2010年12月25日土曜日

PhD はレベルが低い

東北大学工学研究科ではそういう声をよく聞く。きっとそうなのだろう。確か K 大では,PhD には学位を取り直させるとか。
プールの受付のお嬢さんの妹さんが米国の Summer Session に参加して哲学の勉強をしたそうだ。そして,米国の学生の勤勉ぶりというか,必死に学習する姿にとても驚いたそうである。多分一つの科目が月水金 60 分ずつ 3 回か,火木 90 分ずつ 2 回で 1 quarter を過ごす。金曜午後から土曜は(米国人学生は)思い切り遊ばなければならないし,日曜は教会に行った上で,その週末には宿題もたくさんある。試験は一週間の take-home exam だったりする。平均 C が二学期続くと強制退学だ。必死にならざるを得ない。PhD 課程の最初の 2 年間も同様のスクーリングだし,これに加えて TA か RA 研究が付く。東北大学工学研究科博士後期課程のように,実質的に講義は無く実用研究にほぼ 24 時間 365 日没頭するのに比べれば,それはそれは PhD の評価が低くなるのも当然だろう。
米国の中等教育までのレベルは日本のそれより低いと思う。大学 2 年生の複素数の第一回目の授業中に「板書にたくさん出てくる i(虚数単位)って何?」という質問が出たりする。履修の順番を間違えた学生だ。しかし 4 年生・修士になると,日本の少なくとも国立の同学年学生の平均よりも学力(知識かな?)は付いているのではないだろうか。
僕のところの最近の学生は卒業要件分だけしか講義を聴かない。単位を取らないというのではない。講義を最小限しか聴かないのである。試験を受けないでもいい講義をノートも取らずに聴くのはとても楽しいと思うのだが,それもしないのは何となくもったいない。我々の時代は,なんでもかんでも聴いた上で合格になりそうな科目の試験だけを受けた。知人には文学部の講義まで取ったのがいた。食べ放題の店では元が取れるくらい食べて脂肪を身に付ける学生が,授業料の元を取るくらいの知識や知恵への執着が無い。自分で払ってないからか。僕らも自分では払ってなかったよ。食以外はもう満ち足りているのだろうか。