2011年9月10日土曜日

生かされている

震災直後から,TV に出てくる一般人(宗教家ではないという意味)が用いる言葉だ。高校野球の宣誓でも使われてしまっていた。どういう意味で使っているのかは難しい。自分だけが生き残ってしまった(代りに誰かが亡くなってしまった)ことを気持ちに含めているようにも聞こえるが,残念ながら真意は理解できない。人が自分でコントロールできない生命のことを指しているようにも聞こえるが,それは当たり前のことだ。あるいは,あの他力本願を庶民的な言葉にしたのだろうかとも推測していた。少し違和感はあるが,それは何だろう・・・と。
そこでお盆にお坊様と話をしてみましたよ。どうも他力本願とは若干違うのではないかという見解を得ましたよ。確かに宗教家や先生等からの影響もあるのだろうが,どういう意味で使われているかはわからないと。他力というのは,所詮自分では何もできないのだから「精一杯行きなさい」「生きるために殺生しなければならない(悪人)なら仕方がないからそれでも精一杯行きなさい」という能動的なもの。因果は神様が決めているからどうしようもないが,だからといって神様に誘導されているわけではない,受動的なものだというわけではない,精一杯生きたのなら(条件としては念仏を唱えれば)阿弥陀様が極楽に連れて行ってくれるというのが他力本願。微妙な違いだが,大事なのは能動的に生きていこうということだろう。それが他力本願。このお坊様からもらうカレンダーには「念仏唱えて今日も元気に生きましょう」とある。これは「生かされている」よりも前向きだ。念仏のところは,ま,置いておいて・・・ね。そして,そのお坊様は TV に出てきた若い女性が家族を亡くしているにも拘らず「しっかり生きていきます」という言葉を笑顔で発したことに感動を覚え,これが本当の生き方だとおっしゃってた。