業績が左右されるものだから,論文数が増えているのは当たり前だが,出版される論文集も増えている。それだけ研究が進んでいるのかと思いきや,学生さんが探してくる論文にも junk が多すぎる。なんでこんな論文が出版されているのか疑問だと感じるものが,国際論文集にもたくさんある。つまり,単に数が増えただけではないのだろうか,というのが昨今の状況ではないか。TV やインターネットでの情報もたくさんすぎてどれが適切な(嘘じゃない)のか判断するのが難しくなってきている。
これからは,洗練された,目的意識が明確な,より少ない情報提供者が望まれる。これを客観的に選択するにはどうしたらいい?

2011年10月8日土曜日

チェックというのは黒い四角

正規の大学職員というのはお役人さんである。教養ある人物である。近頃の出張書類等はすべてある会社製特定ソフト用の電子ファイルになっている。そこでは例えば支払い費目等を選ぶために,いわゆるチェックボックス(白抜きの四角)がある。つまりそこにはチェック(「レ」を左右反転して少し右に回転させた記号)を入れるはずなのであるが,その OS にはチェックが無いことから,実際にはそこをチェックすると黒い四角(黒で塗りつぶした四角)になる。そしてそのうち,大学の最下層のお役人さん達は,黒い四角をチェックと呼ぶのだと思い込むのである。
ある予算申請書を毎年のように書く。そこには予算の欄があって,例えば 10 円の鉛筆を 5 本買うことにする場合,「鉛筆:5 @ 10 円」と書けばいいのは火を見るより明らかなのであるが,ある種の上位役所からの例題に「×」が使っているものがあるため「鉛筆:5 ×@ 10 円」だったかな? のように,「@」と「×」を併用せよという修正命令が来るのである。丁寧に「@」の意味を説明しても,上からの命令だからとつっぱねられたので,こっちもつっぱねた。特に問題は起きなかった。起きるはずがない。
日本語の苦手な留学生からお役人さんに電話が来る。お役人さんは決して英語はしゃべらない。ゆっくりと何度も同じ内容の日本語を繰り返ししゃべっている。プライドがあるのだろう。僕らは日本人なのだと。フランス人だってフランス語を大事にするじゃないかと。もちろん総長は留学生を増やす宣言をしていてもである。結局,通訳をする学生や教職員が苦労するが,もちろん学生や教職員よりそのお役人さんの方が偉いのだ。あっちは公務員試験を合格してるしなぁ。困った。

2011年10月2日日曜日

異なっていることと変化させること

学生さんがレポートや卒論によく書く「気色の悪い」言葉がある。「変化」だ。例えば,ある材料が示すある特性が,その材料の強さによって違っているようなときに,学生さんは「材料の強さを変化させて,その材料の特性の変化を調べる」と書くのだ。いや,変化させる必要は無いのだ。強さの異なるいくつかの材料の特性を調べればいいだけである。元々,その材料を買ってきて,その強さを変化させるなんてことができるわけではない。動作が伴う動詞を,動作できない対象に使うのだ。困った。正しくは「異なる強さを持つ材料が示す特性の違いを調べる」はずだ。「異なる」「違い」「差」すべてが「変化」と読みかえられることが多い。生放送とはいえ,昨夜の TV でも偶々「二人の 100 m 走の記録には変わりがないから・・・」トホホ。
もう一つある。「評価」だ。秋田大の後藤文彦さんがこのあたりをどこかに書いていたような気もするが,たいていの学生さんは「評価=いいものとして認める」という意味で使っている。例えば「**というモデルを用いて予測される温度変化は概ね昨年の実測値と一致することから,このモデルは評価できる。」と書くのだ。「どう評価されるの」かはわからない。きっと彼らには「低い評価」という概念は無いのだろう。なぜだろう。こんな卒論は「低くしか評価」できないのであるが・・・日本語はやっぱ難しい。困った。

2011年10月1日土曜日

ハンディキャップを持った方用

朝日新聞の声の欄に「健常者は優先トイレ(使用)を控えて」欲しいとあったが,これは,悪意は無い(切羽詰った)健常者の利用もあり得るから難しい問題だ。健常者用のそれと同じスペースに並んでいる場合にはなおさらだ。優先トイレだけを店員が常駐している例えば化粧品売り場(客に化粧をしてくれるスペース)の奥に置くというのは駄目だろうか。店員の存在が健常者への抵抗になってくれないだろうか。しかも店員の手が空いているときは車椅子を押してあげるように指導をしておくのだ。ハンディキャップを持った方には逆に不便になるのだろうか。何か良い方策を考える必要があるとは思う。
これに対し,ハンディキャップを持った方用のエレベータボタンは,健常者は押さないようにすべきだろう。僕がいる機関では役所や執行部から節電を要求されていて,他の学科では 2 台のうち 1 台のエレベータを止める等,ちょっとどうかと思う対応を強いられている。僕がいる建物がリニューアルしたあと,エレベータの 1 基がハンディキャップを持った方に便利なようになった。いいことだと思った。ところがである。あまり頭の良くない非常勤職員さんは常に,普通のボタンとこのハンディキャップ者用のボタンの両方を押すのだ! 僕の目の前でやったので注意したが,どうも理由(ボタンによって異なるエレベータの動作)も納得してもらえなかったと見えて変な顔をされた。上述の節電のこともあったので,僕が手を出せるフロアのハンディキャップ者用ボタンのところには,「健常者は押さないで」というシールを貼った。効果が上がっているかどうかはわからないが,両方押す人を僕はその後目撃していない。もっとも,節電への効き目は疑問だが。

2011年9月25日日曜日

総合学習

ま,そもそも,こういうものが小学校で成立するはずがないのに,それを進めた元役人の悪口は既に書いた。相変わらず TV に出てきて,つまらんことを言っている。さて,友人の模型屋さんに,小学校 3 年生がグループでやってきたという。「仕入れ等の仕組や効率化や売れ残り予測についての質問ですか」と訊ねたところ,笑いながら「プラモデルって何でできているんですか」「今一番売れているのは何ですか」だそうだ。これじゃ総合学習ではなくって,単なる情報収集に過ぎない。
そもそも知識も知恵も無い小学生ごときが,総合学習のような,大学で呼ぶところの「デザイン型科目」をこなせるはずが無い。どう好意的に考えても,論理が成立しない。課題が与えられた(自ら見つけることは不可能だろう)として,まず文献調査をし,現状を分析し,それに考察を加え,衆人の前で発表する,という段階の「分析」で必要なのは知識だ。「考察」では知恵が必要だ。残りの二つは訓練しないと身に付かない技術だ。知識も知恵も無い訓練もされていない小学生には無理だろう。大学生でも・・・ムニャムニャ。
ところで,もう一つうかがった話・・・女子生徒の方が元気がいい。男子生徒はその子分みたいなものなんだそうだ。子供のときの成長は女性の方が早いらしいから,これは仕方がないだろう。僕もどっちかというと女子にいじめられていたような・・・今も小学校同窓会では何となく肩身が狭い。実は,大学院入試面接時もほぼ同様である。男の元気が無くなって既に長い時間が経ってしまったようだ。

2011年9月24日土曜日

世俗カンタータ

「遊びをせんとや生まれけん・・・」というのは,確か学生時代に TV CM で聞いた(観た)歌だったと思う。CM では前半だけが使われていて,何故か興味を持ったことから,どうやって調べたか覚えてない(当時はインターネットが無い,google が無い)が,後半まで調べて覚えた記憶がある。出典が「梁塵秘抄」というものだということも,そのときに知った。誰が編纂したかには全く興味は無かった。高校まで国語の試験は 90 点前後(もちろん 200 点満点でだ!)で,だいたい,クラス平均の若干下を維持できていたし,歴史等の社会は全校 400 人中下から 2 番等(あまりにもひどいときは,解答用紙の漢字の間違いを先生が赤で直してくださった上で点をくださったりした)をキープできていたから,こういうことには興味すら持ってなかったはずなのだが,きっと CM が面白かったんだろうね。
さて,その超訳本が出版された。訳者はあとでネットで調べてみると,「歎異抄」を大阪弁で訳した人だ。朝日の書評で見つけたのだが,面白い。少しは予測していたが,多くが「春」(いろんな意味で)を謳っているように訳されている。読んでいるうちに,「カルミナブラーナ」が頭の中に突然出現した。あ,そうか。「今様」というのは「世俗カンタータ」なんだな,きっと。オルフは,僕ら素人には,この曲くらいでしか知られていないだろう。しかし,TV の挿入曲としても多用されるし,衝撃的で面白い音楽(僕の恩師が「声を打楽器のように使って」と修飾した)である。歌詞はまた面白い。梁塵秘抄の超訳の方に近い。
この超訳を読んでいて,僕も普段のウップンを面白く調子をつけて書いてみたくなった。以下,駄作。
『大学は/習うんじゃなく/学ぶ場所//わからなければ/それが実力』
『大学に/行きたくないのも/わかります//教員だって/そうなんだから//だけど行かなきゃ/始まらぬ』
『宿題は/出すのが当然//それが学びの/入口だ//試験ってのは/その中にあるドア/開(あ)くかなぁ?』
『宿題を/写しただけで出す君は/なんにも理解できてない//期末試験は/絶望的だ』
『宿題を/締め切りあとに持ってった//点はやらぬと言う教員/おまえは鬼か/どうせ暇だろ//そう言う学生/大人にゃなれぬ』
『学生さん/部活だ趣味だとご多忙だ//週一宿題迷惑と/授業評価に記載する//君は何しに大学に/来たのか教えて/ちょうだいな』
『コピペして/復習しなけりゃ/意味は無い//コピーしただけ/罪深い』
『質問を/するのは君の権利だが//やってみるのも/君のため//失敗恐れて/何になる』
『期末試験/ 8割以上が回答の/ 6割以上で正解だ//模範解答/なんで必要』
『模範解答/聞いて覚えて何になる//どぉーせそれも/使えない』
『失敗を/したら友達/聞いてみろ//教えてくれる/友人持つのも/実力のうち』

2011年9月18日日曜日

地方の事情

鹿児島と仙台と TV CM を比べてみると,前者には方言使用がとても多いと感じる・・・ことは既に書いた。旅行者もいるだろうから使われている単語はほぼ標準的なものだが,イントネーションは「かごんまべん(最後は上げる)」だ・・・と見ていたら,時間帯によっては標準語をしゃべるバージョンもあるようだ。あの「・・・ケンミンショー」で,鹿児島の合言葉として紹介された「コームイン(最後は上げる)」はしかし,意味が通じないようだ。前にも書いたように,大学に進んで東京に行ってすぐ,吉祥寺駅の地下街のソフトクリーム売り場 (!) で「ソフトクリームをください」が通じなかった。東京の人は,そんなにイントネーションを聞いているのだろうか。英語は,確かに通じない,というのも前に書いた。
さて本題に入ろう。鹿児島のスーパー(2 軒見た)に,食パン 8 枚切りが無い! 何故だろう。そして 5 枚切りというのがある(4, 5, 6 枚切り)のだ。うぅーむ。仙台の場合のメインは 6, 8 枚だ.

2011年9月17日土曜日

学力を下げ理解を遅らせるスライド利用

大学院の講義室のマーカーが薄くなったのだが,僕以外は使ってないらしいことが判明した。私費で買って使っている。多分,ほぼ全員がスライドを使っているのだろう。しかし FD (faculty development: またぞろアメリカの真似でかつ英語)でも,スライドは使うなと指導されていたはずなんだが。学生にとってスクリーン上での講義は辛い。もらうのもスライドのコピーだ。紙面にはキーワードしかなく,数日すると何が目的なのかもわからなくなる。やはり,頭をちょっとだけ使いながら「写す」という行為には,脳の活性化と記憶という信号発信が含まれているのだろう。学生は板書は写すが,しゃべったことをメモする習慣はまだ身に付けてない。スライドはやめるべきだ。
さてそのスライドだが,皆さん某社のソフトの名称をお使いになる。決して「スライドのファイル」とは呼ばない。しかも僕の嫌いな短縮「パワポ」だ。あとたったの 3 音節 4 文字「ーイント」(英語的発音すればそもそも 2 音節?)なのだが。禁煙グッズか筋力トレーニンググッズみたいだ。
またそのスライドには(特に学生の場合)意味の無い・存在の必要が無い画像があって,それも,違う人が全く同じ画像を使う。意味が無いから使う必要はないし,個性は全く感じられない。グラフはカラーだが,線が細くて黄色や緑の線は無いのと同じだ。学会発表で見るスライドにも,こういった自己満足は少なくない。それから面白いことに,ポインタあるいは差し棒をスクリーン上の該当箇所に当てない発表が主流だ。いま,何をしゃべってるの? 画面にあるキーワードを一言も発しない。ポインタはスクリーン上をくるくる回っている。君は何が言いたいの? もう発表やめたら? 聞いているのが苦痛だ。

2011年9月11日日曜日

世の中,優先順位はどうなってる

被災証明があれば高速道路がロハなんだそうだ。で,仙台ではほぼ誰もが許可をもらえるらしい。マスコミによれば,停電したことすら被災になるとか。ふぅーん。たった 2 日電気が停まっただけだし面倒なので証明書をもらってない。
で,高速道路はどうなっているかというと,普段使わない人が路肩で写真を撮ったりしているとか,もっぱら農道を走っていた老夫婦がノロノロ運転をするとか,一番困るのはパンクが多いらしい。普段使わない人がタイヤ圧不足で走っているのが原因らしい(以上 NEXCO 東からの情報)。困ったものである。本当に被災して必要のために使う人以外の車の方が多いように聞こえてくる。
出口の料金所! これが問題だ。証明書確認のために時間がかかり,本線まで渋滞することがあるという。ということはだ,僕が走ったとすると,停電しただけでロハで利用する人と一緒に何十分も並んで金を払うのかね? えぇー? 何故? ETC は相変わらず優遇されているんだっけね? 料金所を次のようにして欲しいのだが・・・正規料金を払う人を最優先にして特設レーンを設けよ!

2011年9月10日土曜日

生かされている

震災直後から,TV に出てくる一般人(宗教家ではないという意味)が用いる言葉だ。高校野球の宣誓でも使われてしまっていた。どういう意味で使っているのかは難しい。自分だけが生き残ってしまった(代りに誰かが亡くなってしまった)ことを気持ちに含めているようにも聞こえるが,残念ながら真意は理解できない。人が自分でコントロールできない生命のことを指しているようにも聞こえるが,それは当たり前のことだ。あるいは,あの他力本願を庶民的な言葉にしたのだろうかとも推測していた。少し違和感はあるが,それは何だろう・・・と。
そこでお盆にお坊様と話をしてみましたよ。どうも他力本願とは若干違うのではないかという見解を得ましたよ。確かに宗教家や先生等からの影響もあるのだろうが,どういう意味で使われているかはわからないと。他力というのは,所詮自分では何もできないのだから「精一杯行きなさい」「生きるために殺生しなければならない(悪人)なら仕方がないからそれでも精一杯行きなさい」という能動的なもの。因果は神様が決めているからどうしようもないが,だからといって神様に誘導されているわけではない,受動的なものだというわけではない,精一杯生きたのなら(条件としては念仏を唱えれば)阿弥陀様が極楽に連れて行ってくれるというのが他力本願。微妙な違いだが,大事なのは能動的に生きていこうということだろう。それが他力本願。このお坊様からもらうカレンダーには「念仏唱えて今日も元気に生きましょう」とある。これは「生かされている」よりも前向きだ。念仏のところは,ま,置いておいて・・・ね。そして,そのお坊様は TV に出てきた若い女性が家族を亡くしているにも拘らず「しっかり生きていきます」という言葉を笑顔で発したことに感動を覚え,これが本当の生き方だとおっしゃってた。

2011年9月4日日曜日

数字の「7」にはなぜ「チョン」がある?

東京大学出版会の季刊誌に注釈を多用した随筆がある。シリーズ名はとっても洒落た「注文(ちゅうぶん)の多い雑文」で,著者は須藤靖先生だ。また同誌では,「科学・技術」に中黒が必要かどうかについて,理学系(?)の上出先生と工学系(?)の木村先生で 180 度違う文章が載っていて,拙著にも書いたように僕は前者に賛同するのだが,須藤先生は最近その後者への反論を出しておられる。が,本日はそのことではない。なんじゃそりゃ。
須藤先生が,片手で 10 以上まで数えられるインドのやり方等を紹介しながら,アラビア数字の謎について書いておられた。実は上の図は,チュニジアからの留学生が僕に教えてくれたものだが,角の数で値を表したのがアラビア数字であるとのこと。だから零には角があってはならないのであり,斜めに棒を引いてはいけないのである。なお,アラビア数字には,今僕らが使っているのとちょっと違うものもあり,それはアラブ文化圏では今でも使われていると聞いた。
上の図が正しいかどうかはともかくとして,日本人のかなりの数の人たち(理系だけかも)が数字の「7」の腹に「チョン」を書く。僕は大学に入ってからそれに気付いたような気がするが,すぐに真似るようになった。そして留学先のアメリカで使って,ボスに「これは付けるな」と叱られた。どうして? ただ,どうしてそれが付いたのかは知らなかった。「7」があまりにもあっさりとしたデザインなのでアクセントを付けたのか,と考えていたが,上の図からはその「チョン」が必須であることが理解できる。面白いねぇ。

2011年9月3日土曜日

東北人に比べれば不真面目な九州人

全国チェーンのコンビニの TV CM である。鹿児島である。店を訪れたおばちゃん(微妙に顔が見えない)が鹿児島弁で「これから家族で海に行くからおにぎりを買いにきたんです」店員「あぁそうですか」おばちゃん「ところで私はこの歳でビキニを着てもいいですかねぇ」店員「あっ・・・」と逃げる。てなものは仙台ではついぞ見たことが無いぞ。東北人は真面目だというが,それと関係しているのだろうか。仙台でこれをやると顰蹙を買うのであろうか。もちろん僕ら九州人が不真面目だと言っているのだが。あ,僕だけ?
どの講義だったか忘れたが,九州人に歌手(クラシカルミュージックの範疇)が多いのは,気候のせいで(ぼぉーっと口を開けて暮らしても死なないで)喉にストレスがたまってないからと言った先生がいた。ま,言い換えれば,ほとんど僕らはクルクルパーだと言っているのと同じなのだが,僕自身もそうかなぁと実感している。ウェイトレス等に何か面白いことを言いたくて仕方が無い。しかもくだらんことを。あ,これも僕だけ?
アメリカ中西部にいたとき,一年中気候が穏やかなカリフォルニア人(一年中緊張感が無いから)のことをアンポンタンだと言った米国人がいた。それと同じだな。かな?

2011年8月28日日曜日

中学校の放射線教育と性病教育

中学校の「理科」で放射線のことを教え始める(復活する)そうだ。ただ,TV に出た中学校教師曰く「どのくらいで悪影響が出るのかわかれば」・・・トホホだ。専門家でもわからんことが,中学校教育くらいでわかると思っているのだ。今問題になっている濃度は微妙な範囲だと TV でも言われているのにだ・・・本当にトホホだ・・・あるいはそれを期待している。そんなことせんで,広島と長崎に生徒を連れて行って,原爆で何が発生して人体に何をするのかを一度見せれば済むのではないか。誰もが嫌いな「理科」でそんなこと習ったって,興味も持てないだろう。どのくらいで悪影響が出るのかすぐにわかる性病教育ですら,このざまなんだから・・・
キューリー夫人のことは教えないのだろうか。X 線も教えないでレントゲン検診を受けさせているのだろうか。StarTrek で,データ少佐が壊れてある星に降り,放射線物質に対峙するストーリー等は,今の日本人の大半が理解できないというのだろうか。驚きである。困ったことである。

2011年8月27日土曜日

政治家は一時的な人気取りの連続で人生を過ごす

福島県の放射能関係のがれきは「県外」に廃棄するそうだ。どこ? 日本中の人の権利,安全を享受する権利は同じレベルではなかったか。確かに,福島県人は直接の被害者だからまず優先的にというのはわかる。しかし既に小学校の校庭の土の廃棄では,同じ福島県内でゴタゴタが起きた。無能無策な政府(その後ろにいる無能なブレイン達)が動かしている国ならではの光景だ。県外に持ち出してばら撒けば(おや? ばら撒きは現政権の得意技だったぜ)濃度が相対的に薄くなるからというのか? ばら撒きがいいのか,集中の方がいいのか。集中で考えてみよう。
とりあえず,福島原発の敷地内にそういった弱い放射能がれき置き場を除染装置付きで土木的に作ったうえで,そこに集約するのかなぁ。敷地は広そうだし。原発そのものと沿岸部の隔離設備(土木的建屋・堤防等の海陸上に設置)もそろそろ着手したらどうなのだろうと・・・何もしないで 5 ヶ月過ぎた。
もし電力会社集団が今でもやろうとしている低レベル廃棄物地下保管処理のシミュレーションが正しい(深さとか・・・)のであれば,その地下にまず埋設するんだろうなぁ。すごい大きさの穴が必要だ。土木の技術革新が必要だ。そして埋めた途端に,節理を通した汚染の拡大が発見されるという悲観的な見通しがあるかもしれない。一体,どうしたらいいんだろう。

2011年8月21日日曜日

この期に及んでもなお責任逃れの大連立

結果論で申し訳ないが,幸い僕は民主党には投票していない。そもそも権力を持ったらねじれ国会になることは事前にわかっていたということは,一党で責任をもって政をすると主張していたのではないのだろうか。投票した人はそれを期待して,票を投じたのではないのか。それが,未熟なおのれのせいで物事が前に進まなくなった途端,子供と同じで責任を投げ出しておじさんおばさん(他党)に協力をお願いする。そういえば,政権をとった当初から子供のような総理大臣は野党の協力をお願いしていたっけ。みっともない態度だったのだが,政権を取るという覚悟はやはりなかったのではないのか。とっとと辞めてもらったらどうだろう。どうせこの党はごった煮なんだから,まずポリシーが同じグループごとに分割してしまってから出直したらどうか。2 大政党制とかくだらない馬鹿なことを言って,訳のわからないカタカナ言葉を氾濫させてきたが,そんなことは僕らは望んでもいない。
結局,この党に安易に投票した人たちがいたとしたら,それもしっかり反省すべきであり,次回に向けてのきちんとした態度を今のうちに決めておく必要があるだろう。政党を批判すると同時に,幼稚な政党を選んだことを反省する必要もあるのではないか。

2011年8月20日土曜日

マスコミ特有の言葉の実際の解釈

帰省先での友人や先輩のお話から想像するに,あの大地震で仙台市内もがれきの山だと思っておられるように強く感じる。
マスコミ,特に TV はそもそも一番ひどいところ「だけ」を示した上で,そこ「だけ」に適用されるコメント「のみ」を述べる機関だということを,日本人は忘れかけているのではないだろうか。私がある種の指導を受けた先生(大学教員である)のお言葉は「活字(TV での発言も録画できることから活字と一緒!)は信じちゃいけない!」である。
例えばマスコミの表現は「どこそこでは(真意:どこそこが最も厳しい現場だがそこでは)」「あれこれが起こって(真意:ひどいものではあれこれという事態が発生しているという情報があるが記者自身は目撃していない)」「だれそれたちが(真意:聞くところによるとだれそれたちというグループもひとつの可能性であるが,もしかしたら***という社会の情勢の方が)」「ご覧のようにどこそこでは(真意:記者が立ち寄れる場所で最もひどい状況はご覧いただいているどこそこであるが,そこまでは問題なく到達できたので安心して欲しい)」のように読み(聞き)直す必要がある。
最近見たメチャクチャな具体例を書いておく。大雨で大河があふれかかっている。注意して欲しい。洪水が発生しているわけではない。画面では河川敷内のビニールハウスが冠水している。コメントを述べている役人さんは正しいことを言っているのだが,アナウンサーとレポーターはあたかも洪水して畑が冠水していると言いたくてたまらない様子だ。きわめつけはそこにある橋だ。橋はメインの河道では冠水しないレベルで跨いでいるが,河川敷に人を下ろす必要から河川敷地内は洪水レベルよりも低いレベルに下りている。そこが冠水しているのだ。それをマスコミの連中は洪水と言いたくてたまらない。役人さんはきちんとその構造を説明しているのにである。疑い深くて人の言うことを素直に聞けなくなっているのか,ひょっとすると頭が悪いのだろう。
という僕のブログも,ある一部のマスコミの一番ひどい挙動だけを見てそれが真実であるかのように批判しているに過ぎないが。実は・・・帰省して,初めてお会いした方々に仙台から来たと申し上げて,その後の会話に「地震」「津波」があった方はいなかった。そのくらい遠い存在なのだ,九州は。

2011年8月14日日曜日

古楽器が本当にベストなのか

クラシック音楽,正しくはクラシカル音楽の古典,例えばバロックの範疇に入る音楽を演奏するには古楽器を使う「べきだ」という主張があると聞く。ま,好みの問題としてそういった古い音楽に興奮しない素人の僕としては,お好きなようにと言わざるを得ない。が,ちょっと待ってくれ。聞きかじりでは,具体的に A 音の周波数は時代が現代に進むに連れて少しずつ高くなっているはずだ。そして多分,ある速度符号の演奏速度も速くなっているのではないか。
ならね,古楽器を使う「べきだ」という人たちは,ピッチ(だったけ? その A 音の周波数)も当時の設定に合わせた上で,速度も遅くして欲しいものだ。そうした上で,現代人のサポートが得られるなら,その「べきだ」を僕も認めましょう。ま,僕が認めようとそうでなかろうとどうでもいいことではあるが。もし,過半数の現代人が,例えば退屈だと感じるのであれば,その「べきだ」の根拠をもう少し論理的に示して欲しいと思う・・・そう思うようになってもう 30 年は生きているのだが・・・

2011年8月13日土曜日

日本語は難しい

以前,「地球に優しい」という言葉はおかしいとおっしゃる先生がおられた。もう理由は忘れてしまったが,そのときは納得した記憶がある。何のこっちゃ!
マスコミが「感動」という言葉を頻繁に使う。別に感動しないものに対してもである。一部の人が「興奮」できるものは,マスコミにとっては視聴者全員の「感動」であるらしい。だから「興奮させる」ことを「感動をあげる」という表現になるのだろう。「興奮」は人それぞれが勝手に抱くものであって,もらえたっけ。もらったことは無いような気がする。
さて震災以降,飽きるほど聞こえてくる言葉がある。「がんばる」「勇気」だ。そして,それを「あげたり」「もらったり」できるというのだ。うぅーむ。よくわからない。被災者の中には,いわゆる「うつ」に近い人もいるだろう。がんばってるのに事態が好転しない毎日を送っている人だ。そんな人に「がんばれ」と言ったら,もっと落ち込む。いわゆる「うつのスパイラル」への入口は「がんばれ」という言葉なんだそうだから。本人はがんばっているのにできないことを悩んでいるところに「がんばれ」は無いよね。女子サッカーが世界一になったことが,どうやったら「勇気」に結び付くのか,ちょっと想像できないでいて,毎日悩んでいるのだが,勇気を持ってブログに書いてみた。

2011年8月7日日曜日

優良地方銀行ひちじゅうひちぎんこう

『七』は何と読みますか? 「ひち」ですよね。ってのが間違っているらしいのを知ったのは 30 歳を越えてからだったと思う。とても驚いたねぇ。「質屋」は「しちや」だが「七変化」は「ひちへんげ」だろう。困ったねぇ。西の方では「ひち」と発音しないのだろうか。
そうそう,一度小さい国際会議を主催したとき,同伴者用にガイドをある方にお願いしたところ,お子さん達に日本語の数字の読みをジェスチャ付きで教えてくださった。つまり,どこか引っかきながら itchy,ひざを触って knee,天を指差して sun,女性に対して she,歩き始めて go,岩か錠を指差し rock? lock? かな?,何か動作して? hitch,マンホールを指差して hatch,親指出して cue,10 は忘れた。あれ?「ひち」じゃん!

2011年8月6日土曜日

壊れる椅子のある風景

建築家という人たちは,何を目的にして建物や家具を設計しているのだろう・・・という風景がうちの大学にはある。
工学部の食堂周辺が改築された。食堂は広くなったように思うが,座席数は少なくなったようでもあり,効率が悪くなったのだけは間違いがない。一番ストレスを持ってはいけない施設,廉かろうまずかろうではあっても食べる場所,そこで毎日ストレスが溜まっている昨今である。その中に,サンドゥイッチをサービスするスペースがある。先日混雑していたので,学生さんとそのスペースに座った。
すると! である。机の上にメモが置いてあるのだ。『椅子と机を引きずらないでください。足が壊れます。』とある。食堂が竣工して什器が運び込まれた初日から,普通に使用して(引きずらない机や椅子がどこにあるのだろう)壊れる可能性のある設計がなされているのだ。何とも不思議な空間・風景である。見てくれを第一にしたのだろうか。予算が無くなったので仕方なく納品させたのだろうか。実は,その他のスペースにある机にも問題がある。食堂を大人数で効率的に使うには,同規格品を整然と並べるのが最良だと信じているのだが,ここには何種類もの異なる大きさと形の机が雑然と並べてある。あくまでも見てくれ重視だ。正方形で一辺に二人座れる「長さ」にはなっている(形だけからは八人座れる)ものの,食事を載せたトレーを机に置こうとすると,六つしか載らないのである。そして机の中央には何も載ってない意味の無いスペースが残る。うぅーむ,不思議だ。
で,先の壊れる椅子や机を皆さん引きずらないのかと見ていると,ほぼ全員が引きずっている。しかも床の材質との関係でその音がものすごいのだ。グループが着席・起立するたびに 10 秒ほど,会話が聞きづらくなる。うぅーむ,建築家という生物は不思議だ。

2011年7月31日日曜日

予防医学は必要だがもう少しマナーを

集団検診の結果が送られてくる時期には憂鬱になる。既に指摘されて治療していることについて,また,精密検査や産業医との面談が必要と書いてくるのである。また,ボーダーに近い数値についても同様だ。過去の履歴に基づいた指摘ではないのである。ずぅーっとその値が続いていても指摘する。ようやく昨年くらいから少し改善されて,治療中だとそれを続けるようにという記述に変わったが,それでも面談が必要と書いてあることがある。集団検診よりも精密な血液検査を頻繁にやっていて,より精度の高いデータをしかも時系列で医者に眺めてみてもらっていてもである。血圧すら機械測定である。高めに出ることは承知の上だが,またそこで一言あって深呼吸させられる。いつもと同じ数値じゃないかと不愉快になる。
通常の医者による検査結果の診断よりもいいかげんに,集団検診検査機関は結果を診断しえいるだろう。だって,そんなに金をかけられないから。だから手抜きの報告書が送られてきて,既に患者になっている者は不愉快な思いをしている。

2011年7月30日土曜日

博物館の音声案内-みなさんとても勉強熱心

先日,友人がくれたチケットで久しぶりに博物館に行った。某企画の最終日だったこともあって混雑していたが,まず驚いたのは,多くの人が音声案内を借りていること。お勉強をしたいのだろうか。熱心なものだ・・・また,ガラスに沿って列を作って並んでいる。前方の人が動かない限り,ご自分も動かない。展示紹介をすべてといっていいくらい読んでいる。だから列はなかなか進まない。僕らはこんなに勉強熱心だったっけ。これに比べると,大学生は不真面目だねぇ。教科書もろくに読まない。
列からずれて,隙間が空いている展示を見ながら行ったり来たりする。これで,ほとんどすべてを見ることができる。どうせ,自分自身にとって印象的な展示は数えるほどだ。だから,すべての展示紹介を読むわけでもない。むしろ,紹介文よりもその「ブツ」を見て自分がどう感じるのかが大事ではないのか。気に入ったものは,前横うしろ斜め下から・・・という風に眺めまわす。そうやってみても,2 時間はゆっくり楽しめる。
絵も同様だ。まずサラッと眺めてみる。中に印象的なものがいくつかある。そいつをじっくり楽しむ,空想する,夢想する・・・これでも 1 時間は楽しめる。ピンと来ない「ブツ」をいくら眺めても,頭は活性化されないと思うのだが・・・

2011年7月24日日曜日

産地を明記して風評被害を増やそうってか

牛肉の汚染発覚の後,インタビューで「少なくとも産地を明記して欲しい」という消費者の声が出ていた。つまり,このおばちゃんは,「福島」とあれば,それが福島のどこであろうと何であろうと買わないわけだ。あるいは「福島」と「宮城」の違いも分からないおばちゃんの場合はついでに東北地方産はすべて買わないわけだ。「仙台」が「宮城」の県庁所在地だと知らない九州人が少なくないかもしれないことは,出身者としては容易に想像できる。あの下品な「チームドラゴンのリーダ」がいみじくも発言した通りだろう。「仙台」が「岩手」や「青森」にあると思っている九州人もそんなに少なくないのではないか。なにしろ「宮城」も「岩手」も県庁所在地が「宮城市」「岩手市」ではないのだから。風評被害は産地明記で益々大きくなる運命にあるように思えてならない。
「人の噂も七十五日」とは言うけれど,一度駄目になるとなかなか元に戻らないのが風評なり噂である。本学工学部は一時期,入試における英語の比率を下げていた。そのころの学生には「英語が苦手なので東北大を」と明言する者がいた。それが10年以上経った今でも,英語の能力は他大学学生よりも低いように感じる。この入試は自業自得ではあるが,風評被害は一番厄介である。

2011年7月23日土曜日

日本の未来は大阪のおばちゃんが

女子サッカーが快挙だ。女性の方が元気がいいのは,もう何年も前からだ。入試や職員採用の面接でも,きちんと答えられるのは女性の方が多い。この手の面接では女性の方が分母が少ないから,実力として女性の方が上なのだろうと推測する。男がますます子供化している,と大人気ない僕が書いても説得力が無いか。前にも書いたが,廊下を拡がって道を空けないのは男子学生の方が多くなった。レジでまごまごしたり他人を思い量らないのも男性が増えてきた。恋人同士でレジにいて,愚図愚図する男性をたしなめるのも女性だ。日本の未来は女性に託さないといけないのかもしれない。
ところで電力の融通が東西日本でうまくいかない理由の一つに周波数の違いが挙げられたとき,某 TV「・・・いいんかい」番組で,これが好機だから全国 60 Hz に統一して大阪文化を日本の標準にしようじゃないか,というのがあった。電車に秩序無く乗り込む文化は困ったものであるが,レジで支払ったところで「ありがとう」や「ごちそうさま」と言うのはかっこいいでしょ。無言の東京人・・・客はそんなに偉いのかい。ま,そんな枝葉末節はともかく,このままこの計画が進むと,日本の将来を大阪のおばちゃん達が支えることになりそうだ。それはそれで厄介かな。

2011年7月17日日曜日

やらせた役所がやらせを叱る

資源エネルギ庁が各電力会社に,原発関係の事項に関してやらせをしたかどうかを調べさせているという。そもそも無条件に原発を推進させてきた役所がである。それを反省しているからではなく,やらせを叱るための調査をしているのである。どこかおかしくないか。いや,完全におかしいのではないか。理解できない。
化石燃料を使わず,脱ダムをし,原発を停止し,エアコンは使うなとのお達しだ。国民には無理を通した上で,苦しんだ会社のモラルには厳しい。やっぱり,苦しんでいないのは役人と政治家だけじゃないのだろうか。理解できない。
御厨氏の投稿を読むと,復興会議でも役人は腰が引けているそうだ。それは民主党への嫌がらせかもしれないが,専門家としての提案をするために,あの難しい国家公務員試験に合格したのではないのか。責任逃れをしているとしか思えない。

2011年7月16日土曜日

10 年間だまされていた

正解はネットのあちこちにあるのだが・・・
留学する直前にイギリス大使館がバックにいる著名な英語学校に一ヶ月だけ(とはいえ数回の通学だが)通った。成績はとっても悪かったが,普段回りにいる人と違う人達と会えたことは,実は大きな驚きだった。井の中の蛙という言葉を実感した機会だった。そこで某私立大学の文系の同年代の学生さん達と仲良くなり,昼食等を共にしたこともあった。そのとき,彼ら曰く「『納豆』という漢字は豆を箱に納める(おさめる)と書くから豆腐のことで,『豆腐』は豆を腐らせると書くので納豆である。中国では逆なのだ。」と親切に教えてもらった。それから 10 年間,信じてしまったよ。
日本に戻ってきて数年経ったあるとき,学食で学生と食べていたときに隣によく知っている中国人の女性がいたので,この話をその場で日本人学生に披露したあと,その中国人に「だよね?」と言った途端,「先生ぇ,馬ぁ鹿ぁじゃないのぉ。中国でも豆腐は豆腐だぁよ!」と怒られた。で先日,あまりにも多くのことを知らない卒論生にこの嘘を吹き込んでおいた。信じたかどうかわからないが・・・元不良公務員の悪戯・・・

2011年7月10日日曜日

早くっ!は二度生きる

学内の裏方準備室での雑談で,和製英語等の話をしていたところ,某先生の英語では形容詞が 2 回繰り返されるということが明らかになった。これは実はタイ英語だとか。うぅーむ。そういえば,もしかしたら『早くして欲しい』ときには万国共通で繰り返しになるのではないか? と僕が気付いた。知っているものを列挙してみよう。
‘早く早く’`quick quick,' `schnell schnell,'‘ハバハバ’だ!
だから英語では `on the double' って言うこともあるのかってのは冗談である。もちろん `double' はそういう意味では使われていない。もう一つの言い回しで,よく映画で聞こえてくるのは `step on it' だ。こっちの語源は知っている。

2011年7月9日土曜日

いかれた人は降り【れ】ないから,あぁ疲れる

鹿児島市バス内アナウンスで,「**へはこちらで降りられると便利です」というのがある。多分,そこでは普通はバスは停まらず,日頃の行いがいい場合に限ってラッキーなことにそこで降りることができて**に行き易いのだろうなぁ。
学生さんと,例えば助教授先生が先週どこそこに行ってきたという話をしていて,僕に対して学生さんが「先生もいかれたのですか」と話しかける。確かに僕は 40 歳を越えたくらいで頭が相当イカレてきたなぁと改めて思い直し,反省することになる。
学生さんや秘書さんと廊下で会うと「お疲れ様です」と言われる。特に疲れているわけでもないので「疲れてない」と答えると変な顔をされる。どうやら土木の業界用語ではないかと疑っている。そういえば最近,代わりに「お元気様です」と言ったらどうかとかいう番組を見た。何のことかはわからないが・・・
最近(10 年ほど前に)知ったのだが,目上には「ご苦労様です」とごあいさつしてはいけないらしい。土木関係の人はこれ頻発しませんかねぇ。僕は誰にでも「おす!」「ちわ!」だ。面倒だし。目上には頭を下げて「こんにちは」だ。どうして「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」と言う学生さんがいないのだろう。勉強をし過ぎてみんなかなり疲れてきて,イカレているらしい。イカレていたらろくな論文は書けないよ!

2011年7月4日月曜日

九州人の代表か?君は?

松本何某大臣(この人にはその資格が無いだろう)が東北地方で暴言(本人は全くそう思っていない・・・多分今でも)を発し,それを九州人だから云々と馬鹿を言ったようだ。
こんな下品な人間が九州人だと思われるのは心外であろう。僕は気に入らない。極めて下品な人間だというだけだ。なんで,自分が九州人の代表みたいに思っているのか?わからない。阿呆は阿呆だ。九州人だからではないのである。頭も悪いし品も無い。こんな人間が九州の標準的な人間だと思われては困るし,そういう発言をする松本は傲慢であろう。あぁーあ。

2011年7月3日日曜日

電話になっちゃったメイル

電子メイルが便利だったのは,受け取る人の都合や状況を考えずに自由に連絡ができることだった。電話だと,例えば来客中とか忙しいときにすると迷惑ではないかということを常に考えた上に,通じたときに「今よろしいでしょうか」と挨拶をしないといけなかった。その不自由を開放したのがメイルだったのだ。ところが,携帯電話のメイルが主流になった昨今,例えば学生さんを呼び出そうとしたとき,「うぅーむ,今はまだ授業中かもしれないなぁ」とか,「夜はまずいかなぁ」とか逡巡しないといけなくなった。不便だ。
この携帯電話のメイル。面白いことがあった。1 年生のパソコン教室を担当したとき,大学のパソコンから携帯にメイルをさせて,それに対して自分の顔写真を添付して大学に返信する作業を指示した。すると「パソコンってすっげぇー。電子メイルができるんだ!」というのだ。彼らにとっては無線のメイルがまず当然であって,それが机の上のマシンとやり取りできる方が不思議だったのだ。思わず笑ってしまった。

2011年7月2日土曜日

味には全く自信は無い

こんにゃくを冷凍したことがある。煮物を日曜日に作ってちょっと不安だったので冷凍したのだが,「こりゃ何?」という物質になる。知らなかったからだが,友人に報告したところ「そういう別の食べ物だと思って食べなさい」ということだった。なるほどである。
随分前だが,Y 屋の牛丼弁当を学生さんが買ってくるからというので,一緒に頼んだことがある。ちょっと遅くまで仕事をしなければならなかったからだと思う。そのときが初めてであったが,食べて「牛肉が入っているの?」というのが第一印象だった。以来,二度と食べたことがない。これもまた別の食べ物なのだろう。しかし世間ではかなりの人気があることから,この味と舌触りなりが標準なのだろうとは思ってはみているのだが,僕には受け入れられなかった。
シカゴ美術館の中庭のレストランにはローストビーフを挟んだフレンチディップのパンがあったと思うが,これがうまい。しかし,日本人の友人は臭くていやだと言った。肉の味とえぐさだと思うのだが。日本の和牛が出される高級レストランの牛は,この肉さ! が無いように思う。豆腐のように柔らかいし,えぐくない。しかし,それが現代の日本人の嗜好らしい。

2011年6月26日日曜日

時計をもどしたら

エナジ・セイビング・タイム,いわゆるサマータイムであるが,我が国は戦前に失敗したというのに,その同じ方法をやろうとしている企業がある。諸外国のサマータイムは時計そのものをある週末に一時間進めて始まる。我が国がやったことは,時計はそのまま,9 to 5 を 8 to 4 に変えた。もちろん失敗である。だって,11 時にランチをしたいと思うか? と,ちょっと立ち止まって考えればいい。お昼はお昼だ。
これだけ電子時計が増えたのであれば,時計を一時間変更するのは簡単だ。学生さんは大喜びなはずだ。というのも,授業が終わってから(仙台でも)夜 8 時まで戸外でテニスができる,サッカーができる(放射線が飛んでこなければ)。朝,少しだけではあっても暑くなる前に起きることになる。電気使用の削減に効くかどうかはわからない(どうでもいいのである)が,時計を変える本物のやり方を試行する絶好のチャンスかもしれない。ただし,秋にはすごいインパクトがある。時計を元に戻した次の月曜の夕方退社時・・・突然真っ暗になるのだ! しかし冬を強く感じることができていいかもよ。

2011年6月25日土曜日

藤原道山さんの尺八

年始にぼぉーっと TV を流しっぱなしにしていたら,この人の活動の番組だった。既成概念としての尺八を変えたいとか・・・で,三味線とピアソラもやっているようだ。しかし,どうも武満徹のノヴェンバーステップスの琵琶と尺八による和的な静寂と狂喜(狂気?)のようなものではなく,ポップスのように聞こえてしまった。ま,そこがねらいなのだろうね。
もちろん武満さんのもご存知なのだろうと推測したのだが,ちょっと残念だ。きっと僕にその既成概念があり過ぎるのかもしれないが・・・と続けて番組を聴いていたら,お師匠さんが山本邦山さん。お師匠さんはノヴェンバーステップスを演奏していました。なるほど。だが,ちょっと違う方向の新しい音楽のような感じです。
しかし,この方のように,没頭してやることができる仕事を持っているというのは素敵である。最近,卒論等の学生さんで,没頭してしまうような姿を見せる人は半分くらいしかいない。言ったことをするだけだ。楽しそうでもない。なんのために大学に入って仕事に就こうと思っているのだろう。そういう姿勢でやる将来の仕事は楽しいと思っているのだろうか。そういえば現場でも,新入社員のガッツが無いという不満があるように OB から聞こえてくることがある。土木の分野の学生さんもみんな,いわゆる草食系になってしまったのだろうか。仕事が楽しくないから数年で辞めるのだろうか。

2011年6月19日日曜日

嗜好品に地方税

消費税の増が聞こえている。容易なところから金を集めて無駄に使おうというところか。いつもいつも「無駄を抑えて・・・」と言われながら,国は無駄使いをやめずに,国民には電気使用の節約を強制している。説得力が無いから,従う気も起きない。
ところで,酒やたばこに地方税はかけられないのか。あるいはかかってないのか。アメリカでは,確か(定かではないが),ビールは定価+国税+州税+地方税の合計で売っていたのではなかったかなぁー。これを県や市町村毎に決めることができれば,例えば都会から人を追い出すこともできるし,過疎地域に人を集めることもできるかもしれない。ま,いつも言うように,経済は不得手なので,どういう効果があるかわからないが,必要な部署が必要に応じて金を集めるというのは効率的であるように感じる。なぜ消費税は全国一律なのだろう。国が無駄遣いしたいから?
そこで,被災地の地方税を上げるということに賛同する人がいるかどうか。微妙だろうが,いつまでも被災地以外からの寄付に頼るというのもまずかろう。福島のごたごたに関しては,東京電力のカバー地域の地方税だけを上げるということも可能だろう。これも反対が多いだろうか。全国の電力料金を上げるよりも説得力はありそうだ。
うぅーむ。地方公務員および地方の政治家に性善説が成り立つなら,いいアイデアのようにも思うが・・・

2011年6月18日土曜日

電灯・自販機を無くしたら?

暑がりにとってエアコンの設定温度を上げることは苦痛以外の何ものでもない。前のアパートにはエアコンが無く,また当時は大学にもエアコンが無く(夏は短パン T シャツで研究室にいた),ほぼ 20 年くらい夏は熱中症ギリギリの生活をしていた。通勤時の 10 分間のエアコン付き車だけがオアシスだった。もうそんな生活には戻れない。
TV 等でよく「我慢しよう」と言うが,そうじゃないのではないか。「無駄を無くす機会にしよう」ではないのか。戸外にある自動販売機はすべて撤去だ。スーパーのような大型店舗や公共施設の天井の電灯は量を 1/3 にした上で LED に交換し,かつての半分以下の明るさで十分だ。街のネオンもこの際原則廃止だ。夜は見えなくてもいいだろう。飲み屋も? うぅーむ,いいんじゃないか。アメリカのように,一般家庭には天井の蛍光灯を全廃し,LED 電球のスタンドだけにする? (これは,眼の虹彩の色が我々とは違うからちと無理はあるものの)やっぱり無理か。・・・等等した上で,エアコンは低い温度で使いたいものだ。
15% 節約せよと言う。僕のように,蛍光灯は小さいサークラインが 2 つのみ。弁当・惣菜はチンしない。冷蔵庫は小さい。残る電気使用は TV とエアコンと,週末のスタンドにパソコンだけだ。水もそうだ。風呂は使わない。便所は一日に大は 1 回で小も 2~3 回くらいだろう。こんな生活からも 15% とかの一律の節約をしなければならないのか。国税のように,使用量に従って節約率を違えて欲しいものだ。

2011年6月12日日曜日

小金持ちのつぶやき

経済は単位が取れなかったくらい苦手だが,当初からの赤字予算が是となる国家予算は理解できない。借金も資産のうちという先生がいたが,理解できない。開業医さんはどうやらそうなっていて,借金を次の世代へと引き継いでいくらしい。しかし,研究費とか家庭の経理ではほぼ借金は(普通は)許されないと思うのだがどうだろう。
それから,文科省の予算要求の内容をどうして財務省の役人が選考できるのだろう。そんなに頭がいいのだろうか。文科省の中でも分野が違えば中身は理解できないと予想するのだが。予算配分は,総額のみをドンブリで各省庁に回答した上で,その再配分は各役所に任せたらどうなのだろう。赤字は許容しないことにして・・・文科省はもらった総予算を再配分すればいい。そこで競争が発生する。何が大事で優先すべきかは各省庁に考えさせればいいことであって,財務省(今となってはボンクラな政府とか某党員のにわか勉強の仕分け人か)が無理やり考える必要はない。少なくとも俄か仕込み素人の仕分け人よりも,当該役所の役人の方が内容を理解しているだろうし,そういう責任を役人には持たせるべきではないのか。そのために公務員試験に合格しているのではないのだろうか。大学内ではトップダウンで割り振られた予算を競争して割り振っているし,赤字は許されない。と,現実を見ると,ひょっとすると役所は実はレベルが低くて判断できずに,某大学(例えば T 大ってか)教員周辺に依存しているようにも見えないこともないのだが。

2011年6月11日土曜日

教員の成果としての論文

さて,教員の成果である論文についても面白いことがある。お一人の出版論文数が年間 40 件を越える人がいることだ。ほぼ毎週,論文を投稿していることになる。スーパーマンでも無理だろうが,それが当然とされている。とてもついて行けない。さて,この人たちはどこでどんな仕事をしているのでしょう。きっと家庭を犠牲にしておられるのだろうなぁ。大学教員の仕事振りってのは極めて不思議だ。
また論文 1 編を出版するのに必要な経費が,東北大学全体の平均で一千万円を超えるそうなのだ。僕が自由に使える年間予算は 100 万円には満たない(そんなに必要ない)から,論文 1 編を 10 年で書けば経費的には標準ということになる。この格差は一体どこから来るのだろう。確かに,実験物理学等では光熱費だけで数千万を越える研究があるのは知っているのではあるが・・・やはり大学っておかしなところだ。ほとんど理解できない状況がいま標準になっている。
最近はとても少なくなったが,工学でも「紙と鉛筆」的研究もたくさんあった。お金は要らない。頭脳と創造力がすべてだ。論文も単著で,4 ページくらいに図も無く,式も数個で大論文というのが目標だ。これはすごいよ。でも,こういう研究をしていた人は就職が難しかったが,もし今なら就職は不可能ということか。逆にある分野では大掛かりな実験が必須であることから,50 人の著者で 1 編の論文を書くものもある。これもまた理解できない不思議な状況だ。実は・・・企業が金を出さない研究はゴミと言う大学人もたくさんいらっしゃるらしい・・・はい,僕は毎日欠かさずゴミ出しをしています。

2011年6月5日日曜日

ゆとりのある講義だけを選ぶ教育その 2

たまたまかもしれないが,いわゆる「ゆとり教育」が叫ばれ始めたころの学生さん(ゆとり教育の学年ではないと彼らは言うのだが)の学年からだ。ただし,本学科がコース制度を強く推し進めてきた時期でもあるので,原因が「ゆとり」と直接関係あるかどうかは断言できない。しかし少なくとも内容は数学であってコース特有のものではないことから,コース制が受講生数を左右するとは思えない共通科目なのである。
このことから推測されるのだが,「ゆとり」というのが『内容レベルを保持した上で負担を軽減して身に付く知識・知恵の割合を増やす』というものでは全くなく,『「ゆとり」で理解できるようにレベルを下げた上で同時に負担まで減らし』て教育をしてきたのではなかろうか。
まさに我が国を危機に陥れる教育をあの役所のあのおじさん(寺脇氏は福岡出身らしいし僕の生まれ故郷の久留米とも何か関係がありそうだし同時期に鹿児島の高校にいたなんて嫌だなぁ)は強く進めてきたことになるのだが,彼はそれを自覚しているようではない。現場が主旨を理解しなかったとまで言っているように聞こえる。やはり困った役人さんだったのではないだろうか。
最近,会議でも議論というものをしないようになっていて,このおじさんや僕のように声の大きい者の主張が通ってしまう傾向がある。これでは将来は暗い・・・

2011年6月4日土曜日

ゆとりのある講義だけを選ぶ教育

表は,僕が担当しているある講義の受講者数の推移である。この講義は外国人を含めた応用数学科目であり,板書も説明も英語のみで行われる。最初の授業でそのことを伝えると,日本人学生からブーイングの声が上がり,最後の授業で行われる学生による授業評価では「英語を使うな」というコメントが毎年複数寄せられる。受講生は邦人・外人共に 3 年生であり,この授業の講義ノートは米国の 3 年生のための授業(僕が博士課程のときに受けた講義ノートそのまま)の内容を流用している。日本人学生にとってレベル的には全く問題は無いはずだが,例えば `substitute' が「代入する」だと知るためにはある程度の努力が必要になる。中身は素直なものだし,宿題も 6~7 題は出すし,A4 一枚の手書きカンニングペーパーの持ち込みを許可していることから,文句は言いながらも,成績が極端に悪いのはごく少数に留まる。したがって,どうにか最後まで付き合ってくれていた。
それが 2 年前くらいから急変している。途中で drop-out してしまう学生が増え。2010 年は半分しか最後まで付き合ってくれなかった。つづきは明日・・・

2011年5月29日日曜日

要らないものを買うデフレ

デフレーションと言われている。本当か。どこでもかしこでも値引きであることをデフレーションと呼んでいるように聞こえてしまうが,購入形態を見ていると,福袋のように要らんものも入っている商品を買う,一シーズン用だけに廉い商品を買って捨てる,一点豪華主義でブランドものも買われている,という状況をデフレと呼んでいいのであろうか。大半の家庭では我慢に我慢を重ねて買い控えをしている一方で,残りの人たち(TV 画面では決して裕福な階層には見えないのだが)は上述のような商品で贅沢をしているだけではないのか。これをデフレーションと呼ぶのだろうか。なんとなく違うような気がする。格差が大きくなっただけで,そこが一番の問題なのを見て見ぬ振りをしているように,あるいは他に責任転嫁しているようにしか思えない。
しかし,なんですねぇー。日本という国は誠によくできた国です。政府が存在しなくても,そこそこ生きて行くことができて暴動も起きない。

2011年5月28日土曜日

フェルディナンド

有料 TV で「しあわせの隠れ場所」が放送された。特に気になったわけではないが,時間つぶしのために録画して観てみた。ちょっと横道にそれるが,主役の S. ブロxx 嬢の発音は若干だが米国南部だったように感じた。かつて `French lieutenant's xxx' という映画に,M. ストxx 嬢が女優役で出ていたが,女優のときは King's English を,自宅に帰ると American English を使うのを観てとても面白かった記憶がある。さて閑話休題。この「しあわせ云々」で絵本が出てくる。その中の言葉がキーワードにもなるのだが(どうしてキーワードなのか忘れてしまった),実はこの絵本,僕が子供のときに一番気に入った本だった。牛の話である。
Amazxx.Com ではなかなか見つからなかったが,牛の名前の英名で洋書を検索してようやく和書の絵本にたどり着いた。そして両方購入した。実は,この絵本の話はリドという作曲家によってナレーション入りのバイオリン曲になっている。バイオリニストのギドン・クレメルが Philixx レーベルの CD に収録している。
何に感動したのか覚えていないが,この「しあわせ云々」の美談で使われたことから,きっと琴線に触れるものがどこかにあるのだろうなぁ。僕も相当に鈍感になったようだ。
さてついでに・・・英語をまず読んだ。そのあと日本語訳を読んだが,面白いところが面白くは訳されていないことに気付いた。表現が堅い・・・75 年前の絵本の訳本を 56 年前に岩*書店が出しているということもあるのかな。おや? 初版は僕の誕生年だ。だからうちにあったのかな?

2011年5月22日日曜日

雨なめる?

鹿児島弁はほとんどイントネーション・抑揚が無い。あるいは尻上がりが標準とも感じられることが多い。薩摩狂句というとても面白いものがある。正調・純粋 鹿児島弁の発音と語数とで狂句を作らなければならない。3 音の「すごく」は例えば 2 音の「わっぜ」になる。先日 TV で題が提示されていた。「雨」である。しかしアナウンサーは「あめ(抑揚無しあるいは若干知りあがり)」と読んだあと,いわゆる標準語の「あめ(↓)」と追加して発声した。面白い。
実は鹿児島では「雨」も「飴」も同じなのだ。だって,抑揚があろうと無かろうと文脈で何を指しているかわかるから不便は全く無いわけだ。そういう方言は少なくないと聞いたこともある。
ちょっと違うことで,團伊玖磨氏の随筆だったと思う(あるいは芥川也寸志氏だったか?)のだが,著名な某作曲家・作詞家による「音楽教育弊害」のために「標準的な?」イントネーションに合致した曲創りを強要された長い歴史があったそうだ。それが音楽を面白くなくしていると。しかし,そういったこと等を破って自由な曲創りができるようにした著名な音楽家の一人が荒井由実氏(ご存知か? 呵呵)なのだ,という主張でもあった。とても面白いと思った。頭の中では常にいろいろな角度から現象なり対象を眺めることが,どんな分野でも重要なんだろう,ということに通じていると主張するのは唐突過ぎか。

2011年5月21日土曜日

横に拡がる学生

かつては,道を歩く女性が横に拡がり,後ろから追いついても前から近づいてもよけようとしなかった印象がとても強かった。それが何と! 昨今は男子学生も横に拡がって会話をしながら,歩道や廊下の幅一杯にお歩きになる。後ろからの僕の足音が聞こえていないのだろう,目の隅にもとらえていないのだろう,よけようという雰囲気はどこにも感じられない。どうやら「すんません」と声をかけなければならないのだろう。
これをどう見るのか。他人を思いやる心が無いということか。いや,単に馬鹿になっただけだと思っている。
それから,日本人なら仕方がないのかもしれないが,ドアを開けて外に出たあと,後ろを振り返る学生はいまだに少ない。すぐ後ろにいるのに,ドアが閉まるのだ。ま,俺は男だから・・・と思っていたが,後ろの人間の性別には関係しないようだ。もちろん,開けて待ってくれる学生さんも,僕らが学生のときよりは増えていると思う。とても気持ちがいい。
しかしここ東北大には,この逆のおかしなこともある。もしかしたら東北人気質(今回の震災でそう言われているから・・・)かもしれない。例えば学食でグループで食事をしたあと,学食のドアを開けて外に出るのであるが,すぐうしろに仲間がいようといまいと,自分のグループがすべて出るまで(つまり最後の人間以外は)ドアを開けたままなのである。外がどんなに吹雪いていてもである。東北の人が我慢強いというのは,もうよくわかったから,勘弁してもらいたいものだ。以前は切れて,僕が立ち上がって「バタンッ!」とドアを閉めたこともある。そのくらいの時間開け放しのこともあるのだ。もう少し他地方から来た寒がりの他人のことも考えてもらえないだろうか。おっと,僕は暑がりでした。

2011年5月15日日曜日

プロの言っていることがわからない

震災前後,金を持っている者は金を使え,箪笥預金をするな,という声が高い。政治家だけではなく経済のプロと思われる人も声高に叫ぶ。
大金持ちさんにはそれでいいだろう。しかし僕のような小金持ち(呵呵)が,それを例えば今鵜呑みにして要らん物も買ったとしよう。預金が底をつくくらいまで・・・。そして 10 年後,年金は雀の涙,貯蓄はほぼ零,体はボロボロ,医療負担は今より高い・・・そして,施設に入る金も無い。つまり,このボンクラ頭には,プロが僕らにそういう生活を覚悟せよと言っているとしか聞こえないのだ。あるいは国債を買えと言う。元本保証なんだっけ。本当にいつでも確実に現金化できるかどうかは知らないが,無能・無策の政府・政治家のために金を一時的とは言え寄付することには大きな抵抗を感じる。将来構想・計画も示せない会社に金を出すプロの投資家が存在するとは思えない。国であっても同じではないのだろうか。このボンクラ頭には・・・プロの言っていることが,よくわからない。

2011年5月14日土曜日

20 になるまでに酒は飲めない。日が沈むまで掃除を終わらせる。

大学でも用いられている文部科学省の言葉使いで変なものがある。その代表は「まで」だろう。ある書類の提出が求められる。すると「*月*日まで提出せよ。」となる。英語にすると `till' だ。おかしいだろう。`by' だろう。おかげで毎日毎日同じ書類を出し続けなければならないのだ。受け取る方もたいへんだろうが,出すこっちもたいへんだ。
もう一つマスコミも使う変なものがある。「に」と「には」だ。例えば『直ちに害はない』という見出しだ。他にも TV のアナウンサーが読むものでも多用されている。これは確信犯的に使っているとすると「すぐであっても害はないから,未来永劫害はない」と読むことができる。そう解釈しても間違い無いように思うのだがどうだろう。しかし,本文を読む限り,これは「直ちに【は】害はない」という見出しと解釈すべきであって,「すぐには害はないけど,これを続けると危ないよ」という意味で使っているように判断できる。こういった微妙な区別がそもそも国語にはあったような気がする。言葉は生き物らしいが,意味が正しく【は】伝わらない使い方をマスコミはすべきではないと思う。
似たようなもので学生さんも使うものに「ため」と「ために」がある。「**を調べるため,**の割合を変えて配合・・・」でしょうか。これは「ために」だと思うのだが。「**が閉鎖されているために,**を使わずに・・・」こっちは「ため」だろう。何がどう違うか,うまく書けないが・・・「ために」は目的,「ため」は原因・・・だと思っている。

2011年5月8日日曜日

津波被災地に住むこと

漁師は高台に住んで港に通勤するという国家計画が,地方自治体もみこしを担いで実施されるかもしれない。しかし TV のインタビューを見る限りは,漁師は賛同していない。一部の末端自治体も,住民とじっくり話し合うという慎重な姿勢(被災地の新築だけは当面の間見合わせる程度)を見せ始めている。さらに被災地を国が買い上げという話すら出ている。この方向だと,安全だが見てくれがいいだけで使い勝手の悪い街が沿岸部にできあがるだけだろう。
かつてある事件が外国で起こったとき,「自己責任」という言葉が流行し,そのまま今に至っている。ほとんどの場合の使い方は批判的な雰囲気を持っていて,あまり好きになれないが,この被災地に関する復興については,積極的に使ってみたらどうかとも思う。
今回のような津波が起こる確率は小さい。震災後すぐに地震・耐震のプロ教授もおっしゃっていたが(誰だったか忘れた)『確率の高い津波は今までの規準(素人用語を用いるなら「想定」:ただし原発を除く土木・建築構造物の場合)で被災を回避できるんだから,それはそれで保持した上で(経済的・文化的観点から見てもそれを変更することは現実的ではないという意味だったような・・・),そうでない方法(避難)を平行して考えるべきだ』ということで,必ずしも高台居住を表には打ち出してないように聞こえて,「さすがプロ!」と感じた。つまり,どうしても被災地に住みたい人はそのリスクを理解した上で住めばいいのではないか。今回の津波は首藤先生の新聞記事を参考にすると 1,000 年 2,000 年に一度ということらしい。もし確率的ではなく確定的に津波が生じるとすると,一世代が 40 年ずつ家を維持するとして 25~50 世代は被災しない(床上浸水程度か?)ことを意味する。
残念なことに地震・津波は,我々の生活時間軸上では確率的に発生してしまう。したがって,2,000 年に一度の津波が三陸でまた明日発生するかもしれない。そういうリスクを理解した上でも被災地に住む決断をすることは,あり得る一つの選択ではないか。必要なのは 1,000 年に一度の災害時の避難路・避難場所の国・自治体による確保と提供ではないのか。もちろん今の技術でもっと安全な構造物が造れないと言っているのではない。あるいはそういう技術開発を諦めようと言っているのでもない。その方向の技術開発は,これまた経済と関係してしまうので悩ましい。

2011年5月7日土曜日

技術と科学は確かに違う

5/5 の NHK 9 時のニュースで,原発事故に関係して科学はどうあるべきか? ということで,ノーベル賞をとった野依教授がインタビューされていたが,ほとんど意味の無い内容だった。無駄な番組であった。やはり理学屋さんは,ものごとを理想化したがるのか。原発を無くすことを前提にするなら問題は簡単である。科学と技術が違うという点は昨今は自明なこととして認知され,従来「科学技術」と記していた言葉を今は「科学・技術」としている。発言中,そこは理解されていたようだが・・・
問題は,原発を維持することを前提にしたときに,今回の事故から何が学べて,技術開発者,つまり工学者は何をすべきかということだろう。科学者,つまり理学者にはちょっと荷の重い質問だ。設定した安全率(破壊確率)で構造を設計した場合,その安全率を超えたことが発生したときに,どういう性能を構造に要求して第二第三のデザインを「どのようなレベルまで」すべきかということが今回の問題だ。極端なことでわかり易く言い換えると,テロが発生したからといって高層ビルの対航空機安全性を要求するだろうか。爆弾による被害がフロアを越えて伝播しないようなデザインを要求するのだろうか。そういうことではないのか。ちょっと極端だが,野依氏の発言はこの極端な例では「テロを無くせばいい」と言ったに過ぎない。

2011年5月1日日曜日

この人は日本人じゃない,その 2

ある先生から以前「法律は運用するもの」と聞いたことがある。この在日韓国人の女性は多分小さい食堂の店主である。M 某大臣の純粋な「単なる」応援団である。海外の大会社の下心のある会長とか社長ではない。法律は微に入り細にいたって記述するものではない。その思想が伝わればいいのである。であるならば,今回の個人献金がその法律で禁止しているものには該当『させなくてもいい』ものであることは火を見るより明らかである。
マスコミは怖いからか,すべてが「違法」と判断しているようだ。しかし,本音はどうなんだ。僕がこの西田だったら M 某大臣に電話をして「M さんよ。あんたが世話になった食堂の店主(在日韓国人)が日本語姓で献金をしているのを見つけちゃったんだけど,誰か阿呆な議員に見つかる前に名義変更なり返却なりしてじっくり店主に説明しといた方がいいよ。僕は知らなかったことにするからね。もしばれたときは,精一杯弁護応援するからさぁ。」とでもこっそり言ってやるけどね。ま,ばれたときにはもちろん僕は,寄らば大樹の行動をとるとは思うが・・・呵呵
日本の文化がことごとく壊れてしまいつつあるような不安があってならない。しかし藤原正彦の考え方は大嫌いだし危険を感じる。

2011年4月30日土曜日

この人は日本人じゃない

先日,外国人の個人献金が元になって M 某大臣が辞任した。それを言い出したのは自民党の西田昌司という議員だ。この人は日本人じゃないんじゃないか。下品で極めて質の悪い人間だと思う。朝日の声の欄の方もきっと心の中ではそう思っているんじゃないか・・・という投書があった。声によると,この西田という人の支援者は拍手を浴びせたとある。あぁーあである。しかし,民主党はもとより嫌いであり,その後少しは自民党の再生にも期待したが,こんな人物がいるんじゃもう駄目だ。選挙はどうしたらいいのよぉ。民主党は嫌いだから擁護する積もりも全く無いから書くけど,この西田という人がやったことは,例えば,柔道等で傷ついた箇所を攻めて勝とうとする卑怯で卑劣な攻撃と全く同じことだ。本来の日本の文化では実行してはいけない行為であると思う。続きは明日・・・

2011年4月24日日曜日

無機質な街づくり

復興に関して,高台に住宅を,漁師は通勤を・・・人の匂いが無いですねぇ。
朝日新聞に本学の越村先生が「高台移転は住民主体で(無駄な「に」は省略)」というコラムを載せた。あたかも高台移転が前提のような題目でありながら,明言はしていない。本当にそれがベストなのか。政府の案から受ける印象は,昨今の郊外の開発宅地のような,ほとんど個性の無い(景観屋からは素人の個性は独りよがりだという言葉の方が多いが)家が高台に整然と並んでいる。生業が漁業なのか製造業なのかは外からはまるでわからないが,漁村なのだ。
シカゴにマリナシティというトウモロコシのようなビルが 2 棟建っている。シカゴ川に接する地下にはマリナがあり,その上は駐車場,その上に(そもそもの企画では)病院・学校から住宅までがすべてあって「シティ」を形成している。僕はそんな狭いところには住みたくないね。近所付き合いは希薄でいい。信頼できる友人宅は少し離れている,まわりの小規模自営店舗のいくつかは常連である,程度が程よい町である。僕の周りが全員大学教職員で,個人店舗が歩いて 10 分以上のところにしかなかったら,一ヶ月もしないうちに気が狂いそうだ。
今回の教訓については,越村先生の恩師の(今村先生の恩師でもある)首藤先生が,越村先生のコラムの前日に朝日新聞に書いておられるように,「避難」がキーワードではなかったのか。人の力で防止できる自然の力のレベルは小さいことを改めて(我々土木関連者は既知だったはず!)見直すことができた事象だったはずだ。街づくりと避難とがうまく協働できるような復興はできないものか。少なくとも B/C 信奉の土木技術者には取り組んで欲しくない事業だ。あっ,そうそう,建築家はもっと駄目ですよ。みてくれが第一ですからね。

2011年4月23日土曜日

某知事の天罰発言

ま,確かにその表現は大問題だった。ただ本意は僕には理解できたと思っていたら,「***のそこまで言って委員会」の三宅氏がいみじくも簡単にその趣旨を示してくださった。僕もその通りだと思う。
被災した人の心と完全に一緒の気持ちにはなることができないので,真意はわからないのであるが,ちょっと気になる表現(高校球児も使った)に「生かされている」というのがある。これは自分では決して使わないような表現なので気になっている。が,某仏教宗派(僕のお寺さんです)の「他力本願」つまり「阿弥陀さまがすべてを決めているのであって,我々は何もなす術は無い(以下曲解して)から,阿弥陀さまの名前を唱えることがせいぜいできることであって,自分が他人を幸せにできる本来の仕事なり役割に最大限尽くして生きるのが本務である」ということを,簡単な言葉で述べたのかなぁとも解釈できる。笠原先生から習ったことはもう忘れてしまったが,阿弥陀さま云々は,きっとそういうことだと思うのである。
人ができることはとても限られている。いろいろな偶然でものごとの時間的変化(運命という言葉には抵抗があるので)が発生して,人はそれを能動的にはほぼ変更できない。それを分かり易く,あたかも阿弥陀さまという超存在を民衆の前に置いたのがその宗派の気持ちだったのではないか。我が国本来の宗教(哲学)は,八百万の神様の下で精一杯生きるということなんだろうと思う。それを仏教にすり寄せたのが阿弥陀さまなのではないか,と思う。自然あるいは先輩なり上司の大所高所からの言葉には真摯に対応して,精一杯自分の役割を果たすことが幸せなのではないか,ということかな。

2011年4月17日日曜日

そこかしこでリーダー不足

震災初日から一ヶ月。相変わらず国のリーダーが存在しないままだ。
実はローカルな本学我が学部等でも同じである。確かに役職としてのリーダーがいるが,その人が本当に先頭に立って責任を取る積もりの行動を起こしているのかと言われると,はなはだ疑問であるという方が若干おられる。誰のことかって? それは言えない。実は組織の末端はすべてそれを見ていて,驚きながらおかしいと思っているが,そのリーダークラスの人間には自覚が無い。彼(一人かな?)は,どんな陰口をたたかれているかすら知らない,あるいはどうでもいいのだろう。自分さえよければいいのだろう。我が教室の建物封鎖と危険回避対策も,実はリーダーの下での秩序ある指令はほとんど何も講じられていない。末端がボランティアで種々の繕いごとをしているだけだ。一番働いているのは用務員さんかもしれない。かく言う僕は,大所高所で物を見る能力に欠けているため,用務員さんと一緒にときどき繕いごとをさせてもらっているに過ぎない。
ときどきそのリーダーたるべき人から細かい提案があるが,それに僕が(枝葉末節の繕い事は得意なので)率直な反論をすると,容易にその提案がくずれるというのことがよくある。それは,この危機的状況でだけの話ではなく,通常のルーチン業務上でもしょっちゅう起きる。僕が若いときは,うるさいリーダーがいた。僕はよく積極的に反対してきたが,結局は,そのリーダーの言った方向に動いてしまっていた。そんなものだろう。そういう偉い人が今はいない! 何故かわからない。

2011年4月16日土曜日

民主党は日本を滅ぼす

政治主導がうまくいかないこと,そして役人さんと地方の出先役所が必要不可欠だったことを明らかにしたのが,今回の震災だったのでは。国交省の東北地方整備局は地震発生当日から建設会社等に指令を出して復旧を始めていた。翌日に簡易舗装されて復旧した道路も多々あった。今回は高速道路も一般車を排除し,また東西の道路復旧を急いだことで,あれだけの被災の中でガソリン等の緊急用物資輸送も比較的早く開始された。
もし民主党が先走りして地整を無くして県に任せ役人の首を切っていたら,この震災は一ヶ月以上経った今でも,ほとんど何も復旧できなかったかもしれない。地方政治家が走り回って建設会社を動かしたとしても,それは微々たる力に過ぎないからだ。役人を馬鹿にして政治主導と称して,行動はしないまま東京にいて思考していても何も解決しない。地方の役人は思考は後回し(失礼:思考したとは思うが)で,普段から想定していた復旧行動をまず起こし,現場現場の状況を見ながらアクティブに思考して行動を改善させてきた。もちろん役所所有の資材・機材・人材等は限られているから,**協会等を動かして(そういう力も政治家は持たない)民間に資材・機材・人材を提供させてきた。それでも足らない部分は自衛隊への依頼だ。もちろん,そのため,一般工事はすべてストップして後回しであるが,それは国民も十分我慢できる措置だろう。
だからといって,自民党に期待しているわけでもない。今の原子力システムを作ったのは彼らだろうし・・・日本はどうなるのだろう。

2011年4月10日日曜日

安全の程度の予めの通知と「想定」

同様に,液状化の報道もあったが,早稲田大学の H 先生はいみじくも「役所からは液状化危険度の地図が公開されているから,それを見て家をお造りにならないと」という主旨のことをおっしゃったが,これが「想定」の意味であると思う。もちろん,一般の人にとっては「いまさらそんなこと言われても」というのが本音だろう。新築のときにそんな地図の存在は知らなかっただろうし,大工さんも知っていたかどうかわからない。不動産屋は知っていても教えなかっただろうし。しかし,設計する側からしたら「それが想定」なのである。絶対に安全な構造物は造れないという事実を,確率的に「できるだけ安全な構造物を造ろう」としているのが土木技術者(一般家屋は建築技術者の担当)である。
とはいえ,あの問題の原子力発電所は他原発との比較からも明らかなよう(新聞報道を信じれば)に,貧弱な設計であったことは否定できない。津波や地震で壊れた土木構造物とは意味が全く異なる。未だに御用学者が存在することも知らなかったし・・・

2011年4月9日土曜日

安全率を決めた段階ですべては想定内

この災害で頻繁に使われ,専門家すらも使ってしまっている「想定外」という言葉には,かなりの違和感を感じる。少なくとも専門家は「安全への余裕が低過ぎたかもしれない」等と述べるべきではないのか。きっと,この文章には素人さん達からは異論がたくさん出るとは思うが・・・専門的な想定の考え方を書いておきたい。
安全率を 1.7(壊れるまでの余裕のこと)にしたということは,1.8 倍以上の外乱に対しては安全性を保証しないと「想定」したことになるはず。1.7 は経験に基づく曖昧な数値ではあるが,少なくともこれまでは通用していたレベルである。そして今回の誤解を生む表現に関することだが,1.8 倍以上の外乱は起きないとは想定しているわけではなく,それが起こる確率がある程度以下であると想定している。つまり 1,000 年に一度の外乱には安全を保証できないと「想定」したことになっており,今回の災害も「そういう想定の中では起きてしまう」と設定したことになっているわけだ。少なくとも専門家は注意深く言葉を使わないといけないが,素人に分かり易くする必要もあるのであれば,上述のように「工学的・経済的に合理的な範囲での設定を経験的に決めていたが,それを超えた極めて稀な外乱による災害」と呼ぶべきだろう。自然現象に「想定」は無いという新聞記事ももっともだが,そういう哲学とは別に「ある費用規模の範囲で最大限安全を確保して機能を維持するためには,**以上の外乱には耐えられない構造しか造れず,あとは確率論的に,壊れてもできるだけ犠牲を少なくしようとして設計」したのが土木構造物だと認識している。つまり,そういう想定で作ったものがその設定で,ある確率で壊れないものは壊れないし,ある確率で壊れることもある,というのが土木構造物ではなかったか。そう習ったような記憶もある。実際には,すべての橋梁の親柱に「***の地震が発生したときに本橋が落ちる確率は 1/1,000 程度だが,それが明日起きないとは限らない」と記載すべきではないかという意見交換を,神戸の震災後に誰かとしたような記憶もある。

2011年4月3日日曜日

ものは訊きよう

マスコミが大地震の被災者個人に「今のお気持ちは?」・・・はぁー? 自分が尋ねられたら何と答えるかシミュレーションしたのだろうか。もちろん即答してくれる人なんかいない。そりゃそうだろう。複雑な心境だからだし,かなり混乱しているからだろう。なんでこんな訊き方しかできないのだろう。本来なら「ご心痛のほどお察ししますが,ご家族ご親戚とは連絡はとれてますか?」とか・・・具体的なことを訊いた方がいいのではないか。今のお気持ちではなく,こんなときだから個人のコメントが直接政治家や政府に届く機会だ。それを引き出すのがマスコミの第一の仕事ではないのか。
「**のときどう思いました?」・・・はぁー? 回答を想定しているだろうなぁ。紋切り型の質問じゃないのか。「**のときはおばあさんはさぞお慶びになったと推察しますが,二度とこういう事態にならないような自治体や政府の普段の方策か何か思いつく点がありましたら,ぜひご披露いただけないですか」とか・・・
「私達も何かして・・・」? ま,余計なお世話ってこともあり得る。それよりも,こんな状況でも復興が遅々として進められない政府,会社の発表を鵜呑みにする政府,役人は馬鹿だと言った政府が役人の言葉をそのまま発表して風評被害を積極的に拡大する,そういう人たちを選挙で有り得ないくらい圧倒的な勝利に導いた国民自体もこの被害を増大させている可能性もある,ということを常に考えて選挙なりに常日頃から真面目に参加することが,国民の防災のための行動の一つでもあるのではないか。

2011年4月2日土曜日

どっちが大事? あいさつ喚起と重要情報

もっとおかしなことが,大地震直後の TV CM に起きた。それは・・・
被災地以外の方はご存知ないかもしれないが,その時間帯の番組が縮小されて表示された上で,その左と下等のマージン中に被災地周辺の交通情報や避難所・店舗情報等が表示されるようになっている。このマージン内の情報の方が,TV 番組そのものよりも重要なことの方が多い。ところがこれが,コマーシャルメッセージの時間になると,マージンが消失してしまうのである。そして全画面にわけのわからない「思いやり」の詰まった「心遣い」のメッセージを繰り返し表示し,地元にとって最も重要な脇に表示されていた被災地周辺の情報は消え去るのである。しかもだ! どうも,この CM の最中の情報は流したまま(ワンセグでは表示されているとか?)のようで,CM が始まるときと終わったときの情報に連続性が無い。つまり,CM 中に流れる重要情報がすぐには伝わらないままなのだ。本末転倒としか言いようがないのだが,どうですか? この「民間の広告ネットワーク AC」が出す CM の内容の方が,被災地の人たちにとっても重要だという判断をマスコミはしたのだろうか。本当にそれでいいのか。この「AC」という団体は,そんなに力のある圧力団体なのか?
あれ? そうか! 推測するに,この「民間の・・・」には,わざわざ「民間」と明示しているところからして,これが公務員さんの天下り機関なのではないのかな? どうなんだろう。その機関の CM を第一にして,地元の情報公開は二の次にしているマスコミ,あるいは政府,あるいは政治家,あるいは役人さんの意図が理解できない。困ったねぇ。こういう形にした「見せ方」が「心遣い」なのかねぇー。

2011年3月27日日曜日

政府が 3/11 以降存在していない

官房長官は TV には出てくるが,政府関係者は作業服を着た上で,東京のとこかでのんびりとお茶を飲みながら政局について語り合っているのではないでしょうかねぇ。顔が全く見えない。マスコミ上でも,政府は正確な情報を発信せよと言われていながら,今までに無いほどの沈黙しか政府には存在しないような印象を受けて仕方がない。さっきのニュースでは,ある『一人の』政治家に「地震と原発の担当」を任じたようだが,両方どうやって一人でやるの? よくわからない。僕らのように小さい大学や学科という組織であっても,細かい WG を作らないと実働部隊は十分には動けないという経験を持っている。
例えば,政治家 A は総理任命で青森のみ,政治家 B は岩手の沿岸北部のみ,C には南部のみ,D には宮城県北部のみ,E には宮城県南部のみ,D には福島県の地震対応のみ,E には原発のみ,という任命をすべきではないのか。旧自*党に協力を依頼するなど愚の骨頂である。彼らならできなかっただろうことを民*党はやったぞと気構えも何も無い。地方自治体の最小単位は津波で存在すらなくなっているところもあると言う。だとすれば政治主動で,物資輸送手段を確実に確保した上で,その配布手段をも確実にある特定の場所毎に搬入できる手続きを決めて,それを実行すべきではないのか。政治も政府も政治家もほとんどすべてのマスコミの画面から消えてしまって 2 週が経過してしまっている。何を考えているのやら・・・
退避勧告や屋内退避を命ずる前に,そこが今回は特別地震被災地であることを念頭に置いて,物資の輸送や退避先の準備をまず確保した上で,なんらかの改善策を命ずるのが筋ではないのか。行動を起こせない人は何人集まっても,それは存在しないのと同じ集団である。というのが,某町長が毎日怒りながら言っていることではないのか。それが理解できず行動に移せない政治家は存在の意味が無い。

2011年3月26日土曜日

ミリなの? マイクロなの? キロ? ナノ?

一般の人の多くは mm がメートルの千分の一という記号だなんて思ってもいないだろう。km がメートルの千倍というのも同様だ。それぞれが独立した単位だと思っているのが普通ではないだろうか。かく書く僕も mm の最初の m が接頭記号だと気付いたのは大学生になってからだったと思う。僕らが子供のころは ml は cc だったような気もする。それが千分の一の ml だと教えられても,ml も cc と同様の独立した単位だった。わざわざミリと読んでいるのに,それが千分の一だということを覚えないといけなかった。そして ml の m と mm の m が同じだなんて,ちっとも知らなかった。
今回の大地震後の原子力発電所周りの環境評価数値に,最初,マイクロシーベルトが使われた。そもそも絶対値は素人には意味の無い数字だから,最初に用いたこの単位を使い続けて素人が相対比較できるというのが,政府なりマスコミの義務である。途中からミリシーベルトを使ったのは大きな間違いだ。マスコミのスタッフすら間違う。つまり 2 ミリシーベルトであれば,2000 マイクロシーベルトという数値にして,全国民が「あ,そうか。昨日のあの数値の*倍なんだ」と実感できるべきではなかったか。商品によく使われる 1000 mg のような「ごまかし」を政府なり東京電力側に大いに感じる。これまでも情報を開示しようとしなかった会社の言うことだから,きっとそういう意図があってわざとそうしたのだろう。それに乗せられた政府も政府だ。頭が悪い。誰に情報を発信するかがシミュレーションできていない。会社の発表をそのまま読んだだけ。
商品の場合はたくさん入っているように見せなければならないから小さい単位を使う。まずいものは隠すために大きい単位を使うのだ。そういう意図が見え隠れする電力会社の対応だし,劣悪な政府の態度だった。やはり,いまだに無政府状態にあるとしか思えない。しかも,東京電力を擁護しながら,消防隊員を恫喝するような政治家すらいるわけだ。もうどうしようもない。

2011年3月20日日曜日

いいことをしたときは見て欲しいのかい? その 2

いいことなら,誰かに見られていようといまいと,それが表に見えようと見えまいと,やるのが筋である。カタチにすることが重要なわけではないはずだ。意味は全然違うが,我が文化に沿ったもの言いの一つである「天網恢恢疎にして漏らさず」は「存在しないかもしれない神(信じているわけではない)」が見ているかどうかであって,一般大衆が見るかどうかは問うていないはずだ。我が国の文化はますますおかしくなっている。これを 30 分に一度繰り返し繰り返し流して若者を洗脳,否,積極的な粗悪化をしているのが今のマスコミだ。
今回の大地震災害のニュースの中で,売り場の残り少ない品物をごそっと自分が買うのではなく,少しは残すという文化が我が国の文化だと称する人がいたが,同感だ。地震当日の翌日,お世話になっている酒屋に行ったところ,少しずつ物が残っていて,それでも買い物の人が 10 人近くいた。しかしその場で買う人も,全部を握り締めることなく,少しずつ掴んでいた。ちょっとほっとして,僕も少しずつ集めて購入した。ほとんど僕が最後の客になったようだが・・・

2011年3月19日土曜日

いいことをしたときは見て欲しいのかい?

地震が起こってしばらく,TV でとてもおかしい,否,とてもまずいコピーが流れていた。「心は誰にも見えないけれど心遣いは見える。」「思いは見えないけれど思いやりは誰にでも見える」???誰かの詩か何かの引用のようだが,字が小さくて読めない・・・
単なる駄洒落に過ぎない。否,よくない標語ではないか! では,いい行いは見えないとやらなくてもいいのか。見えるような行いなら正しい行為なのか。見えない行為はやるなというのか。そもそも高校生ごときが,そこそこ人が乗っている電車で椅子に座っていること自体から間違った行為である。僕なら,階段をお年寄りが登っていたら追い越さずに,その方が登り終えるのを待つだろう。あれ? しかし,歩くもやっとなご老人が本当にこんな階段を使うのか。やらせ臭い。続きは明日・・・

2011年3月15日火曜日

被災した夜空

正式には東北地方太平洋沖地震なのかな? 3 日くらい前は東北関東大地震とか?
さてこの地震で,少なくとも 2 日間全市レベルでの停電が起きた。ちと不謹慎であるが,星はこんなにたくさんあったのか? という感動を夜得た。学生時代にボスに箱根に連れていってもらい,双眼鏡で夜空を見上げたとき以来の感動だった。避難所には行かなかったものの,いつ電気が来るのか,研究室に残したものはいつ取りに行けるのか(ひょっとしたら,もう手に入らないかもしれない:昔の写真のネガもあるのだが),だんだんストレスは溜まってくる。他人が横にはいないし,部屋は寒いけど,ベッドで手足を伸ばして横になれるのだが,なんだかストレス感がある。そうだ,取り出す最低限のもののリストを作ってみよう。ちょっとは気が紛れるかもしれないと,あれはどこにあったか,あそこには何があったかと思い出しながら,ろうそくの中でメモを書いているとき,ふと眺めたのがカーテンの向こう側だった。うぅーむ。自然の力はすごいが,自然の姿もまたすごい。

2011年3月14日月曜日

マグニチュード 8


3/11 の午後に,正式には? 東日本巨大地震かな? 災は東日本大震災と呼ぶようだが,これはすごかった。本当に死ぬかと思った。先週末には停電してたのでこのブログは出せなかった。
最初の 10 秒くらいは「いつものよりちょっとでかいかな?」という始まり方で,S 波で大きく揺れてもまだ椅子に座っていた。棚の時計が落ちかかっているのを見ながら「あぁ,また修理だなぁ」と思っていた途端,それに折り重なるようにさらに大きな揺れ・・・恐怖を入れると 5 分くらいはその大きな揺れが続いたように感じるほどだった。机の下にあるヘルメットをかぶって隠れたが,気分が悪くなる。本棚からは本がすべてといっていいくらい落ちてきた。机の下から見えない側は何が起こっているのかわからんが,終わってみたらキャビネットが壁の固定板を吹き飛ばして隠れた机の上にもたれかかり,机の天板がもう歪んでいた。机に感謝した。
本来はやってはいけないが,外は寒そうだったので床に積みあがった本や資料の山の下にもぐったジャケット・カーデガンを探して来て,ちょうどカバンと携帯電話もそこにあったので,それを持ってゆっくり階段を降りて(6 階から)外に出ると,ほとんどの教職員・学生は既に避難していた。あんな揺れの中で階段をよく降りられたものだと感心したものだった。
写真は,2 階の屋根から上に伸びる 3 階の床部分の隅の柱である。9 階建てである。これは・・・もう終わりです。四隅の柱がすべてこれ以上の破壊状態である。もう二度と使えない建物になってしまった。数年前に妻壁を鉄骨で補強していなければ,この 3 階部分は・・・あぁ,怖い。全体的に,この反対側にやや傾いているそうだ。
住宅街も特に何も無かったように見え,ニュースでも何も報道されないが,中がとんでもない状況なのはともかく,瓦や壁がよぉく見ると壊れている。津波地震という報道で隠れてしまっている破壊状況だ。すべて個人の家屋なので,これが見過ごされないといいのだがなぁーと心配している。

2011年3月6日日曜日

センター入試要りますか? そのニ

センター試験は廃止し,大学受験の機会を増やす方が受験生にも望ましいし,大学にとっても(最終的に卒論や大学院で研究を支援してくれるポテンシャルを持った多様な学生を獲得できる意味から)望ましい。一期二期校というのに抵抗があるのであれば,例えば国立大学法人は 3 日程(2 月の第 2, 3, 4 週末の ABC 日程)で本入試を実施することにし,各大学には毎年ランダムに(同じ大学が2 年連続で重複日程にならないように!)その 3 日程を割り当てる。希望の 3 大学が 1 年目に重複した場合であっても,2 年浪人すれば受験が 1 回は可能になる。その代わり,一旦入学手続きをした大学では 3 年間は自らは退学・休学ができないようにして,複数の大学には在籍できないようにする。もちろん入試検定料金は今の 2/3 には少なくとも下げる。
細かい点ではたくさん問題があるのは容易に推測できるが,そもそも大学受験というのは競争であってしかるべきだ。受験戦争が悪だとしたのは,受験生本人ではなく,遠くから眺めていた教育評論家ではなかったか。高校の教諭ですらその戦争に乗り切るための必死の仕事をしてくださっていた。大学卒業時の就職が競争なんだったら,大学受験の方も合格安全率を上げておく必要は無いのではないか。実は,研究(卒論)では知識が大事だ。つまり,インターネットに相談することなく,頭の中でいろいろと数式をいじる能力だ。そのためには詰め込み作業が若いときには必須になる。
実はもう一つ実現して欲しいことがある。高校卒業の生徒を就職で優先してあげた方がいいのではないかということだ。大衆化した大学とは言え,最高学府に半分以上の高校生が合格する必要は無いのではないだろうか。例えば,大会社の課長あるいは部長補佐になることができる人数比率で定員を決めてもいいように思う。そうなると困るのは大学だ。「合格者が減る→学生定員が減る→教員定員が減らされる」という決まりがあるからだ。さぁ,どうしましょう。で,就職できるのは高校卒業の生徒か,大学院の修士課程の学生のみで十分だろう。学部卒業では今や知識レベルが 30 年前の半分以下だし。

2011年3月4日金曜日

センター入試要りますか? その一

入試センターというのは,大学教員および文部科学省役人の天下り先なだけで,税金が無駄に費やされている機関である。民主党の目は節穴だから気付かない。2 月の朝日に『「選抜」のためのセンター試験と「到達度」確認のためのセンター試験を実施すべき』という本末転倒の提案が,ある教育機関顧問の安達昌二という方から出されていた。「選抜」は,センター入試ではなく本試験で各大学が責任を持ってやるべきことであるし,「到達度」は高校の教諭が責任を持って実施して指導すべきことである。そんなことに,何故税金を無駄に使う必要があるのだろう。
一昔前に裏雑用で僕が整理したデータでは,センター試験がトップの受験生は本試験で真ん中あるいはそれ以下にもなり得ること,本試験がトップの受験生のセンター試験の成績は全体の上位から三分の一程度以下にもなり得ることがわかっていた。統計は苦手なので相関の定量化はしなかったが,おおざっぱに言えば,横軸にセンター入試成績,縦軸に本入試成績をとったときに,やや右上がりだが楕円状に受験生の結果が分散するということだ。
工学部では AO 入試という米国の真似事を役所に媚びへつらうのが初期の目的で実施しているが,その III 期というのは,センター試験の結果と高校での能力とで選抜している。しかし,この III 期で合格した学生は,いわゆる前期日程の普通の本試験で合格した学生と,その能力には全くと言っていいほど差が無い。つまり,センター試験結果なんてのは受験生のポテンシャルを測るための何の指標も与えてくれないのだ。センター試験というのは,実は真似をした米国の資格試験の SAT 等にも劣る無駄な事業であり,否,逆に弊害をもたらす事業なのである。
弊害のトップは,受験生がセンター試験の結果を使って受験する大学の範囲を狭めることだ。確かに浪人はしたくないだろう。親もさせたくないだろう。しかし,自分の能力に合った大学を選択して,その能力がその後向上するのだろうか。クラスにも同じレベルの学生しかいないから何の刺激もない。みんなで分からなければ何も心配も無いというわけだ。みんなで渡れば怖くないということだ。共通一次試験が始まって以来,大学間の格差は予備校によって共通・センター試験成績を使って精密に【いかに入試センターが否定しようと】定量化されてきた。それに沿って受験するのは安全なだけで,子供達の将来の突然変異や大器晩成の可能性はほとんど無くなってしまっているのではないか。少なくともレベルの違う学生が同じクラスにはいないから,何の刺激もない。なぁなぁのぬるま湯である。僕の人生だ!
僕が高校生だったころの高校教諭は,試験の成績だけではなく,何が得意か・どういう勉強の仕方が得意かといった諸々のことに基づいて進学先指導をしてくださっていた。そもそも定期試験も実力試験も,九州大学に合格するためだけに問題が作られていたらしいし,それが高校の第一目標だった。だから,九州大学とは問題の質が違う大学(例えば京都や北海道)には進学を勧めなかった。逆に言うと,九州大学以外で,九州大学の問題の質に似ている大学(例えば東大)には,その生徒ごとの気質・癖を勘案して,適切に指導してくださっていた。例えば九州大学には合格できないような学生をどこに入れたらいいか? という指導のことだ。今の高校教諭は質が下がって,こういった高度な指導はできないのだろうなぁ。

2011年2月27日日曜日

大学教員の仕事と通勤形態

法人化されて大きく変わったのが,就業規則と安全対策だ。後者については,実験もしないものだから,委員のときにはかなり苦労させられた。が,難しい点が多いので,ここでは述べない。
前者はとても面白い。僕も最近はそうできなくなったが,かつては毎日 9 時くらいまでには出勤し,平日は晩御飯の後も大学にいて夜 10 時くらいまでは勉強したり学生と意見交換をした。ま,ノルマがあったり監視する上司がいるわけではないから,教育と論文出版という成果さえ適切に維持していれば,どういう勉強の仕方をしても構わない。土日・祝日も当然のように朝から大学に行って,さすがに夕方には帰宅するものの,何かしていた。学生さんも週末を含めて毎日夜まで大学で勉強をしていた。概算要求等の教室の雑用を担当すると,夜遅くまで一人でコピー室で作業をすることもあり,文字通り泣きたくなったこともあった。
その残業が,法人化後の監督役所である労働基準局に禁止された。彼ら曰く「自らそんなに残業をしたい労働者がいるはずがない!」というのが理由だ。大学教員の実態を全く理解できなかったようだ。とても面白い。実際には,裁量労働制という規則の元,適切な時間帯に適切な出勤記録を残せばいいことになった。平日のある時刻からある時刻までの夜中と土日・祝日に(大学で)労働するには学部長の命令が必要になり,必ず振替休日を取ることになった。労働基準局は,自宅で勉強や研究をしているとは思っていないのだろう。そこがまた面白い。

2011年2月26日土曜日

30 年変わらない講義ノート

11 月の朝日に(主に会社から赴任した)教授の資格についての記事があり,またぞろ「毎年同じ講義ノートで・・・」という批判の記述があった。例えば Newton の力学がこの 50 年で何か変わっただろうか。学生の質が下がったとき,それに合わせて単純にレベルを下げればいいのだろうか。実は現場は困っている。
さて,本学の前の工学部長さんがこの 50 年の入学者の能力の変化と,社会が卒業生に求める資質の変化を簡単に表したグラフを見せてくださったことがある。簡単に言うと,入学者の能力は,大学の大衆化以降単調に下がっていくし,ゆとり教育によってまた極端に下がった。一方,社会に出てから対処しなければならない問題がどんどん難しくなっていることから,卒業生に求められる能力は単調に上がっている。したがって大学在学中に,学生が持っているポテンシャルを上げる勾配は,単調に増大しているというものだ。つまり,入学してから卒業するまでに身に付ける知識は,50 年前よりも倍増しているくらいのものだ。そんな教育は不可能に思えるほどだ。
もう何年もやっている講義ノートをこれに対処しようと工夫を試みてみるが,不可能だ。講義回数は 14 回しかない。毎年のように出版される種々の教科書を見ると,二種類あるように感じる。一つは 50 年前と同じ教程の内容だ。古典的だが,工学的な基礎の真理は 50 年や 100 年では変化しない。いや,体系化されたとても美しい完成された真理であるから教えることは変化しない。もう一つは昨今のトピックスに対処するような内容だ。これは斬新に思えるが工学部基礎科目(学部のほとんどすべての科目)には使えないのである。この種の教科書を使うためには,その前にもう一冊の基礎教科書を勉強しないといけないからだ。
ただ推測するに,社会(会社)は大学卒業生を冷静に評価しているように思え,それが社会を高度に保っているように感じる。卒業生の能力が下がっていることを現場は実感しているから,同じ大学出身者でもムニャムニャ・・・

2011年2月20日日曜日

平成学内資料の変

「**のパブリックコメントが行われています」っていう「日本語?」理解できますか。どうやら「誰でもいいから**について意見がある人は自由に提出しなさい」ってことらしい。うぅーむ。頑張ればそうも読めるか。僕には,またうちの大学の社長が「コメント」をネットの動画で「不特定多数」に対して「流して」いるのかと思ったものだが・・・
さて現在の民主党というのは,言ってみればかつての自民党+社会党+民社党のそれぞれ一部のちゃんぽんではないのか。どこかに背骨というか中心的な骨が無い。くらげのようにふにゃふにゃしていて透明感もほとんど無い。どこか濁っている。ふにゃふにゃなので使う言葉も英語のようなカタカナ語が使われる。そしてそのカタカナ語と同じ意味の適切な日本語も存在する。きちんとした定義のある日本語や,「遺憾」「粛々」という政治家用語「以外」のちゃんとした漢語やら日本語を使う自信が無いらしい。おかげで役所が「パブリックに」使うから,対応して大学にまでカタカナが蔓延してきた。ま,言葉は変化するものだからいいのかな。しかしね,学生の英語による発表で「僕は**を選択する。」と言いたい場面で `I choice **.' だよ。カタカナ蔓延の弊害が英語にも及んでいる。
さて,その同じ資料のコメント例を示す見出しは,なんと! あの 4 文字だ! 「パブコメの例!」うーむ,イギリスのパブでも日本ブームで米でできたつまみが出るようになったらしい。米はもっと食べる日本人が増えるといいからね。イギリスにも協力を申し出ましょう。ところで米価っていうのは高いの安いの? わからんよね。長年にわたって政府が価格を制御していたらしく,本当の価値がわかりません・・・と資料を読み続けると「アトランダムに」というお言葉! うーむ。英語を使いたいわけね。和製カタカナ語なら「ランダムに」で十分で「無作為に」という日本語もあるところを,大学人(あるいは役所かな? この資料の出所は?)は英語を知っていることを披露したいらしい。あるいはスペルを知らないしょうもない人の作文かもしれない。
ところで,英語を日本語のように使うとき,例えば「choice する」と言うだろうが「choose する」とは言わない。しかし「select する」は使っても「selection する」っては言わない。規則は無いようだが・・・

2011年2月19日土曜日

イモリの生態

11 月の朝日に「アカハラ」記事があった。もちろん,例の 4-letter words である。呵呵。具体例がとてもいいので,その実態を併記してみよう。
「論文を指導しない」:
言ったことをしないし大学に来ない
「正当な理由がないのに単位を与えない」:
正当な理由がないのに宿題の締め切りを守らない,無断欠席をして出席率が足りないのに期末試験の受験権利を主張する
「本人が希望しない研究テーマを押しつける」:
多分結論が出るだろうと親切心で提示したテーマから自ら選んだものに興味を持とうとしない,教員が知らないことを調べてきて驚かそうとしない
「加筆訂正しただけで指導教員を第一著者とする」:
学生が書いた草稿に加筆修正をした第二・第三稿等には既に学生の書いた言葉は 10% も残っていないのに,自分を第一著者にせよと主張する。そもそもテーマやアプローチ等は誰が提案したんだったっけ
「深夜や休日に指導を強制する」:
毎日昼過ぎにしか出てこないし昼間もどこにいるかわからない,中間報告は全く持ってこない,仕方がないから彼をつかまえられそうな休日や夜間の時間帯に約束して打ち合わせに行くとソファーで寝ている,起こすと逆ギレする
こんな風に「アカハラ」の種は,大学には無数に存在する。だから最近,教員の学生に対する態度は「触らぬ神にたたり無し」だ。毎日ビクビクして過ごしている。大学に出てこない学生を,昔は迎えに行って無理やり仕事をやらせたが,今はそんなことできないからギリギリまでお互いに何も改善されない。今,社会はこういう環境を大学に求めているらしい。
「幼稚園児の作文だ」「死んでしまえ」などと暴言をぶつける・・・というのもあった。だって,高校までに論理的な文章を書く授業も訓練もない。国語? 数学より役に立たない科目だ。単に作文の宿題が出るだけだ。幼稚園児よりはましだが,とても読めたものではないのは明らかである。僕の卒論も(実は恥ずかしながら修論もPhD論文も)真っ赤だった。もちろん自分が選んだ言葉はほとんど残っていない。実はそれで喧嘩をしたことがあったが,今ではいい思い出だ。で,「死んでしまえ」という教員はまずいないから,これはある極端な数少ない例をマスコミ流に挙げただけだろう。しかし「幼稚園児・・・」は,大学教員のほぼ 120% が実際に直面して(自分の過去を棚に上げて)口に出そうとして,(自分の過去を思い出して)思いとどまった言葉の一種であることは確実だ。卒論の最初の草稿のコピーをそのままご両親にお送りして,感想文を 400 字くらいで書いてもらったらどうだろう。

2011年2月13日日曜日

博士号は資格らしい・・・知らなかった

大学教員は(かつては)採用試験があるわけでもなく資格も要らなかった。僕なんかも学閥と出身校からの天下りに過ぎない。しかし,それを改革すべく導入されている昨今の論文数信奉(特に英語による)には大きな違和感を感じる。某国の若手研究者は,中身はともかく論文数稼ぎに必死だそうで,実際に統計上の数字でも明らかだ。就職には不可欠な数値基準らしい。最近,学会の委員会論文集だけではなく権威のある論文集や国際誌に投稿される論文(査読と呼ばれる論文審査で接することができる)にもゴミみたいなのがたくさんある。資格獲得のためには数集めが必至なのである。お互い様なので査読も甘いのか?
研究の手法や規模にもよるが,50 人で書いた一編と単著が,各一著者にとって同じレベルの成果だろうか。方法論を発見した一人の最初の論文と,それを使って応用した論文が同じ質だろうか。自分で発見したモデルを使って応用した論文が,そのモデル提案の論文と同じ質だろうか。対象としている技術そのものの国内基準と国際基準が異なる分野の研究で,英文論文が出せない人の質は低いのだろうか。きっとそうなのだ。でなければ論文数信奉は成立しない。1 年に 10~50 編の論文を執筆する。後者は週 1 編だ。中身のレベルが高ければ高い程,1 編執筆するのには,結果が出てから 2 ヶ月くらいはかかると思うのだ。結果が出るまで 1 年で,ここは学生さんがやってくれたとしても,どうやって年に 10 編も作れるのか理解できない,というのが今日このごろのボンクラ頭の思う不思議である。きっと頭が 5 つで効き手が 18 本くらいあって,寝ている間も思考とワープロ作業ができるに違いない。確かに,頭のいい学生さんにとってはすばらしい教員になりそうだ。

2011年2月12日土曜日

我が国は芸術・アニメ・芸能が最大の強み・・・か

役所はもとより大学や,最近ではノーベル賞受賞者も同じことを述べているが,我が国は資源が無いことから「最大の強みは科学・技術であり」「ものづくりが得意な」国として発展するような政策・教育・研究を目指すべきらしい。
実は僕の研究室(工学部)にいる学生十数名中三分の二以上が「旋盤」「タッピング」「モンキースパナ」「レンチ」「ニッパ」を知らない。役所はどういう教育方針で,こういった学生になるような道筋を初等・中等教育機関に指導・実施していたのだろう。極めて興味深い。一体どこが「技術」であり「ものづくり」なのだ。自動車会社に勤めた人が,学生時代にお世話になった模型屋さんのご主人に言っていたそうだ。「最近の新入社員はプラモデルも作ったことない。そんな奴がどうして車を作れるのだろう」と。役所や家庭では,突然変異で技術者が育成されるのだと信じているようだ。もちろん大学は学ぶところで,丁寧に教える場所ではないし,ここには旋盤も無い・・・
そんな中で,どうやっていい技術者になる人材を育成したらいいのだろう。困った! いや,役所の将来予測ではきっと,我が国の発展はアニメが助けてくれるから,もうそろそろ「ものづくり」は卒業ということか・・・

2011年2月6日日曜日

成績がなんぼのもんか

さて出世とは直接関係は無いが,4 年生になって卒論をする研究室を選ぶ際に成績順に希望をかなえて欲しいという要求が学生側から何年か前に出て,そのときはそれを容認した。ということは,そのような選び方を主張する学生は,成績の悪い人に対しての思いやりは全く無いということを意味する・・・ということが,彼らはわかっていたのか。一所懸命やった人だけを評価すべきだという考え方は,国家公務員試験に合格した人はそうでない人よりも優れた人材であると主張するのと同じだ。確かに TV のインタビューでそう応えた役人がいて,びっくりした。でも,本当にそれは正しいか。あるいは現実の,要領のいい人,もう少し建前的に書くと,話し合いや根回しで何となく決めようと努力する人を排除する方向にしか思えない。僕は嫌いだ。
さて僕は宿題で相談をすることは禁止していない。人に教えることは理解を深めるし,教えてもらったことを自分の言葉に翻訳して勉強すれば実力がつくからだ。大学 3 年生のときに 16 進法を初めて理解した(したがって,そのとき初めて 10 進法を理解した)のも,友人と一緒に宿題をしていたからだ。しかし最近,宿題はほぼすべて満点なのに,定期試験がメチャクチャな学生が目立ってきた。きっと他人の宿題をコピーしただけなのだろう。さすがに採点のときには怒りを覚えるが,僕の知ったことではない。その学生が自分で自分の人生に責任を持ってもらえれば済むだけ。ただ,アメリカ人と違って,こういう学生は「1 週の持ち帰り試験 (take-home-exam)」でもカンニングするのではないだろうか。ここがアメリカに負ける一つの理由でもあると感じる。日本はもう駄目かもしれない。

2011年2月5日土曜日

コピペは日本人を進化させる

TV で標記の話題があって一瞬驚いたが,中身は,ペーストのあとに加筆修正をするという極めてまっとうな内容だった。現状とはかなり違う。
ただ,少なくとも大学では,カンニングもコピペもやりたい学生にはやらせればいい。見つけたら摘発して停学にしたらいいだけのことだが,それも面倒だし不要だ。世の中,要領のいい人が出世するのは現実(要領のいい人がそういう倫理違反をしていると言っているわけではない)だし,他人がどういう手段でどういう利を得るかに文句を言う前に,自分を律しておけば済むこと。損をしようと・・・である。「天網恢恢,疎にして漏らさず」という言葉は多分死語だろう。しかし,何をどうこう言おうと,自分のことを正しくしておけばいいだけのこと。根底にある問題はカンニングする人の倫理観でしかない。それを他人がどうこう言う必要はない。その人の自己責任にすればいいこと。大学で工学倫理とかくだらない授業をする必要がある現状が問題なわけである。家庭の問題,育ちの問題である。現場では,きっと,そういう人はいい技術者にはならない・・・と期待しておきたい。
実は,a) 学会発表を無断で欠席してわびない,b) 駐車票をもらった初日に駐車違反をする,c) 長期休学する直前に無断で家財道具と車を大学内に保管,のすべてを一人でやった学生がいた。顔も見たくない下衆な根性の持ち主だ。足は引張らなかったが,僕には 3 回も唾を吐いたのだろうから,協力もしなかった。その後も無断で研究室のゼミはもちろん中間報告会も欠席した上で,研究の結果も見せに来ないから,どうしようも無い。

2011年1月30日日曜日

それでもあの醤油は・・・

日本は小さいけど東西で好みや味が違うのは当然だろう。四角い顔の人が多い東と大陸系の丸い顔の人が多い西の違いは,はるか昔にそうなったからだ。当然食べ物も異なる。東京でうどんは食べたいとは思わないし,九州ではやはり「お」うどんだ。カップ麺ですら,東と西で出汁が違う。西に北の昆布があることは歴史があって面白い。また「とんこつ」のラーメンが東では脂ギトギトと誤解されている。ただ,高菜や皿うどんが東で食べられるのはコンビニとチェーン店のお陰ではあるのだが。しかし,その味はオリジナルの西のものを保持して欲しいと願っている。商売のために迎合するのはよくない。文化を破壊してしまう。口に合わないものはまずいと言わずに,単に食べないで欲しいものだ。
しかし,コンビニ文化と TV のグルメ番組の弊害によって,呼び名からして東が西を駆逐しつつあるように感じる。西の人はもうちょっと抵抗しようよ。「豚まん」を肉まんと呼ぶととてもまずそうだ。食べたくなくなる。「海苔巻き」は海苔巻きであって太巻きではない。ちっとも太くなんかない。標準サイズである。細いのは「鉄火」に「河童」だ。「かしわ」はかしわであって,とり肉と呼ぶのは品が無いし,これもまずく感じる。コンビニの竹輪は「竹輪」の半分くらいの径しかないし,フニャフニャで美味しくない。カレーの肉は「牛」だろう。焼き鳥の肉は「かしわ」だろう,決して豚ではない。困ったものだ・・・
しかし,熊本周辺のあの甘い醤油はいただけないのだが・・・

2011年1月29日土曜日

上位互換

MS 社の OS を仕方なく用いているが,どうも MS 社を好きになれない。自分が中心にいるという尊大な態度があまりにも見えてしまう。昔,出版も含めたフォントは MS 社のものを標準にしたいと言っていると聞いたことがある。歴史のある芸術作品を,ポッと出の digital 粗悪品で置き換えようというのだ。どういうつもりなのだろうと思った。その後どうなったのかわからないが。
また,文房具ソフトがあるが,バージョンが上がると古いファイルの機能が継承されないと聞く。またマシンが変わると出力が違ったりするということも聞いたことがある。開発 B 言語も version 6 ではそれ以前と全く異なってしまっている。特に描画機能等がそうだ。だから自作のソフトのバージョンを上げるのが自動変換でも困難(もうほぼ不可能)になる。
そして最近とんでもないことが発生した。いつものように security のために,気にせずに W Update を実行してしまうことによって,ブラウザ(僕は 6 だが最新の 8 でも同様)がとんでもないことになるのだ。JIS 漢字コードで書かれたウェブページが,場合によって(charset を設定し忘れるたとき)は全く文字化けが直らない。charset が指定してあっても再読み込みが必要だ。ブラウザの漢字エンコード設定が「日本語(自動選択)」に固定できない。そして,それが『仕様』だとのたまうのである。元々は漢字は JIS 標準であったという歴史そのものを無視してしまうのである。
ひょっとして技術力が低いのだろうか。M という OS では,まだ「りんご」だったころから,ファイルの属性はファイルヘッダを読むことによって判別し,拡張子といったものでは左右されないようになっている。拡張子はあくまでもユーザの便宜のために使うものだ。しかし MS 社の OS では,拡張子を変更してしまうともう駄目・・・フゥーッ! なんじゃこりゃ,である。その MS のソフト限定で論文投稿受理をしている日本の土木学会はとんでもない組織なのである。

2011年1月23日日曜日

最近の案山子は自販機

確かに学生のころから戸外に自販機があった。が,たいていは店舗に密着していたと思う。アメリカでは戸外には無いが,大学構内にもあるし,ランドリー等にもあるから不便は無い。それが 30 年くらい前から,日本中のどこにでもある。場所を選ばない。ちょっと遠出をすると田んぼの中のバス停の横に見つけたりする。建物は周りには無い。日本の景観を壊している代表格ではないかと思っている。全部無くせ! こんだけコンビニがあるんだから・・・
さて,かつて僕が学科長だったときに,僕らのいる実験研究棟に自販機を導入しようとしたところ,建築の教員会議の全員一致の回答ということで,「教育・研究環境に相応しくない」と言われ却下された。講義室周辺やエレベータ内での建築の学生の会話ではよく,「自販機欲しいなぁ」というのが聞かれ,その都度「反対しているのは建築の教員」と伝えてきた。それから 15 年経ってようやく 3 台が設置された。建築は大賛成だったという。以前反対していたとされる教員は今もいるのだが,何を考えているか理解できない建築関係者はとても多い。そうそう,10 年ほど前にこの建物の玄関前の模様替えを検討する必要が出た。そのとき建築の教員から出た案には,バス停の横,もちろん戸外だ! そこに何と自販機が! 一体,ここの建築ってのは,どういう審美観・倫理観を持っているのだろう。よくわからない。ま,わかりたくもないが。
誰が設計したのかわからないが,学内の環境委員会の意向も強く反映された大学生協売店が最近できた。本棚がいろいろな向きに離れて立っている。直角に整然と並んでいる方がよっぽど使い易いのだが。壁がまぁるいから無駄なスペースができる。旅行コーナーのカウンタの職員は足の伸ばすスペースが無い。並んでカウンタに着くまで旅行申込者は時刻表を見てはいけない。備え付け以外のボールペンをカウンタに置いてはいけない。すべての食べ物コーナーに直射日光が入るからチョコレートが融ける。雑誌を見るには目をつぶらないといけないくらいの光が注ぐから立ち読みができない。ブラインドを付けようにも縁がまぁるいから・・・何を考えているのでしょうねぇ。その横にまた,動線が最悪な食堂が完成した。

2011年1月22日土曜日

大学の先生は嘘つき

西澤潤一氏が 10/17 の朝日宮城版に出ていた。自分のノーベル賞のことに言及するので大嫌いな人物の一人ではあるが,ここに二ついいことが書いてあった。引用する。若い研究者は「自分の頭で考えること」,「先生(教授や上司)の言うことにはうそもあるし、十分に考えないで指示することもある」。
最近宿題の答を教えろという学生が増えたが,大学で学ぶことには,自分の言葉に翻訳して理解しないと使える知にはならないものがほとんどだ。高校までの「習う」という姿勢で他人の言葉で聞いたことは,よほど相性が良くない限り,自分のものにはできない。これが前者の言葉だ。また serendipity(本当の意味はあまり理解されていないし,英和辞典の記述は正確ではない)とまでは言わないが,新しいことを見出そう(研究とはそういうもの)という場合,まだわかっていないのだから,経験と勘と希望に基づいて模索している。そこを学生に手伝ってもらい,彼の彼女の卒論や学位論文になっていく。だから,答が出た段階で間違っていることもたくさんあるし,誤解が思わぬ結果に到達するかもしれない。これが後者の言葉だ。大学は習う場所ではなく,学ぶ場である。「希望」と書いたが,しかし,有名なアインシュタインのように「こうなればいいなぁ」という研究ができる人が極めて稀なことはよく知られた事実である。とにかく手を動かして(もらって)何か途中の結果を出してみないと,研究は前には進まない。
さて同じ記事の記者後記に,西澤氏の教え子の結婚式における彼のプレゼントについて書いた上で「ちょっと煙たい」と書いてあった。そもそも指導教員を結婚式・披露宴に呼んで祝辞をやらせることからが間違いであり,教員には煙たい。

2011年1月16日日曜日

人生の先輩にちょっと聞けば

面談のアポイントメントをとった学生がそのときは来ず,後日変更の電話をしてきた。でも,連絡してきただけまだとってもましな学生なのであるが,「すみません」とか,嘘でもいいから「友人と議論しててころっと忘れて」とかの言葉は無かった。「忘れてしまったのですが,どうしたらいいですか」である。ま,そんなものです。これでもまだ本当にましな方なのです。面談の態度はそこそこよかった。先輩とか,近所で世話になっているお店のおやじさんとかに,ちょっと聞いて対応したらすぐに 100 点満点になるのに・・・と,自分の過去は棚に上げて書いてます。
専攻長には知人以外から手紙がいくつか来る。身分としては助手レベルのある機関の方からの手紙が「前略・・・草々」だったことがある。文中の表現もかなりまずかった。事務室に行って,室長さんとかお姉さん達にちょっと聞けば恥をかかなくて済んだのに。そういえば,教員の中には事務職員を下に見ている人がいますね。逆に,教員に挨拶しない事務職員も本学には多数いますがね。きっと,東北地方で一番偉い役人の一人だと勘違いしているのかもしれません・・・おっと,脱線しました。「年の功」というのはたいていは当たっています。かく言う僕も知らんことはたくさんあります。
ごく最近,就職係をしていて学生の推薦状が必要になったものの専攻長秘書が休暇中だったので自分で対応した。その文面を初めて見てあれ? とは思ったものの,時間がなかったのでそのまま出したのだが,事務室で公印をもらうときに教務のお姉さんが「せんせ! これ本当に出したの? ちょっとまずいんじゃないの」と・・・。お姉さんも助言できないということだったので,おやじに案を示して書き直してもらった。ほんのちょっとしたことなんだが,それで戦争になることだってある・・・Klingon との間のように・・・かもしれない。

2011年1月15日土曜日

なんでも電子化

TV で,ディジタル教材やら電子黒板を推奨する人たちの話が流れていた。きちんとは聞いていなかったが,みんな大人だ。子供が本当にどう感じているか,どういう効果があったかはわからんのでは? と・・・授業中に楽しいとか理解し易いということが better なのだろうか。「うぅーんわからん!」「つまらないなぁ,でも試験が・・・困った」の方が,脳にはいいのではないか。そもそも授業中に理解することは,特に大学では,ごく一部の秀才以外には不可能だ。おや? 僕だけかな? かもしれない。今思い起こすと,雑談は覚えているが,何かを身に付けたと感じているのは,留学先での勉強だ。というのも,一度習ったことを別の角度から講義してもらったし,難しい宿題があったし,板書を写しただけのノートがあとでも読めたから。でも授業中には理解できず,博士課程になって初めて重要だと思うのようになった復習をしたからだと思う。米国の講義では雑談は無い。システマティックに教えてくれる。ノートがきれいにできる。それでもわからないのは学生の実力だと実感できる。
板書というのは大切だ。自分の手を動かして写すことが,不思議なことに脳に刺激を与えているとしか思えない。プリントをもらう,スライドで説明を受ける・・・駄目だ! ほとんど何も頭の中に残らない。そのときは楽しいから議論はできるが,終わって 1 時間もするとほとんど何も残っていない。論文をコンピュータ上で書く。できるだけ論理的に書く。草稿ができて 1 週間冷ましておく。草稿ができて 1 日くらいのときにコンピュータの画面で推敲しても,誤字は見つかっても論理の部分にはほとんど赤は入らない。1 週後に「印刷して」赤ボールペンを手にして読み直す。自分の草稿であっても,真っ赤になるし順番も変わる。ページ毎の赤が一つくらいになるまでに 3 回くらいは「印刷」しないといけない。画面上では推敲ができない。僕がボンクラだからだろうが,何故かわからない。
最近,あとでわかるノートができるように板書をすると「手が疲れる,速い,きたない,プリントでくれ」という授業評価が必ずたくさん出る。なので,電子版のノートをダウンロードさせて板書はさぼるようにした。理解が浅くなったとしても彼らの責任だ。先の電子教材の番組では,コンピュータ表示上で選択問題が出されていて,回答のあとに正解が表示された。そう,最近は宿題や期末試験の正解を教えてくれと来る学生が増えた。自分で考えればいいではないか。わからないなら考えましょう。それでも駄目なら,それが実力。友達に聞きましょう(だって 100 点の学生いるんですよ)。それでも,わかるまで頑張らないのであれば,それは君がそれには興味が無いということ。勉強する必要はありませんよ。手を動かしましょう。きっと頭も動くと思います。大学で学ぶことには,死ぬまで理解できないことは無数にあります。ここは高校じゃない!

2011年1月9日日曜日

ここの学生の手は汚い

アメリカの大学等のトイレの手拭きは,以前はロールタオルを一回毎に回して利用するものだった。よくスタックしていたり,余裕がなくて手が拭き難いものもあった。すべて夜間に働いてくれている掃除担当者が交換してくれていたと思う。NU ではこの担当者にはスペイン系の人たちが多かった。夕方から夜中にかけては廊下でスペイン語が飛び交う。もちろんすべての部屋のゴミ箱も全部彼らが処理してくれる。だから我々も「こもえすた!」「ぐらしえす!」と礼を言い,帰宅時には「あしたまにあわない!」と挨拶するのだ。
さて,トイレの手拭だが,この 5 月に NU に行ったところ,これが使い捨ての紙になっており,さらに電動自動給紙だった。こりゃ使い易い。環境問題に厳しい先生は,こういったものは設置せずにハンカチを持たせろとおっしゃるが,僕のいる学科ではかつて,トイレットペーパーを大量に消費したりする学生が出てくる始末だった。そしてそれが床に散乱しても気にしない。シンクに流れて詰まっても何もしない。自分のアパートはきっと綺麗に使っているんだろうが・・・
いま使っている大学の建物の耐震改修等のあと,ここも使い捨ての紙を置くものに替わった。使い易くなったのはいいが,使い切ったあと,予備のパックを誰もサーバーにセットしてくれない。だから僕がよくセットする破目になるのだが,なぜいつも僕なんだろう。きっと,学生さんは自分の手があまりにも汚いので,その手で他の人のためにセットしたら皆嫌がるだろうなぁと思って,控えているに違いない。ほとんどの学生が,予備のパックから直接(箱ティッシュのように)取り出して使っているが,そのあともきっと学生の手はとても汚いのだろう。じゃ,その手で研究室のドアを触るな! と言いたい。実はトイレットペーパーも同様で,芯しか残っていないペーパーサーバーの上に,使用中のロールが置かれているのだ。工学部の学生なのに,取り替える方法がわからないんだな,きっと。大学生の知能低下がここにも現れているのだ。