2011年1月15日土曜日

なんでも電子化

TV で,ディジタル教材やら電子黒板を推奨する人たちの話が流れていた。きちんとは聞いていなかったが,みんな大人だ。子供が本当にどう感じているか,どういう効果があったかはわからんのでは? と・・・授業中に楽しいとか理解し易いということが better なのだろうか。「うぅーんわからん!」「つまらないなぁ,でも試験が・・・困った」の方が,脳にはいいのではないか。そもそも授業中に理解することは,特に大学では,ごく一部の秀才以外には不可能だ。おや? 僕だけかな? かもしれない。今思い起こすと,雑談は覚えているが,何かを身に付けたと感じているのは,留学先での勉強だ。というのも,一度習ったことを別の角度から講義してもらったし,難しい宿題があったし,板書を写しただけのノートがあとでも読めたから。でも授業中には理解できず,博士課程になって初めて重要だと思うのようになった復習をしたからだと思う。米国の講義では雑談は無い。システマティックに教えてくれる。ノートがきれいにできる。それでもわからないのは学生の実力だと実感できる。
板書というのは大切だ。自分の手を動かして写すことが,不思議なことに脳に刺激を与えているとしか思えない。プリントをもらう,スライドで説明を受ける・・・駄目だ! ほとんど何も頭の中に残らない。そのときは楽しいから議論はできるが,終わって 1 時間もするとほとんど何も残っていない。論文をコンピュータ上で書く。できるだけ論理的に書く。草稿ができて 1 週間冷ましておく。草稿ができて 1 日くらいのときにコンピュータの画面で推敲しても,誤字は見つかっても論理の部分にはほとんど赤は入らない。1 週後に「印刷して」赤ボールペンを手にして読み直す。自分の草稿であっても,真っ赤になるし順番も変わる。ページ毎の赤が一つくらいになるまでに 3 回くらいは「印刷」しないといけない。画面上では推敲ができない。僕がボンクラだからだろうが,何故かわからない。
最近,あとでわかるノートができるように板書をすると「手が疲れる,速い,きたない,プリントでくれ」という授業評価が必ずたくさん出る。なので,電子版のノートをダウンロードさせて板書はさぼるようにした。理解が浅くなったとしても彼らの責任だ。先の電子教材の番組では,コンピュータ表示上で選択問題が出されていて,回答のあとに正解が表示された。そう,最近は宿題や期末試験の正解を教えてくれと来る学生が増えた。自分で考えればいいではないか。わからないなら考えましょう。それでも駄目なら,それが実力。友達に聞きましょう(だって 100 点の学生いるんですよ)。それでも,わかるまで頑張らないのであれば,それは君がそれには興味が無いということ。勉強する必要はありませんよ。手を動かしましょう。きっと頭も動くと思います。大学で学ぶことには,死ぬまで理解できないことは無数にあります。ここは高校じゃない!