2010年12月26日日曜日

大学教員の本性

今年もメジロがベランダに来ました。
さて,学生さんや同僚あるいは仕事をする仲間以外の人とは何も利害関係にはないし,エーカッコシィーもしないでいいので,素が出る。同僚には悪いが・・・通っているジムで会う人々が持っている大学教員の評価は,このところ随分下がってしまっていると思う。かなり前,会うたびにいろいろな話をしていたそのジムの非常勤職員の女性は当時 20 歳台後半だったと思うが,あるとき(僕でも東大に入学できたのだから)「先生,私もなんだか東大に入れそうな気がしてきました。」とおっしゃった。そう,きっと大丈夫だ。
先日届いた東京大学出版会の機関誌 UP の No. 455 に,とても面白い随筆があった。理学部の須藤靖先生の連載で「注文(ちゅうぶん)の多い雑文」という洒落た題目のシリーズであるが,今回は「大学教師をめぐる三つの誤解」というものだった。ご自身のお嬢さんとの文頭の逸話が傑作だが,その三つの誤解とは「講義以外は大学に出てこない」「人格者である/変人である」「頭が良い」である。何となくわかる人には予想がつくと思うが,興味を持った方は是非眺めて欲しい。どこで読めるのかな? ネットにはありませんでした。正解は「会議には出てこない,出たがらない,出ても建設的な提案はしない」「わがままである/価値観が狭い」「頭が良いと思い込んでいる」・・・なのかもしれないなぁ。

2010年12月25日土曜日

PhD はレベルが低い

東北大学工学研究科ではそういう声をよく聞く。きっとそうなのだろう。確か K 大では,PhD には学位を取り直させるとか。
プールの受付のお嬢さんの妹さんが米国の Summer Session に参加して哲学の勉強をしたそうだ。そして,米国の学生の勤勉ぶりというか,必死に学習する姿にとても驚いたそうである。多分一つの科目が月水金 60 分ずつ 3 回か,火木 90 分ずつ 2 回で 1 quarter を過ごす。金曜午後から土曜は(米国人学生は)思い切り遊ばなければならないし,日曜は教会に行った上で,その週末には宿題もたくさんある。試験は一週間の take-home exam だったりする。平均 C が二学期続くと強制退学だ。必死にならざるを得ない。PhD 課程の最初の 2 年間も同様のスクーリングだし,これに加えて TA か RA 研究が付く。東北大学工学研究科博士後期課程のように,実質的に講義は無く実用研究にほぼ 24 時間 365 日没頭するのに比べれば,それはそれは PhD の評価が低くなるのも当然だろう。
米国の中等教育までのレベルは日本のそれより低いと思う。大学 2 年生の複素数の第一回目の授業中に「板書にたくさん出てくる i(虚数単位)って何?」という質問が出たりする。履修の順番を間違えた学生だ。しかし 4 年生・修士になると,日本の少なくとも国立の同学年学生の平均よりも学力(知識かな?)は付いているのではないだろうか。
僕のところの最近の学生は卒業要件分だけしか講義を聴かない。単位を取らないというのではない。講義を最小限しか聴かないのである。試験を受けないでもいい講義をノートも取らずに聴くのはとても楽しいと思うのだが,それもしないのは何となくもったいない。我々の時代は,なんでもかんでも聴いた上で合格になりそうな科目の試験だけを受けた。知人には文学部の講義まで取ったのがいた。食べ放題の店では元が取れるくらい食べて脂肪を身に付ける学生が,授業料の元を取るくらいの知識や知恵への執着が無い。自分で払ってないからか。僕らも自分では払ってなかったよ。食以外はもう満ち足りているのだろうか。

2010年12月19日日曜日

物理的な意味

米国で学生していたときによく耳にしたし,たいへんお世話になった M 先生もおっしゃっていたが,例えば講演会などで何か質問しなければいけないとき,よく「**の物理的な意味は何?」というのを使う。僕は今でも使っている。本当にわからないときはもちろん,礼儀的に何かを発言しなければならないときに便利なのだ。しかし,数理モデルの勉強や研究をしていると,やはり物理的な意味というのが大事だし,理解するためにも必要な情報である。
僕のところの最近の土木の学生さんは,しかし,この言葉が嫌いらしい。というのも,工学部で勉強するために入学してきてはいるものの,嫌いな科目は「数学」「物理」「英語」だからだ。しばらく前には「東北大は英語の配点が低いから受験した」という学生もいたくらいだ。いま学内の事情があって,英語で応用数学を教えている。「物理」現象をモデル化して解くための「数学」的手法を「英語」で教えている。だから学生の授業評価はそれはそれはもう滅茶苦茶だ。この三つがすべて嫌いな人が土木技術者になって,どうやって世界で創造的事業に従事できるのか心配な今日この頃だ。ま,僕の知ったこっちゃないけども。

2010年12月18日土曜日

映画の終わり方・始まり方

ストップ・モーションで終わる映画は邪道だといった趣旨のネットの書き込みを見つけた。ま,中身とのバランスだから必ずしもそうではないだろう。いつ終わるのか・・・が急にストップで終わる。まだ続く・・・と思ったのが急に終わる。印象は強い。僕が好きなのは「ディア・ハンター」と「いつも心に太陽を」の終わり方。ただし前者の中身には疲労困憊してしまう。後者の場合は,途中にも効果的なスティル画像の連続がある。テンポを変えるのに効果があるのだろう。ただし後者は古いので,今の若い人達には観づらいかもしれない。別の終わり方の例では,「クレーマー vs クレーマー」や「ユージュアル・サスペクト」もいい。その様子は敢えて書いておかない。
始まり方は,そう 007 はいいねぇ。中身はどうせ全部同じなんだけど,最初のタイトル前のあの数分はとてもいい。一番いいのは「ムーン・レイカー」だ。何度も撮り直したものをつなぎ合わせた上に,一部スタジオの偽の映像挿入。でも,この数分でもう満足といったところだ。そうそう,スペース・シャトルは本物より先にボンド中佐を宇宙に連れて行った。
映画会社のロゴ(と言うのかな? 始まりに出てくる会社のクレジット映像)に重ねて始まるものに「失われたアーク」がある。これも面白いじゃないか。

2010年12月12日日曜日

フタヘヤスムスム

東北大学の理念の基礎の一つに「門戸開放主義」というのがある。元教養部には塀も門も無く,それを含む文系キャンパスでも工学部・理学部キャンパスでも,その真ん中を仙台市道が通っていて警察の車も自由に通行することができる。この市道で一旦停止を無視する車をつかまえるために,大学内のある道路では夜間,警察の車が停まっていたりする。それが,マルクス経済学が主流だった経済学部の目と鼻の先だ。これが本学の「門戸」開放主義だ! ・・・・・というのはもちろん嘘である。
さて,土木と建築以外の工学部学科ではあるとき,学士編入学の門戸を閉ざした。理由ははっきりとは覚えていないが,あまり筋のいいものではないように僕には聞こえた。建築には毎年のように受験者がいると聞く。土木には滅多にないのだが,僕の研究室には一人,理科教育系大学からの編入者があった。彼は最初,修士に入学して土木の仕事をしたいと相談に来たが,僕ともう一人の先輩先生で学部教育の重要さを説明し,絶対損にはならないから学士編入学した方がいいと説得した。その結果,編入学できて成績もよく,今は立派な土木系の地方公務員だ。
もう一つの理念の基礎は「研究第一主義」だが,特に本学工学研究科は産学云々というキーワードも漏れてくることからわかるように,大学ではなく専門学校にムニャムニャ・・・

2010年12月11日土曜日

トリビア

我が国にはあまりこういったデータベースが無いように思う。TV 番組があったが,さほどウィットに富んでいるものでもなかった。B 級(ま,ちょっとマニアックなという意味で)グルメとかに殺到するのに,種々の事項の裏にあるマニアックな情報を集めて仲間うちで楽しんだりはしない。米国には TV や映画等に関する著名なトリビア本がある。邦訳もされているが,例えば Mr. Bond の好きな飲みものとか,**という映画に出てくる警官のバッジの番号とか,超 B 級な情報が満載である。何の役にも立たないし,知っていても自慢にもならない。一部の人しか知らない。ネットの映画のデータベースにもそういうトリビアが羅列されている。僕が大好きな,世界一のミュージカル映画 `The Blues Brothers' も,例えば「無意味に壊した車の数の世界レコード保持(『無意味に』は僕が加筆)」とか,「主人公の運転免許証の番号がイリノイ州の規則に忠実である(?)こと」「領収書の住所は・・・」等である。映画館でこれに気付くことはほぼ不可能だろう。
日本人には余裕が無いのだろうか。あるいはこういう,最近呼ぶところの「ヲタク的」なものを嫌うのだろうか。実は裏にあるのは,例えば映画を製作する人がどのくらい「楽しく仕事をしているか」を表す指標なのではないかと思っている。上のような情報からは,映画を製作する人が連続徹夜で仕事をしながら一所懸命工夫して,「ふっふっふ,こんなところには誰も気付かないぞ」とほくそ笑んでいる姿が見えてくる。
インターネットがここまで普及する前,各種便利なソフトをフリーで公開配布する人がいたが,そのバイナリのファイルを無理やりエディタで覗くと,データエリアに「このソフトをダウンロードした人は・・・」といった落書きがされていたりした。添付の著作権ドキュメントにも「これはフリーで使えるが,使う前に東に向かって二回おじぎをして・・・」みたいなのもあった。僕も,LaTeX で使える外字を作るソフトを公開配布したことがあるが,画面のある箇所を押すと「マインスィーパー」になるようにした。
組版ソフトの TeX は米国数学会の商標でもあり,Elsevier への投稿もそのままできて校正不要になる等の便利でフリーのすばらしいものだ。これを作った人が出しているマニュアルの索引には有名な遊びがある。日本の出版社なら多分許さないだろう。僕は,ネット配布の講義ノートで真似をしている。仕事を楽しみながらやるという余裕は,我が国にはあまり無いのかもしれない。大学人くらいは遊びながら仕事をしたらいいのにね。

2010年12月5日日曜日

学生さんのご挨拶

最近は,学生さんは会釈すらしない。僕らが学生だったときは,習ったことのある先生と廊下ですれ違うときには会釈くらいはした。中には学生全員の名前を覚えておられる先生(土質の福岡先生)もいらっしゃって,学生の会釈に名前を付けて返してくださって驚いたものだ。僕は学生の顔と名前を覚えられない,が,会釈くらいしてくれればこちらも声を掛けて挨拶くらいはしますよ。高校のときの担任が還暦を迎えたときに,夏休みの高校のかつての教室で漢文の授業を卒業生で受けた。高校の廊下を歩いていると生徒(夏補習だ!)がみな会釈をするので驚いた。が,これが当たり前だったはず。ちなみに漢文の授業は「論語」についてだった。
さて,就職担当だったときにリクルートに来た OB が,挨拶もできない人は仕事もできない(我々は集団で協力しながら仕事をする)から,そういう学生は雇わない。いくら誤魔化しても,見学会や懇親会等ですぐボロが出るからわかるということだった。付焼刃ではだめということだったが,就職担当としては立場上学生に注意事項をアナウンスしなければならない。しかしメイル連絡をしてすぐに後悔した。というのも,そのアナウンスの直後から多くの学生が急に会釈をするようになったからだ。あぁーあ,面倒臭い・・・

2010年12月4日土曜日

英語を聞く・英語で話す考える

10/20 の朝日に鳥飼玖美子女史の英語教育へのコメントがあった。一部しか引用しないのは誤解を招くかもしれないが,敢えて「・・・、これまで企業人が外国に放り出されて何とか英語でやってこられたのは、読み書きの基礎力があったから・・・」とあった。短い文節にして(論文でも関係代名詞なんかは極力使わない!)文法通り話せば通じます。一番の問題点は聞く力。正しい発音を覚えてない(聞いたことない)からということと,頭の中では日本語で考えているということ,この二つを克服しないと英語での会話はできないだろう。ならば,何度も聞き直せばいい(時間稼ぎのためにも)ことであり,相手の癖にできるだけ早く慣れればいい。`Pardon↑'(シカゴ周辺の米国中西部なら `Excuse me↑')を恥ずかしがらずに使う。そうすればあとは文法通り話せるかどうか。特に相手がインテリであればこれでいい。冠詞もどうでもいい。ただし相手が子供だともういけません。
英語で考えるのは難しいとしても,発音は大事だ。「こ’ーひー」は `Coke' に聞こえるとよく言われる。「ばーぼん」ではビールが出てきたりする。空港から `E'vanston' の `O'rrington Hote'l' に行きたくて,「えヴぁ’んすとん」の「おり’んとんほ’てる」と指示すると,タクシー運転手は理解できない。でも,相手が大学教授なら大丈夫。そんなものだ。また,一息でどこまで口に出すかも大事かもしれない。日本語でも,九州地方の標準語の抑揚の無い文章は関東地方人には理解しにくい。大学に入ってすぐに吉祥寺の駅ビル地下で「ソフトクリームをください」が通じなかった。ソフトクリーム売り場でである。鳥飼女史は「・・・(冠詞のことを述べた上で)そのかわり日本人はもう少し丁寧に子音の連結や強弱のリズムをマスターしたほうが理解されやすくなる」と書いていた。努力はしましょう。
一方,英語で書く場合は大丈夫だと思う人は多いかもしれないが,これこそ論理が英語的でない場合には理解してもらえないからやっかいだ。英語校閲をお願いしている女史も,英語だけを直しても駄目なときにはすっごく疲れるとおっしゃる。論理構成が上から下へとストレートではない文章の場合だ。やはり英語は難しい。そもそも後ろから訳すことだけでもやめさせたら,英語への抵抗は減ると感じている。鳥飼女史の記事には,最近の英語教育は随分よくなっているとあったが,最近の学生の訳でも,いつもうしろからうしろからという人がほぼ 100% だ。関係代名詞や「to ~」もまず主文を訳してから続けることを教えてみたらどうかと思っている。僕のゼミではそうさせようと努力している。そうすると,少なくとも話すのは楽になってうまくなるのではないだろうか。とは素人の感想でした。

2010年11月28日日曜日

文科省公認就職予備校

新聞によると,地域の課題解決やインターンシップなどを通じて職業観を培い,卒業後の自立につなげる目的の事業助成に 30 億円を計上したらしい。学生の質と価値観の変化に対応した事業のように見えるかもしれないが,大学で? もう既に遅いのではないか。こんなもの仕分けせぃ! 他人のために,嫌なことを耐えて他人が喜ぶことを喜ぶということをもっと若いうちにやらないと間に合わないと思う。それができない人は大学教員くらいしか就職先は無い。呵呵。大学では,本当のインターンシップ,つまり,嫌なことを耐えてやることを知っていることが「前提」で,もっと仕事の本質を学んでもらわないと困る。学部学生の段階でこの前提が無いとなると,インターンシップはもはや,仕事の本質に少しでも触れる経験にはならない。
同じ記事に「就職活動を三ヶ月以内にできるような学生を育て」というのがあった。僕の専攻・学科では 3 年生と修士 1 年生の 11 月末くらいに 2 回,上級生からと教員・OB からの就職ガイダンスをする。二つの学年共に 2 月初旬までは授業と試験がある。企業は 12 月か 1 月あたりから学生に接触できるが,原則 2 月初旬以降に工場や現場の見学とか事実上の面接である懇親会等を実施し,3 月末までにはおおよその候補を絞り込んで 4 月から 5 月にかけて内々定がある。つまり,大学の指導と企業の自粛の連携によって,春休みを中心にした約三ヶ月の就職活動が実現している。たいていの学生はこれで内々定をして,その後,卒論や修論に取り組める。もし国家公務員および地方公務員の試験が 5 月の連休明けくらいまでに終わってくれれば,学生への負担はかなり減るのだが,夏休みまで続くので悩ましいところだ。結局夏学期の前半,研修に時間を十分に取ることができない学生が残ってしまう。
いずれにしても,30 億かける事業は本人の問題と大学企業の連携の問題ではないのか。これはもっと別のこと,子供とか福祉とか奨学金等に当てたらどうか。実際にうまくいっている業界があるのに,なんで役所が税金を無駄に当てないといけないのか理解できない。もしかして故意の仕分けられ枠?

2010年11月27日土曜日

大学は就職予備校か

新聞だったと思うが,大学入試の英語は TOEIC でやればいい,余計なくだらん英語を教えるな試験に出すなという意見を見たことがある。TOEIC は就職したら必要な資格だから,という論理だったように誤解したが,そこまで本音を言われると現場の教員としてはちと頭にくる。しかし,学部一年生へのアンケートで大学・学科を選んだ理由を聞くと,ほとんどすべてが「就職を考えて」となる。僕らの時代とは違う。大学は勉強をする所であって,就職先を探す場所ではなかったと思うのだが。ということで,一部のインテリと学生の立場からすると,大学はやはり就職予備校である。
しかし,きちんとした会社からは「即戦力を期待していない(期待なんかできない)」とも聞こえてくる。それはそうだろう。現場と理屈の間には深い谷がある。しかし理屈を身に付けていない人が現場で新しいアイデアを出すのは難しいというのも,そこそこ当たっているのではないか。
しかしですよ,こと英語に関しては,確かに学生のレベルは非常に低い。4 年生になって英語の論文や本を読むことになるが,訳は滅茶苦茶だ。僕が学生のときもそうだったから全く何も変わってない。その TOEIC で入試を代用すればいいと主張する人が推奨する中等教育を経れば,どんな論文でも読めるようになるのだろうか。疑問だ。
確か英語は論理的な記述に適した言語だ。英語の校閲をお願いしている女史によると,留学した先生の論文とそうでない先生の論文の英語は全く違うという。その,構造も含めて論理的な英語が苦手なのが大学生だ。つまりそれは,日本語のレポートでも論理が明確になっていないことを意味する。そんな人が TOEIC でいい点数を取ったとき,彼や彼女が書いた日本語の文章がわかり易くなる保証があるのだろうか。かなり疑問だ。面白いことに英語の論文執筆が得意な先生の日本語の論文・文章は僕には読み易い。ただし,多くの人には「くどい」らしい。ここあたりが英語論理表現と日本語表現の差かもしれない。
さて予備校にもどろう。東北大学では AO 入試をやっている。この面接員に OB を含めること(米国の丁寧な入試等の表面的な真似)に僕は反対したが極めて少数派だった。TOEIC の議論も同様だが,自分が受け持つことになる学生の審査で,別目的の試験や会社の立場の人を使うことには違和感しか覚えない。しかし上述のような学生の指向を見ると,こちらが本流なのかもしれない。大学は随分と変わってしまったなぁー。

2010年11月21日日曜日

肉食メインの教員コンパをしてくれぇ

大学生になって東に行ったとき,ちらし寿司に刺身がたくさん乗っているのに非常に驚いたことがある。子供のころから魚はほとんど食べなかったし,肉もそんなに好きではなかった。が,こんなに豚になってしまった。おっと・・・ちらし寿司ってのは錦糸玉子とか干瓢が乗ったもので,海産物はせいぜいエビくらいだった。刺身が好きなわけではなかったから,寿司屋ではちらし寿司を食べていたのだ。大学生になって一人暮らしをするようになってから魚を食べることができるようになった。ま,特に食べたいものではない。しかし教員コンパがあると魚介類がメインになる。職場に客が来ると寿司屋に行こうということになる。僕は半生のステーキが食べたいのだが。
ようやく最近になって,例のケンミンショーの中の発言で,魚の乗らないちらし寿司が西の文化だと知った。やはりそうだったのか。

2010年11月19日金曜日

みんなと一緒

B 級グルメのコンテストで上位になった店に客が行列を作るらしい。昨今の経済状態で提供する方ががんばるのは,ま,いいとしよう。しかし,そこに行列を作る客の気がしれない。行列ができたら,もはや B 級ではなく,単に不特定多数の客が集まる一級にはなれない味の店になるだけ。そして集まる客の舌が疑われるだけではないのか。あるいは逆にそこは A 級の味だったことになる。B 級を本当に好む人は多分,他人のあまり知らないそれなりの店が好きで,そこを B 級だと称しているのではないか。たとえ味が一級並だったとしても,あるいはその人だけの好みの味だったとしてもだ。そういう人は,だれもが行列を作る店を B 級とは思わないのではないだろうか。俺しか知らない美味しいものを出す店,それが B 級ではないのだろうか。
B 級映画ってのもある。`Resurrection' というアメリカ映画はもはや中古ビデオしか無いようだが,見たときは面白かった。ふふふ,これは誰も知らんでしょう? StarTrek Voyager 艦長役のケイト・マルグルーが,アーチェリの名手の母親役で子供の危機を救う映画も多分超 B 級だ。有料 TV で観たのではあるが,これもあまり知らんでしょう? これが,誰でも知ってたら僕にとってはもはや B 級ではなくなると思う。確かに,史上最高のミュージカルである「ブルース・ブラザーズ」は多くの人に愛されているとは思うが,本当に好きな人は(我が国では)少ないのではないか。やはり B 級映画だと思う。
一般人の中では,芥川也寸志氏を知っている人は意外に少ないという印象がある。指揮はとても下手なように見える。校歌をたくさん作っているが,有名な曲はあまり無いのではないかと思うが,トリプティクが好きだ。これも僕にとっては B 級の音楽である。

2010年11月14日日曜日

宮崎県は九州にあるか

地図上はそうだろう。僕は経済は全く苦手で興味も無いが,きっと,大分と宮崎は大阪の方を向いている瀬戸内経済圏にいるように見える。これに対して福岡を中心とする熊本・佐賀・長崎は九州の中心だろう。そして下関周辺の山口も福岡経済圏だろう。一方鹿児島は,ちょっと他とは一緒になりたくなく(独自・独特とも呼ぶが),でも福岡の方も向いているようでいて,直に飛行機で東京の隣にいるつもりかもしれない。そんなこともあり,また歴史的な経緯もあり,鹿児島と熊本が新幹線の車両名「みずほ」でもめるのも仕方がなさそうだ。
東北はどうか。誇張だろうが,大間の人は函館で散髪するという。がしかし,青森が北海道の方を向いているようには感じられない。きっと,ちょっと東京とは遠いが我慢(仙台を通過)してそちらを向いているのではないか。もうすぐ新幹線もつながるし。秋田・岩手・山形・福島はもう新幹線で東京とつながった(仙台は単なる通過駅だ)から,青森と同じく東京を向いているように感じる。宮城は,東北一というプライドを捨てきれないでいて,東京を向いてはいない振りをしたい。しかし他の 5 県にとっては宮城なんてどうでもいい存在だということには気付いていないか,気付かない振りをしているように感じる。仙台市商業中心部が鹿児島市のそれより格段に「活気」があるか(面積や人の数ではなくなんとなくの雰囲気)というと,僕にはそうは感じない。まして,同じ政令指定都市の博多とは比べ物にならない。
ときどき僕の周りでも「道州制」という言葉を聞く。こんなことを言っているのは地域に密着した文化を大事にしない人達なのではないかと感じる。誤解の無いように書いておくが,東京の土着の人はそれなりの「地方」文化を持っている。

2010年11月13日土曜日

佐賀は何県か

東北新幹線に「はやぶさ」が決まって,おもしろく思ってない人が九州にはたくさんいるだろう。しかも「はやぶさ」は投票の 7 位で,もちろん 1 位は「はつかり」である。誰もがそう思う。さてそのとばっちり (?) で大阪=鹿児島の新幹線が「みずほ」になり,鹿児島人はもっとおもしろくないらしいし,熊本は通過駅待遇が我慢ならんらしいし,あるいは「みずほ」は熊本で終点とでも言っているんだったかな? というコメントがテレビから聞こえてきた(『ながら』をしてたので)。ま,そんなローカルな紛争はともかく,「つばめ」と「さくら」は確保できたのに「はやぶさ」を失った。「さくら」は将来の長崎への延長を念頭に置くとキープしなければ。それが何故,一番大事な(失礼!)「はやぶさ」が? JR 東日本より格下の JR 九州では力関係から無理だったのだろうか。
通過駅といえば,東北新幹線の発展途上において大宮や上野が一時憂き目を見た。上野は今でもその影響が残っているのかもしれない。熊本はそのあたりを心配しているのかもしれないが,熊本は実質的に福岡とつながっていて(地理的にも経済的にも)共生している(少しは食い合っているだろうから)ようにも見える。これに対し,佐賀はどうなっているのだろう。九州人にとってもまさに通過エリアのように見えていないか。鳥栖のかしわ弁当は絶品だが・・・九州人以外の方には佐賀がどこにあるかご存知ない方も多いらしい。サッカーファンでも鳥栖は福岡だと思っているかもしれない。以前,学内の電子掲示板で「佐賀は福岡の属国」と書いたところ,すぐに強い! 反論があった。彼曰く「そんなことはない! 東半分だけがそうであって,西半分は長崎の属国である」と。
そうそう,「はやぶさ」が使えないなら,大阪までを「つばめ」にして九州島内は「有明」にしたらどうだろう。もちろん長崎からは「さくら」だけども。大分・宮崎? うぅーむ,そっちに新幹線は・・・むにゃむにゃ

2010年11月7日日曜日

尻上がり決死隊

最近ん,学生はぁもとよりプロのアナウンサのぉ言葉がぁ汚い。単語がぁ,という意味ではない。音である。句やぁ文節のおしりにぃ若干ではあるがぁ,直前の音の母音がぁ残るのである。本当にぃ若干なのでぇ,この文の小さい文字ほどのぉ大きさ・強さ・長さではない。本当にぃ一瞬といったぁ長さでぇ,それ程強くはないもののぉ,僕の耳につくくらいのぉ強さはぁある。鼻濁音のようにしてくれぇとまではぁ言う積もりはぁ全く無いがぁ,誤解をぉ生まない程度でぇ,句末文末はぁもう少し弱くぅ発音できないものでぇあろうかぁ。
それがぁ,一部のぉ,学生やぁ,比較的ぃ,若いぃ女性をぉ,中心とした場合にぃ,限定するとぉ,これがぁ,若干ではぁ,なくなるぅ。まさにぃ,この文のようにぃ,なるぅ。しかもぉ,読点がぁ,とてもぉ,多い。聞くことがぁ,苦痛にぃ,なるぅ。そのぉ,人がぁ,下品なぁ,人間にぃ,思えてぇ,くるぅ。あるいは語尾が上がる。例えば街角でインタビュー↑,されたとしよう。すると一見主婦↑,に見える女性↑,が問題↑,となっている店舗↑,を利用したときの様子↑,を,事細かにしゃべる・・・といったような語尾上げだ。何か質問したいのだろうか,それとも自信が無いので相手に目で確かめながらしゃべっているのだろうか。これもまた聞き取り難い。
もう一つ, 学生, に多い, のは文の切れ目, がなんだかおかしい, と思われる発表, が多いことだ。助詞,が次,の単語の方,にくっつくのである。実はこれは,英語を読ませたときと全く逆の現象で,英語の場合は冠詞までをまず発音した上で次の単語から発音する(例:The/ problem is a/ typical example of/ applications of the/ thoery of the/ .... 息継ぎ箇所が / である)のだ。なんでそうなるの?

2010年11月6日土曜日

学生の権利

授業評価というシステムが導入されている。またぞろ,米国の表面的な真似である。質問項目も不適切なものも多い。例えば,スライドを用いない授業であっても「スライド等の機器類の利用は効果的だったか」等だ。教科書を使わない授業に「教科書は十分考慮されたもので効果的に引用されていたか」等だ。そして,教科書を使っていないのに,その質問に答える学生が複数存在する。スライドの多用やプリント大量配付の講義が悪弊を及ぼすことがわかっているにもかかわらず,それを是認するようにも取れる質問が存在するから,学生はそのような講義の方がいいと誤解する。そして,スライドを多用する授業評価には,当然ながらスライド利用に対する批判が書かれることになる。
さて評価結果であるが,そこそこ効果はある。とんでもなくやる気の無い授業やドタキャンの多い授業の評価は,必ず教室内の最下位に並ぶ。もちろん,僕がやっている「物理」現象を「数学」モデルで解くための手法を「英語」で教えていると,その評価はそのすぐ上くらいに位置することになる。僕の学科ではすべての評価結果を教員のみならず学生にも公表し,教員からのコメントも学生にフィードバックしている。しかし中には,学生が権利意識を持ちすぎていると思われるものもある。小テストで成績を決めるなとか,こちらが意図してやっていることで個人的にお気に召さないものに批判をする。多数派ではないものの,1 年生のときから授業評価ができるので,自分が正しく,それに反するものを批判するのが権利だと思っている節もある。特に成績が悪くなるようなものに敏感だ。当たり前ですか? それでいい? 僕はそうは思わない。大学は勉強するところだ。成績を高めて競争する場所ではない。資格を取る場所でもない。就職するための技術を身に付ける場所でもない。
さて米国の授業の板書はすばらしい。写しただけで何となくわかった気になるし,後日ノートを読み直して論理構成もわかる。教科書は要らない。僕が日本で学生だったころのノートはあとで読むとわけがわからないものが多かったが,米国留学した先生や秀才と言われる先生の板書はとてもよかった。しかし,同じことを日本でやる(実は米国で受けた授業で写したノートをそのまま和訳して板書していたことがある)と「腱鞘炎になるからプリントにして配れ」となる。講演会でメモを取るという習慣は学生は持っていない。手を動かさないでどうしてものごとが理解できるのか不思議だ。義務を怠った人は権利主張はできないことになっているのだが・・・

2010年10月31日日曜日

米軍の研究支援その2

PhD を終えた僕が日本に帰るに当たって,何か守秘義務のようなものを課せられたことはなかった。やったことすべてが論文で表に出ているから当たり前。昨今,留学生・外国人研究者の受け入れで面倒なことがある。軍事技術に使え「そうな?」技術や成果物に触れさせてはいけないというのだ。これは基礎研究にも適用される。当たり前の措置だとは思うが,どうやって「軍事技術関連」と判定するかは非常に不透明だ。キーワードのリストがあるが,それだけを見るとすべての研究が当てはまりそうなのだ。担当役人の個々の判断によるようにも聞こえてくる。某大学で米軍の支援を受けた先生の新聞記事によると,その先生もこの輸出技術の審査(書類がいっぱい!)をこと細かく受けたようだ。
さて,事業仕分けでも問題視されたが,文科省(学振や JST 等の関連独立行政法人を含む)は原則基礎研究支援だけにしたらどうか。応用技術はすべて他の関連省庁に任せる。土木応用力学研究はは文科省で支援,実用土木技術開発研究は国交省が支援といったようにだ。しかも一省庁一研究代表者一件で,もっと欲しければグループを組むか民間から。現在は,ある応用技術に複数の役所等から金が(重複は許可しないというが,本当に調べてますか? 兼業やら技術指導やら合わせていわゆる「エフォート」の合計が 200% を超える教授が実はたくさんいるとか?)出ている。カミオカンデでの理学研究のように光熱費だけで膨大な資金が必要なものを除けば,こういった重複は無駄。特に文科省は研究分野も研究者年齢も幅広くする(かつての?)方針を維持した方がいいと思う。
しかし実は基礎研究には金が要らないものもある。紙と鉛筆と頭(と光熱費)でやる研究だ。せいぜい昨今の高性能 PC やある種のソフト等があればさらにいい。しかし大学は獲得外部資金で競争をしたがっているため,そういう研究者にも外部資金の獲得を「強要」する。そのため,何日もの書類との格闘(かつては糊付けする作業だけでもたいへんだった)という時間を浪費させられている先生もいる。大学側は,誰が何を獲得しているかを知っているだけではなく,「あなたは**にも応募できますよ」と「とても親切な圧力」をかけてくる。法人化とは,大学の営利企業化のことだったようだ。どうりで最近,社長の権限が強い。

2010年10月30日土曜日

米軍の研究支援

標記が問題視されているようだ。特に基礎研究の場合外部資金を求める先はたくさんはない。戦争は否定するが,それが技術開発のドライビング・フォースになったのは事実だ。安全安心快適便利社会への貢献のための競争で技術開発をしている分野が土木だ。競争もお金(適切な)であり,そのお金(それなりの)がインセンティブになっているのかもしれないが,今のインフラはそうやって造られてきたし,これからも造られていく。そしていいものができていく。しかし,土木も含めて基礎研究となると国の補助金くらいしか支援はないだろう。しかし不思議なことに役所が「流行」を意識する(他省庁の標語等にそのまま乗っかる)ので,成果がいつ出るかわからない基礎研究はほとんど見捨てられる。基礎研究者のドライビング・フォースは,不思議を解明したいという純粋な探究心だろう。ま,誰も金は出さないやね。実は友人が米軍の研究費関係の仕事をしている。彼の話では,基礎研究だろうが何だろうが,申請があれば審査して支援するそうだ。成果はあくまでも学問的なものになるというような印象を持ったが・・・
僕が PhD をやったときにはボスが授業料と生活費をくれた。今さかのぼって出版した論文の謝辞を見ると,NSF 以外は米陸軍と NASA だ。僕が参加した研究が,明日陸軍が使える技術に転換できるとは思えないが,米軍というのはそういう文化のようだ。その文化もあって日本の研究支援をしているのであろう。上述の友人の話の印象もそうだった。というわけで,役所が支援もしてくれない研究に金を出してくれる米軍の支援を受けることは,仕方が無いだろう。某協会もぐちゃぐちゃ言わないで積極的になってもいいのでは。もし役所なり協会やマスコミが問題視するのであれば,それに代わる手当てをまずその人たちがすべきだろう。
ある学内の仕事でご一緒した他学部の先生が面白いことをおっしゃった。ちょっと演出・誇張して書いておこう。「あの役所の役人さんは能力が低いので,企画の大枠を作る時に T 大の懇意な先生(昔は御用学者と呼ばれていた範疇を含むのかな)から内々に提案をもらい,それを含む企画を打ち上げる。その先生がまずは採択されて,残った金を審査員がばらまいているんだな,きっと。」面白い推測・観察である。ところでその T 大は,米軍からの支援を受けないという決議がなされていると聞く。きっとうるさい教員がいるんだろうが,実際必要が無いというのが本音か。

2010年10月23日土曜日

アヒルがしゃべってる

プロのアナウンサの文が長いが,どうやって長くするかというと,すべての文を「が」で終わらせるのだが,がぁがぁアヒルのようにうるさいが,言いたいことが次々に頭に浮かんでくるのだろうと考えられなくもないが,プロが職業として正確な情報を伝えるといに相応しいかと考えるとまずいように思えてならなないが,話し言葉がこんなに長く続くと意味がだんだんわからなくなってくるのだが,聞いている方も実はなんとなく聞いているだけだからこれでいいのかもしれないが,これを一度授業でやってみようかなとも思わないわけではないが,学生さんはきっと今まで以上に中身がわからなくなると思うが,正しい情報を間違いなく伝えるべきアナウンサや教員の場合はもう少し考え直す必要がありそうだが,リハーサル等で文章を起こしてはいないのだろうか。
ただ最近,原稿を一度きちんと起こした上でそれを話し言葉にしてしゃべっているようには思えないことがよくある。というのも,意味が一意ではないようにも聞こえることが多くなってきているからだ。本多勝一氏を嫌う人は多いが,彼の「日本語の作文技術(朝日文庫, 1999)」はためになる。特に,複数の修飾語がある場合に長いものを先に持ってくると誤解の無い文になる点はわかり易い。昨今のアナウンサの発言の,この修飾語の配置に問題があるように感じることが多い。
福田という首相がいた。彼は「薬缶(やかん)」を正しく発音できる最後の日本人と呼ばれていたと聞いたことがある。どういう風に発音するって? 教えないよ。

2010年10月22日金曜日

大学は学力で選ぶ

入学した学生に学科選択の理由を聞くとほとんどすべてが「将来の就職」との関係だ。では大学をどのようにして選んだかというと,多分半分以上が,自分の高校のときの学力レベルだ。大学入試センターという天下り先(理事の一人は多分:現理事長は某大元総長:大学ももちろん天下り先だが)がある。そこで実施した試験の結果は自己採点という方法で予備校が把握し,予備校生の過去の合格状況を元に,各大学の A, B ライン等が公開されている。自己採点が何点かがわかると,どの大学にどのくらいの確率で合格するかが志願前にわかる仕組になっている。大学入試センターがやっていないという「大学の序列化」が,かなり正確な確率的な数値で実現されている。大学毎に実施している二次試験成績と,センター試験成績の相関はほとんど無いと感じている。センターがやっていないという「資格試験」としてしか,そのセンター試験は利用されていない。本人の潜在的能力はセンター試験では測定できていない。
さて,喜ばしいことに日本の大学出身者にもまたノーベル賞が授けられた。彼らの出身大学が,それをきっかけに志願者を増やそうとしている,と新聞は書く。しかし,上述のように,外向きにはなれない若者,草食系の若者は,僕同様の高い安全率を確保するため,そんなことでは志望先を変更することはできないのが現状だろう。大学の名声が上がることで変化するのは,高校の優良成績者の志願先だ。だから,短期的には志望倍率が変化して合格者の成績は上がるとしても,それは成績中庸者の合格・不合格の確率が変化するだけで,長期的には志願倍率は元にもどるだけだ。そのとき,一時的に上がった合格者の成績がいつまで維持できるかが大学としては問題である。が,しょせんセンター試験成績と学生の潜在的能力にはほとんど相関が無い以上,「いい?」人材が増えるかどうかは疑問である。期待できる平均的ラインは,受験動機が就職から学問に向くことではないだろうか。それ以上を期待しても無理だし無駄だ。昨今の高校生の志望動機を踏まえると,センター試験の存在はむなしい気持ちしかもたらしていない。

2010年10月17日日曜日

冥王星の無くなった惑星群

秘密のケンミンショーという TV 番組は面白い。先日あったのは,ある地方で「夕焼け小焼け」の無伴奏版(小学校等で夕方流されるメロディー)を「パンザマスト」と呼ぶというものだ(理由はネット等参照)。番組中,ある出場者が「自分のところはドヴォルザークの新世界だった」と! 僕もそうだったような気がする。ただし「新世界」と呼んでいただろうか。何か別名で呼んでなかったかなぁ。あれは「新世界」だと親に教えられて驚いた記憶だけがうっすらとあるからだ。
さて,これとはちょっと(全く)関係が無いのであるが,最近,ホルストの惑星の中の木星(快楽の神)の中盤部分が違う曲名で呼ばれて(アレンジされて)いることを知った。ある番組のエンディングテーマにも使われていたような気がするが,クレジットにはホルストの「ホ」の字も出てこなかった。実は今やこの編曲の方が一般には有名で,その曲が流れたときに「あ,木星」と言ったら「違うよ」と友人に否定されたことがある。これは上の「夕焼け小焼け」とは違って,ちとまずいのではないだろうか。著作権云々とまでは言わないが,この曲を最初に編集した人が例えば「自分の曲名:ホルストの木星から」とでも副題を付けていれば,こんなことにはならなかったのではないだろうか。ちょっとホルスト氏に申し訳ない。
この曲が作られた当時は冥王星は発見されていなかったから組曲は 7 曲構成である。この曲を初めて知った学生のころ,ちょっと残念な思いがあったが,なんと最近,冥王星が惑星群からはずされてしまった。組曲としては完備になったものの,それはそれでまた残念だ。

2010年10月16日土曜日

本多勝一氏はお嫌いか

10/10 の朝日新聞の「公共工事をめぐる談合をやめさせようと談合した業者に課す談合違約金を,減額する自治体が出てきた。」の意味が,別の関連記事を読むまでわからなかった。ひねくれ者の僕は,最近は『談合をしないように一部の優良業者に談合をさせて形式的な違約金を取っていた』のかと思った。これ「・・・やめさせようと,談合した業者に談合違約金を課しているが,それを減額する・・・」の方が誤解を招かないと思う。本多氏の『日本語の作文技術』にはもっとわかり易い例が書いてあり,卒論など誤解を避けるべき文章を書くためには必読書だと思っている。実はもっと「・・・談合をした業者に課す・・・」だけで十分ではないのか。「やめさせようと」と来たら次には「導入された」か何かが来て欲しい。
さて,談合は悪いことだ。けど,公共事業だけではなく我が国の多くの場面の決断では,競争や多数決ではなく,回りの状況を見ながら何となく決まってきたことの方が多くはないのだろうか。多分米国が何でも競争だろう。例えば,戦後の公共事業をすべて公正な競争だけで実施していたら,今ある会社の多くが淘汰されて存在すらしていないのではないか。そして,次第に独占化するにつれてそれを調整するために,今度や逆に国が調整をするのだろう。国の調整は正しくて,そうならないような業者間の談合が 100% 不正だと断言するのは,僕にはかなり苦しい。
生物は多様なことが望ましいそうだ。価値観も多様化した方がいい,戦争さえしなければ。それぞれが少しずつ異なる得意分野を持つ業者が多数いた方がいいだろう。特に公共事業には予定価格がある(これが高過ぎるという意味の無い批判がすべてを駄目にしている)から,その根拠となる物価表等を国が適性に公表している以上,独占的に過度に儲ける業者は出ないのではないか。だとすると,談合は・・・

2010年10月9日土曜日

リズムが本質

音楽は何で聴くか。メロディ? かな? しかし,最も大事なのはリズムだ。友人に楽器をやる人がいたら,得意な曲をすべて(例えば)四分音符で演奏してもらうといい。全く何がなんだかわからないだろう。学生のときミヨーの「スカラムーシュ」に接した。最終章が特に楽しい。当時の人気 TV 番組の踊りながらの導入曲に似てるねって国立(くにたち)音楽学校出身の方からコメントをもらい,確かに!と納得した。やはり踊りだリズムだ。
学生のときの目覚ましに FM 局を使っていたが,ある朝(日曜だったと思うが),肉声を打楽器のように使った(僕の当時の指導教員の形容)曲に出会った。すぐに本屋の雑誌立ち読みで,オルフのカンタータ「カルミナ・ブラーナ」だとわかった。その後ボスと雑談の折に,偶然その曲の面白さの話になって前述の形容句をいただいた。リズム・リズムだ。何しろ言葉の意味は全くわからん。ストラビンスキーの「春の祭典」もリズム・リズムだ。画期的だ。すごいっ! だったらダンス音楽が最高ではないか・・・というので,どこかでピアソラを経験した。TV CM よりも早かったとは思うが,どこでだったか忘れた。そして,ついに「ブエノスアイレスのマリア」に到達した。ギドン=クレーメルが企画したものだが,ピアソラだっ! ジムでの自転車こぎにも最適だ。
ただし,最近の学生さんの聞いているヤカマシイ音楽のはちと退屈に思うのだがどうだろう。エレベータや電車・バスの中で,イヤホンからもれてくるのはリズム部分だ。これがどういうわけか単調だ。バッハの編曲もたくさんあるが,どうしてバックリズムが単調なのだろう。なんでこんな退屈なリズムで・・・と,おじさんにはわからない。ちと専門用語を使うが,発展則というのがどこにあるのだろう。ジャズは発展則そのものだろう。リズムもモチーフも・・・ストラビンスキーなんてのは発展則に突然変異もある。そこが,その意外性が楽しみ・心地よさにつながる。単調なリズムは貧乏ゆすりと同じでイライラするのだが,世代の違いか。

2010年10月7日木曜日

正確ではない報道

ノーベル化学賞の夜のニュースには 3 人の写真。報道内容・構成との間に大きな違和感を感じながら寝た。翌朝の新聞では,3 人目のアメリカ人 Heck 教授の成果がオリジナルで,それを二人の日本人が応用したように読める。しかしそれでも朝日の見出しは「日本人 2 氏 ノーベル賞」だ。間違ってないが,正確ではない。さすがに新聞には Heck 教授の写真と紹介があった。当たり前だろう。たまたまその午前中に乗ったタクシーの運転手さんは新聞を読んでいなかったのだろう。受賞が 3 人組でアメリカ人が入っていることを全く知らなかった。これはとてもまずいのではないか。逆の状況にある場合にアメリカの新聞見出しに日本人のことが書かれてなかったときに,この報道の人たちはどう感じるのだろう? ということを自問自答してそれを踏まえた上で夜に報道内容を構成・作成していたのだろうか。はなはだ怪しい。翌日の夕方と夜のニュースでも,まだ「ダブル受賞!」だ。間違ってはいないが正確ではない。
ちなみに午前中にネットで,New York Times と USA Today を探してみたところ,前者は `3 Share Nobel in Chemistry' であったし,後者は `2 Japanese, American share Nobel Prize' だった上でパデュー大の根岸教授の写真だった。日本の報道に比べると,見出しからしてとても正確だ。面白いことに Chicago Tribune には記事が見つからなかった。学生のときに某大学の音楽学科女性教授に「活字なんか信じちゃだめだよ」と言われたことがあるが,最近,それがあまりにも多いような気がする。僕のブログや講義ノートの中身も含めて・・・

2010年10月3日日曜日

何でも略す

随分前に大学の略称で UCLA というのが有名になった頃,UTYO (UTKY?) とかに略したとんでもさんがいたらしい。本家では NU だったりするのではあるが。そのせいか,語呂がいいからか,特に最近何でも 4 文字か 4 音節程度に略される。ここ周辺で並べてみると,「仙スタ(仙台 Stadium)」「ユアスタ(ユアテック Stadium 仙台)」「K スタ(クリネックス Stadium)」「スタコラ」「仙クラ(仙台 Classic[al] Festival)」「ボンクラ」。仙台には「ジャズフェス(定禅寺 Street Jazz Festival)」ってのもある。風邪に「インフル」「タミフル」。そういえばコンサートマスターも「コンマス」だし,「メンコン」ってな協奏曲もあるねぇ。会話ならともかく新聞もこうなる。レイアウトを楽にするためか。仲間内だけが通じればいい(コンマス・メンコンがそうだった)という大学軟派サークル的文化なのかもしれないし,日本語がほぼ一文字一音節なのがこうさせるのだろう。長くて有名な一音節の英語の単語は strength だそうだ。
大学人が使うのを今のところ聞いたことは無いが,社会人博士課程学生などの発言では「パラスタ」「アポイント」というのもある。前者はスタジアムではない。後者は多くの人が本当のスペルを知らないかもしれない。もうすぐ大学人も使うようになるんだろうなぁ。ビールの TV CM にも「プ*モル」というのがある。何なのか興味の無い人間には理解できないから,広報になっていないのではないか。
こういうのを four-letter word と呼ぶ,ってのは真っ赤な嘘だが,品が無いように感じられるところが共通か。僕は早口だそうだ。きっと略語をあまり使わないからかもしれない。

2010年10月2日土曜日

英語が公用語

いくつかの企業で社内公用語を英語にするらしい。大学でこれをやると会議が短くなっていいと言われる。日本語でも大議論ですれ違いがあるのに,英語だともう面倒でどうでもよくなるから。これで大学は駄目になっていく。工学部の先生で,英語で喧嘩ができる人がどのくらいいるのだろう。新聞のある記事によると,脳にはある大きさの作業場所(なんと CPU のレジスタと同じってこと)があって,外国語を処理しているときはその作業場所が思考以外に使われてしまうらしい。そらそうだろうね。英語耳でないのと,英語で考えられないから,英語を使うのは苦痛だ。学部学生に英語で授業をしているが苦痛だ。論文を零から英語で書くのは苦痛だ。誰か,とんでもない表現でいいから,論理的な英語の草稿を作ってくれないかなぁー。
ところで最近の若い先生は日本語でも議論をしない。会議で喧嘩腰の話はしない。TV 等で一般論として聞くのは,他人を傷つけたくないかららしい。傷つけないで相手の論理を否定することはほぼ不可能だ。だけど,議論されていることに賛同しているわけではないらしい。会議の本来の目的が成立していない。英語にしなくても,大学は駄目になります。しばらく前には,授業は雑用と言い放つ教授が TV に出ていたりした。今は,管理・運営を教授の雑用だとは思わない・やりたくないという教授が増えている。会議は短い方がいいからということで議論は成り立たない。法人化した大学の社長の思う壺だ。どんどん大学は駄目になっていく。

2010年9月26日日曜日

品の無い人

昨今流行の「品格」とは関係ない。トイレで並んだ某先生と用をたしながら下ネタを話す僕のことでもない。お金について自分のことしか考えない人のことである。組織に属していながら自分の周りのことしか考えない人はどこにでもいるだろう。棚ボタで得ている金や払うべき「運用税金」を出し渋る。緊急出費を皆で分担しようという提案に「『僕には』何のメリットも無いから嫌だ。」という言い方しかできない。うぅーむ困った。
さて国内も国際的にも,我が国は無政府状態にあるように見える。しかし学生はもちろん組合等もかつてのような「運動」は始めない。かく言う僕は,学生運動がほぼ終焉した最初の世代だ。入学直後のスト権投票で成立したストで一ヶ月の休講になり,頭は空っぽになって,ただでさえ難しい教養の授業が全く理解できない,秋休みはたったの 1 週間になってしまった,という自己不都合の経験から二度とスト権が成立しなくなった最初の学年だ。小出先生の振動学の授業で一時間丸まる叱られた。先生は学生紛争時代に執行部にいたことから辛い思いをしたそうだが,当時の学生に比べると何も発言しない今の学生(僕たちのこと)はよろしくないという批判だった。少し驚き,大学の教員を尊敬した瞬間でもあった。
今の多くの人たち(一般の人たちも含めて)も,もう「運動」もしない。領土問題や捕鯨問題・食品問題等に関連して商品不買運動等も起きない。日本人はお人よしだったかしらん,とジムで話し合ったところだ。戦争は絶対にしないが,政府が存在しない昨今,日本人はもう少し品が無くなってもいいのかもしれない。が,きっと,多くの人が,どうしたらいいのかすらわからない。僕もわからない。確かに自分達の生活だけで手一杯である。やはり政府がちゃんと確立しないと駄目だ。しっかりして欲しい!

2010年9月25日土曜日

放校は無慈悲か

朝日新聞(9 月中旬)で,我が国の AO 入試等を批判するためもあってか,「高校と大学の間」と題して米国の入試の丁寧さと進学率の高さについての紹介記事があった。またぞろある一点のみを眺めて評論をしている記事だ。大学教育システム全体を見たものではない。雑な教育評論は楽だ。誰でもできる。政治経済が行き詰ると政治家やマスコミが教育に口を出し始めると言われているらしい。ただ AO 入試は,初期のころ始めて維持している東北大学工学部(当時は一校一人の校長推薦で,高校成績上位者で「かつ」学業以外に特筆すべきものがあり「かつ」大学および就職後の志望がしっかりしている生徒だけが対象だったはずだが)を含めた数校以外では破綻しているのは誰も(大学側も高校側も)が認めるところだ。しかし東北大学のも 4 種類中一つしか目標達成はできていない。あとは止めたらいいと思う。
さて,米国大学は入るのは易しいが出るのは難しいと言われる。わかり易いのは B-average (注*) だろう。1) ある学期の成績平均が B 未満つまり 80 点未満の学生には警告が出され,2) 次の学期も同じだと放校。このようなシステムがあるからこそ,入学選抜を丁寧ではあるが無試験で実施できるのでは? しかも,学期ごとに他大学に編入学できる。我が国の大学で「この単位取れないと退学!」等という発言は,アカデミック・ハラスメントとみなされかねない。おぉー怖っ! ただし,多分米国では放校になった学生を受け入れる教育組織があるのだろうが,よく知らない。
大学に高校から 50% 以上も進学する必要があるのだろうか。大学卒業は課長以上の候補になる人材ではなかろうか。高校への進学率の実態を知らないが,もっと高卒を大事にしたらどうだろう。大学で 4 年間遊ぶ(より広い知識に触れるという意味で)人より現場の技術に直に長く接することができる。実際に手を動かす技術を身につけられる。大卒は(ごく一部の研究者以外は)その理屈がわかって開発・管理・運営・営業ができればいいのではないだろうか。
(注*) A >= 90, B>=80, C>=70, D>=60 としたとして。ただし,大学院の学位を取る場合にのみ B-average があるという情報もある。大学院では D は付けない大学もあって,学期当たり 4 科目履修くらいだとして C を一科目でも取るとちょっと不安。

2010年9月19日日曜日

エコカー補助金打ち切り

土木構造の設計で非常に重要な概念は安全率である。今は形を変えつつあるが概念はそのまま継承されている。しかし,その土木を学ぶ学生が設定する安全率はかなり小さい。卒業論文発表が終わって,あと一ヶ月で卒業式というある日,単位が足りないので特別課題で単位をくれと泣きついて(文字通り)くる。しかも試験を望む学生はいない。必ず何か特別な措置だ。最初からその積もりの確信犯ではないか。「いつもの試験の 2 倍くらい難しいのをいつもの 2 倍くらい出してください。8 時間の試験で合格してみせます」なんてのは皆無だ。
もう一つ面白い現象がある。大学院受験のための願書が締切日の前日に半分も届いていないことだ。学内学生の願書の半分が締切日に提出される。締切日に学科事務に書き方を聞きにくる。午後になって違う窓口に提出しにくる。計算機演習の宿題 3 題の締め切りを 2 週後,あるいは 5 週間に 5 題にすると,大半の提出はその締切前日か当日。そして授業評価には「3 題の宿題をいっぺんに出すのはひどい」となる。あれ?
また,ある発表会のスライドを一度練習で批評しても,次の練習までに修正・改訂ができていない。にもかかわらず土日はお休みだ。最近は徹夜もしないようだ。安全率は限りなく 1 に近い。高校まで誰かがなんとかしてくれたのだろうか。僕も誰かがなんとかしてくれるという人生を送ってきたが,安全率だけは高く保っていた。おかげでなんとか誰かが助けてくれた。
エコカー補助金が前倒しで突然打ち切られて怒る人を見ると,ちょっと怒りを覚える。役人さんは,特に文部科学省の役人さんの一部は大嫌いだが,彼らだけが悪いわけでもなかろうに。見通しを間違えたディーラーを批判する前に,自分の決断の遅さ・安全率の低さも反省しよう。

2010年9月18日土曜日

CG 多用の映画はつまらない

007 映画「ムーンレイカー」でスペース・シャトルのロケット噴射は**を使ったらしい。こういった模型の特撮はとても面白い。しかし,TV CM にだまされて(元を知らないで)観た「トランスフォーマー」には幻滅してしまった。質量が保存しないのはまぁ仕方がないとしても,CG ならやっぱりなんでもできてしまうからだ。もちろん製作が簡単だとは決して言わないが,やはり仮想世界の映像をそのままたくさん使うのには抵抗がある。ただし,実写の重ね合わせの拡張は嫌いではない。青いものを使って手足を消してしまう等は最初はとても驚いたが,よくできていると思う。StarTrek の TV 第三シリーズの人物が第一シリーズの映像の中を自然に歩き回るのはとてもよかった。
一方,以前 TV で,日本の特撮(怪獣映画)は誇るべきものだという評論か自慢を聞いたことがある(誤解かもしれない)が,おもちゃが飛んでいるようで感心しない。StarTrek の TV 第二シリーズ TNG でも,あるシーズンからとうとう CG になってしまい残念だったが,それまでは模型を使っていた。とてもよくできていた。最近の CG 多用はあまり面白くない。前述のようになんでもできてしまうから。物理(力学)からずれているようなことが CG を使わないで表現されているところにも面白さを感じるのだが。

2010年9月12日日曜日

六人組

最近の TV CM でサティやプーランクの曲がよく出てくる。サティは学生時代には CM に登場していたと思う。いわゆる六人組の二人だ。残りのうち,オーリックとオネゲルは楽しんだことがある。これ前後(かな?)のフランス近代は心地よい。音階についてよく言われる,古典で 8 度(オクターブ・ユニゾン)だったのが,ベートーベンあたりに 3 度になり,ドビッシーで 2 度,そして現代が・・・の最後の 2 ステップあたりに相当し,音色・リズム共に面白く,遊びというか,サティのように不真面目な(誰かの修飾)心地よさが楽しい。
僕が留学した先は音楽学校も有名だった。音楽図書館でプーランクの楽譜をコピーして,夜遅く音楽学校の練習室に潜り込んで,頭の中はレコードで聞いた音楽が,部屋にはしっちゃかめっちゃかな雑音が響いて,ストレスを溜めた記憶がある。米国ではフランス近代は好まれていたような印象がある。小中学校の授業の音楽が嫌いになった人は,是非フランス近代を。そうねぇ,ピアノ曲が嫌いじゃなかったら,ドビッシーが無難かもしれないが,プーランク等のピアノデュオ(2 台でも 4 手でも)はどうだろう。音程(A 音ピッチ)も時代と共に高くなっているんだし,古楽器で古典をなんて言わずに,新しい「クラシック(? classical) 音楽」が広まるといい。

2010年9月11日土曜日

ハンバーガーと日本の肉

M のより BK のワッパーの方が好きだ。前者は間食にはいいかもしれないが,食事にする肉という感じがしない。この 5 月に,20 年ぶりくらいで Evanston を訪れたときに久しぶりに食べて嬉しかった。多分,えぐいのだと思う。そこが肉らしい。霜降り和牛は高いだけで肉を食ったという感じがしない。舌には全く自信が無いからいいかげんなことを書いている。が,安上がりでいいでしょう。Chicago 美術館の中庭レストランに French dip がある?あった。フランスパンなのがいいが,そのローストビーフも肉らしい味だ。日本人の大半にはきっと駄目かもしれない。
留学していたころ,先輩(Washington 大学の T 先生)がときどき行ってたというハンバーガーレストランに日本人仲間で年に 1 回くらい行った。僕は dark rye にミディアムレアのハンバーガーである。皿が真っ赤になるのでナイフとフォークで食べるのだが,正装の必要は無い。美味しい。Borg Cube のようなオニオンフライがまた絶品だった。そうそう,この 5 月には NU のレストランで肉が出た。これも肉らしくてうまかったよ。和牛に付加価値(育てた産地名)を付けて高くしないと輸入肉には勝てないらしいが,霜降りにしないでいいから,肉々しい和牛を安く提供できるような畜産と流通は不可能なのだろうか。経済は苦手だが,あまりにも極端になり過ぎているように感じる。なんとかならないか。

2010年9月5日日曜日

教授は社長かい?

土木教室の教員コンパ係(他専攻の先生から「コンパ」をいまだに使っているのを笑われたことがある)だったとき,金銭的な理由から居酒屋を選んでいた。某教授がぼそっと「居酒屋かぁ」。ちょっと驚いた。大学と民間を比べたとき学長が社長だろう。それを順番に比べていくと,教授なんて課長に過ぎない。景気がいいときは給料もほぼ同じだった。バブルの頃は残業も多かったがもちろん民間の方がすごく良かった。その課長が最終講義をするというので大騒ぎをするのは何故?
外部評価というのがあった。中立な学外の先生に教室の現状をいろいろな角度から評価してもらうのだ。その評価者との会食が,これまた高かった。人材を育てる職業が世間では高く評価されているということをよく聞く。人材は育つものだという見方をする常識的な人もいることはいるのだが。

2010年9月4日土曜日

土木学会論文集への投稿はソフト限定

噂によれば,某社のワードプロセサ以外による投稿は受け付けなくなるそうだ。つまり [La]TeX は駄目。これで僕はもう投稿できなくなる。呵呵。全部英語にして国際論文集に出さないといけなくなるのか。ちょっとトホホだ。論文は中身で勝負だからワードプロセシング出力と組版の(例えば読み易さ等の)差は問わないのだろう。ま,フォントの芸術性なんてのには聞く耳を持たない連中が決めることなんだろうが,相互参照等を間違いなくすることができる便利なソフトを使っている人を排除するのが目的か。ハハハ
ある民間企業の一商品だけしか使用を認めない公益法人の姿を問題視するのは,単なる言いがかりに過ぎないのだろう。しかし現行の版下投稿システムを作ったとき,僕の元ボスの故 N 先生や某私大の N 先生(当時編集委員会幹事)とはいろいろな都合を受け入れる工夫を最大限考えた。ところが委員会が,関連したソフトを某社に格安で会員限定で配布するように依頼して馬鹿にされて断られたと聞いたことがある。当たり前だ。また,ワードプロセサ出力の醜さは棚に上げたまま,[La]TeX 版下に対する過剰で異常な無理難題な要求を,TeX の仕組を全く勉強していない事務局がし続けたのは,僕がその関係者だからよく知っている。
しかし,多くの価値観に基づいて技術開発をしてきた・していく土木工学をとりまとめる法人がこういうことでいいのだろうか。うん。価値観といえば,最近の世の中はどこか変だなぁ。身近や世の中の流れの中にモノトーンの怖さを感じることが多いこのごろだ。

2010年8月29日日曜日

教員の公募ということ

学生さんと学科・専攻の将来とのためにいい人材を得るために,普段からアンテナを高くしつつ目をつけた若い先生を縁故採用すること自体が間違っているとは決して思わないが,思いもかけない人が応募してくるかもしれないという点で,補足的に有用な方法だろう。結果が縁故採用であったとしても,公正な公募をしたのであれば全く問題は無い。ただ,大学人は常識人ではないから,縁故採用に問題がある場合があるのかもしれないが。呵呵。
以前,公募の結果学内からの 1 名の応募だった人事案に,他専攻の某教授が質問した。要はなぜそんなに少ない応募しかなかったのかという点だが,当該分野が新しいのだから仕方がないということで納得してもらった。その折,その教授周辺から出た話では,ある国(日本ではない)では 10名くらいは(絶対的な数値らしい)応募があるべきだということだったし,その教授はそれを是としていたようだ。全く理解できない。その国の研究資金獲得に際しても同様の申請があることに対しよく言われる悪口に,「ハエが群がる馬糞のような研究テーマに・・・」というのがある。
だから何ということではないのだが・・・

2010年8月28日土曜日

答案はいつ確定する?

某大手塾の TV CM で,一旦 × をもらった答案の答を消して書き直し満点をもらうというもの(のように見えるもの)がある。昨今は初等中等教育現場でそういうことが行われているのだろうか。
随分前ではあるが,期末試験を終えた直後に部屋に来た学生さんが,自分の答案用紙を見せて欲しいと言い,間違っている所について,その場で自分のノートに正しい答を書いたあと,そちらを採点して欲しいと言い出したことがある。なぜ?

2010年8月27日金曜日

宿題の提出についてよくわからないこと

最近の学生さんの中には,事前には何も言わないまま,締切を過ぎてから持ってくる人がいる。
「見て赤を入れてはあげるけど成績は付けないよ」と言うと,「じゃ提出しません」と言って持って帰ってしまう人がいる。何か勘違いをしているのではないだろうか。