2011年1月30日日曜日

それでもあの醤油は・・・

日本は小さいけど東西で好みや味が違うのは当然だろう。四角い顔の人が多い東と大陸系の丸い顔の人が多い西の違いは,はるか昔にそうなったからだ。当然食べ物も異なる。東京でうどんは食べたいとは思わないし,九州ではやはり「お」うどんだ。カップ麺ですら,東と西で出汁が違う。西に北の昆布があることは歴史があって面白い。また「とんこつ」のラーメンが東では脂ギトギトと誤解されている。ただ,高菜や皿うどんが東で食べられるのはコンビニとチェーン店のお陰ではあるのだが。しかし,その味はオリジナルの西のものを保持して欲しいと願っている。商売のために迎合するのはよくない。文化を破壊してしまう。口に合わないものはまずいと言わずに,単に食べないで欲しいものだ。
しかし,コンビニ文化と TV のグルメ番組の弊害によって,呼び名からして東が西を駆逐しつつあるように感じる。西の人はもうちょっと抵抗しようよ。「豚まん」を肉まんと呼ぶととてもまずそうだ。食べたくなくなる。「海苔巻き」は海苔巻きであって太巻きではない。ちっとも太くなんかない。標準サイズである。細いのは「鉄火」に「河童」だ。「かしわ」はかしわであって,とり肉と呼ぶのは品が無いし,これもまずく感じる。コンビニの竹輪は「竹輪」の半分くらいの径しかないし,フニャフニャで美味しくない。カレーの肉は「牛」だろう。焼き鳥の肉は「かしわ」だろう,決して豚ではない。困ったものだ・・・
しかし,熊本周辺のあの甘い醤油はいただけないのだが・・・

2011年1月29日土曜日

上位互換

MS 社の OS を仕方なく用いているが,どうも MS 社を好きになれない。自分が中心にいるという尊大な態度があまりにも見えてしまう。昔,出版も含めたフォントは MS 社のものを標準にしたいと言っていると聞いたことがある。歴史のある芸術作品を,ポッと出の digital 粗悪品で置き換えようというのだ。どういうつもりなのだろうと思った。その後どうなったのかわからないが。
また,文房具ソフトがあるが,バージョンが上がると古いファイルの機能が継承されないと聞く。またマシンが変わると出力が違ったりするということも聞いたことがある。開発 B 言語も version 6 ではそれ以前と全く異なってしまっている。特に描画機能等がそうだ。だから自作のソフトのバージョンを上げるのが自動変換でも困難(もうほぼ不可能)になる。
そして最近とんでもないことが発生した。いつものように security のために,気にせずに W Update を実行してしまうことによって,ブラウザ(僕は 6 だが最新の 8 でも同様)がとんでもないことになるのだ。JIS 漢字コードで書かれたウェブページが,場合によって(charset を設定し忘れるたとき)は全く文字化けが直らない。charset が指定してあっても再読み込みが必要だ。ブラウザの漢字エンコード設定が「日本語(自動選択)」に固定できない。そして,それが『仕様』だとのたまうのである。元々は漢字は JIS 標準であったという歴史そのものを無視してしまうのである。
ひょっとして技術力が低いのだろうか。M という OS では,まだ「りんご」だったころから,ファイルの属性はファイルヘッダを読むことによって判別し,拡張子といったものでは左右されないようになっている。拡張子はあくまでもユーザの便宜のために使うものだ。しかし MS 社の OS では,拡張子を変更してしまうともう駄目・・・フゥーッ! なんじゃこりゃ,である。その MS のソフト限定で論文投稿受理をしている日本の土木学会はとんでもない組織なのである。

2011年1月23日日曜日

最近の案山子は自販機

確かに学生のころから戸外に自販機があった。が,たいていは店舗に密着していたと思う。アメリカでは戸外には無いが,大学構内にもあるし,ランドリー等にもあるから不便は無い。それが 30 年くらい前から,日本中のどこにでもある。場所を選ばない。ちょっと遠出をすると田んぼの中のバス停の横に見つけたりする。建物は周りには無い。日本の景観を壊している代表格ではないかと思っている。全部無くせ! こんだけコンビニがあるんだから・・・
さて,かつて僕が学科長だったときに,僕らのいる実験研究棟に自販機を導入しようとしたところ,建築の教員会議の全員一致の回答ということで,「教育・研究環境に相応しくない」と言われ却下された。講義室周辺やエレベータ内での建築の学生の会話ではよく,「自販機欲しいなぁ」というのが聞かれ,その都度「反対しているのは建築の教員」と伝えてきた。それから 15 年経ってようやく 3 台が設置された。建築は大賛成だったという。以前反対していたとされる教員は今もいるのだが,何を考えているか理解できない建築関係者はとても多い。そうそう,10 年ほど前にこの建物の玄関前の模様替えを検討する必要が出た。そのとき建築の教員から出た案には,バス停の横,もちろん戸外だ! そこに何と自販機が! 一体,ここの建築ってのは,どういう審美観・倫理観を持っているのだろう。よくわからない。ま,わかりたくもないが。
誰が設計したのかわからないが,学内の環境委員会の意向も強く反映された大学生協売店が最近できた。本棚がいろいろな向きに離れて立っている。直角に整然と並んでいる方がよっぽど使い易いのだが。壁がまぁるいから無駄なスペースができる。旅行コーナーのカウンタの職員は足の伸ばすスペースが無い。並んでカウンタに着くまで旅行申込者は時刻表を見てはいけない。備え付け以外のボールペンをカウンタに置いてはいけない。すべての食べ物コーナーに直射日光が入るからチョコレートが融ける。雑誌を見るには目をつぶらないといけないくらいの光が注ぐから立ち読みができない。ブラインドを付けようにも縁がまぁるいから・・・何を考えているのでしょうねぇ。その横にまた,動線が最悪な食堂が完成した。

2011年1月22日土曜日

大学の先生は嘘つき

西澤潤一氏が 10/17 の朝日宮城版に出ていた。自分のノーベル賞のことに言及するので大嫌いな人物の一人ではあるが,ここに二ついいことが書いてあった。引用する。若い研究者は「自分の頭で考えること」,「先生(教授や上司)の言うことにはうそもあるし、十分に考えないで指示することもある」。
最近宿題の答を教えろという学生が増えたが,大学で学ぶことには,自分の言葉に翻訳して理解しないと使える知にはならないものがほとんどだ。高校までの「習う」という姿勢で他人の言葉で聞いたことは,よほど相性が良くない限り,自分のものにはできない。これが前者の言葉だ。また serendipity(本当の意味はあまり理解されていないし,英和辞典の記述は正確ではない)とまでは言わないが,新しいことを見出そう(研究とはそういうもの)という場合,まだわかっていないのだから,経験と勘と希望に基づいて模索している。そこを学生に手伝ってもらい,彼の彼女の卒論や学位論文になっていく。だから,答が出た段階で間違っていることもたくさんあるし,誤解が思わぬ結果に到達するかもしれない。これが後者の言葉だ。大学は習う場所ではなく,学ぶ場である。「希望」と書いたが,しかし,有名なアインシュタインのように「こうなればいいなぁ」という研究ができる人が極めて稀なことはよく知られた事実である。とにかく手を動かして(もらって)何か途中の結果を出してみないと,研究は前には進まない。
さて同じ記事の記者後記に,西澤氏の教え子の結婚式における彼のプレゼントについて書いた上で「ちょっと煙たい」と書いてあった。そもそも指導教員を結婚式・披露宴に呼んで祝辞をやらせることからが間違いであり,教員には煙たい。

2011年1月16日日曜日

人生の先輩にちょっと聞けば

面談のアポイントメントをとった学生がそのときは来ず,後日変更の電話をしてきた。でも,連絡してきただけまだとってもましな学生なのであるが,「すみません」とか,嘘でもいいから「友人と議論しててころっと忘れて」とかの言葉は無かった。「忘れてしまったのですが,どうしたらいいですか」である。ま,そんなものです。これでもまだ本当にましな方なのです。面談の態度はそこそこよかった。先輩とか,近所で世話になっているお店のおやじさんとかに,ちょっと聞いて対応したらすぐに 100 点満点になるのに・・・と,自分の過去は棚に上げて書いてます。
専攻長には知人以外から手紙がいくつか来る。身分としては助手レベルのある機関の方からの手紙が「前略・・・草々」だったことがある。文中の表現もかなりまずかった。事務室に行って,室長さんとかお姉さん達にちょっと聞けば恥をかかなくて済んだのに。そういえば,教員の中には事務職員を下に見ている人がいますね。逆に,教員に挨拶しない事務職員も本学には多数いますがね。きっと,東北地方で一番偉い役人の一人だと勘違いしているのかもしれません・・・おっと,脱線しました。「年の功」というのはたいていは当たっています。かく言う僕も知らんことはたくさんあります。
ごく最近,就職係をしていて学生の推薦状が必要になったものの専攻長秘書が休暇中だったので自分で対応した。その文面を初めて見てあれ? とは思ったものの,時間がなかったのでそのまま出したのだが,事務室で公印をもらうときに教務のお姉さんが「せんせ! これ本当に出したの? ちょっとまずいんじゃないの」と・・・。お姉さんも助言できないということだったので,おやじに案を示して書き直してもらった。ほんのちょっとしたことなんだが,それで戦争になることだってある・・・Klingon との間のように・・・かもしれない。

2011年1月15日土曜日

なんでも電子化

TV で,ディジタル教材やら電子黒板を推奨する人たちの話が流れていた。きちんとは聞いていなかったが,みんな大人だ。子供が本当にどう感じているか,どういう効果があったかはわからんのでは? と・・・授業中に楽しいとか理解し易いということが better なのだろうか。「うぅーんわからん!」「つまらないなぁ,でも試験が・・・困った」の方が,脳にはいいのではないか。そもそも授業中に理解することは,特に大学では,ごく一部の秀才以外には不可能だ。おや? 僕だけかな? かもしれない。今思い起こすと,雑談は覚えているが,何かを身に付けたと感じているのは,留学先での勉強だ。というのも,一度習ったことを別の角度から講義してもらったし,難しい宿題があったし,板書を写しただけのノートがあとでも読めたから。でも授業中には理解できず,博士課程になって初めて重要だと思うのようになった復習をしたからだと思う。米国の講義では雑談は無い。システマティックに教えてくれる。ノートがきれいにできる。それでもわからないのは学生の実力だと実感できる。
板書というのは大切だ。自分の手を動かして写すことが,不思議なことに脳に刺激を与えているとしか思えない。プリントをもらう,スライドで説明を受ける・・・駄目だ! ほとんど何も頭の中に残らない。そのときは楽しいから議論はできるが,終わって 1 時間もするとほとんど何も残っていない。論文をコンピュータ上で書く。できるだけ論理的に書く。草稿ができて 1 週間冷ましておく。草稿ができて 1 日くらいのときにコンピュータの画面で推敲しても,誤字は見つかっても論理の部分にはほとんど赤は入らない。1 週後に「印刷して」赤ボールペンを手にして読み直す。自分の草稿であっても,真っ赤になるし順番も変わる。ページ毎の赤が一つくらいになるまでに 3 回くらいは「印刷」しないといけない。画面上では推敲ができない。僕がボンクラだからだろうが,何故かわからない。
最近,あとでわかるノートができるように板書をすると「手が疲れる,速い,きたない,プリントでくれ」という授業評価が必ずたくさん出る。なので,電子版のノートをダウンロードさせて板書はさぼるようにした。理解が浅くなったとしても彼らの責任だ。先の電子教材の番組では,コンピュータ表示上で選択問題が出されていて,回答のあとに正解が表示された。そう,最近は宿題や期末試験の正解を教えてくれと来る学生が増えた。自分で考えればいいではないか。わからないなら考えましょう。それでも駄目なら,それが実力。友達に聞きましょう(だって 100 点の学生いるんですよ)。それでも,わかるまで頑張らないのであれば,それは君がそれには興味が無いということ。勉強する必要はありませんよ。手を動かしましょう。きっと頭も動くと思います。大学で学ぶことには,死ぬまで理解できないことは無数にあります。ここは高校じゃない!

2011年1月9日日曜日

ここの学生の手は汚い

アメリカの大学等のトイレの手拭きは,以前はロールタオルを一回毎に回して利用するものだった。よくスタックしていたり,余裕がなくて手が拭き難いものもあった。すべて夜間に働いてくれている掃除担当者が交換してくれていたと思う。NU ではこの担当者にはスペイン系の人たちが多かった。夕方から夜中にかけては廊下でスペイン語が飛び交う。もちろんすべての部屋のゴミ箱も全部彼らが処理してくれる。だから我々も「こもえすた!」「ぐらしえす!」と礼を言い,帰宅時には「あしたまにあわない!」と挨拶するのだ。
さて,トイレの手拭だが,この 5 月に NU に行ったところ,これが使い捨ての紙になっており,さらに電動自動給紙だった。こりゃ使い易い。環境問題に厳しい先生は,こういったものは設置せずにハンカチを持たせろとおっしゃるが,僕のいる学科ではかつて,トイレットペーパーを大量に消費したりする学生が出てくる始末だった。そしてそれが床に散乱しても気にしない。シンクに流れて詰まっても何もしない。自分のアパートはきっと綺麗に使っているんだろうが・・・
いま使っている大学の建物の耐震改修等のあと,ここも使い捨ての紙を置くものに替わった。使い易くなったのはいいが,使い切ったあと,予備のパックを誰もサーバーにセットしてくれない。だから僕がよくセットする破目になるのだが,なぜいつも僕なんだろう。きっと,学生さんは自分の手があまりにも汚いので,その手で他の人のためにセットしたら皆嫌がるだろうなぁと思って,控えているに違いない。ほとんどの学生が,予備のパックから直接(箱ティッシュのように)取り出して使っているが,そのあともきっと学生の手はとても汚いのだろう。じゃ,その手で研究室のドアを触るな! と言いたい。実はトイレットペーパーも同様で,芯しか残っていないペーパーサーバーの上に,使用中のロールが置かれているのだ。工学部の学生なのに,取り替える方法がわからないんだな,きっと。大学生の知能低下がここにも現れているのだ。

2011年1月8日土曜日

COE とかポスドクとか

TA/RA の話の続きであるが,こと,留学生が関係すると役所はまた変なことをする。COE (Center of Excellence) という新しい企画を募集した。これも米国のうわべだけの真似である。そして,留学生をたくさん採る,彼らの勉強も支える,出張も負担する。COE 企画を獲得することが各大学の競争的使命になっており,それを取った部署は留学生集めや対応で研究どころではない(本末転倒)といった状況もあったやに聞く。米国のそれは特に留学生に限ったことではなかったと思う。僕のかつてのボスが UCSD でやったのが初期のころの COE だったと思うのだが。
さらに授業料免除についても,本当にお金に困っている日本人学生に十分には行き渡らない(と言われている)ばかりか,ある割合で留学生に当てている。今年度改訂が行われるようだが,その実施案でもある割合で留学生を支援するようだ。留学生増を打ち出している役所自体が,それを積極的に支援する経済的・人的事業をしているわけでは全くない。日本人のそれを各大学が割いて充てているに過ぎないし,事務職員はいまだに英語は全くしゃべれない。教員が,各種申請書を書いてやり,事務手続きを助けてやり・・・である。そうそう,PhD なんて資格で赴任するといくつかの証明書を和訳させられる。おまけに留学先からの赴任旅費なんて出す気が無い。文科省は英語の書類は受け付けない。文科省の役人さんは英語がわからないらしい。
掛け声だけで実質的な特に経済的な支援をしないのが役所の基本的なやり方のように見える。同じようなものに大学院重点化がある。役所の役人さんは,先生達が望んだからそうしたと言うが,役所からプレッシャを受ける大学機関側の事情は思い図ってはくれない。札びらを見せて競走させるのだ。そして博士課程の充足率でまたプレッシャをかけるが,TA や RA の経済的手当てをしてくれるわけではないのは前に書いたとおりである。しかしそれはまだ何とかなる。ひどいのは,充足率アップのためにおだてられて博士課程を修了したいわゆるポスドクに職が無い。また社会人ドクターの研究が学位取得後画期的に進んだという噂も聞かない。前者のポスドクは契約制で研究機関に居候させてもらっているのが実態らしく,いつぞや TV のニュースでも出た。まるで人材派遣を大学が無責任にやっている図式そのものだ。法科大学院だけが問題なのではない。昔は,博士に行くのは仕事につけないかもしれないという覚悟付きだったが,重点化させたんだからもっと役所は責任を・・・なんとか・・・

2011年1月2日日曜日

認知症の早期発見のめやすはもう少し・・・

この冬は大晦日に鹿児島市内平地で 20cm の積雪だ。しかしメジロは多分 4 羽の家族がひっきりなしに飛んでくる。みかん一個が一日もたない。元気だ。
さて標記については新聞折込に(最近は TV でも)あったのだが,言いたいことはわかるものの,もう少し極端なことを丁寧な言葉で表現をした方がいいのではないだろうか。このままでは,僕のような者が揚げ足をとることになる。「めやす」にあるもので今の僕自身が思い当たるものを挙げておこう。カッコ内は僕のこと。
「同じことを何度も言う・問う・する」「新しいことが覚えられない」「話のつじつまが合わない(ことがよくある)」「テレビ番組の内容が理解できなくなった(何が面白いのかわからない)」「些細なことで怒りっぽくなった(前からか)」「周りへの気づかいがなくなり頑固になった(これも前からか)」「自分の失敗を人のせいにする(僕のこれまでの人生そのもの)」「外出時持ち物を何度も確かめる(ガスも電気も水道も何度も確かめる。一旦はいた靴を脱いで確かめ直すこともある)」。これ以外はなかなかよく表現できていると思ったのだが。
こういう場所にこのように並べると,それが認知症に関係しているとはあまり思えないのではないだろうか。決して「めやす」を攻撃しているわけでも馬鹿にしている訳でもないので怒らないで欲しい。家族のことや自分自身のこととしてとても心配なので書いてみた。特にゆるんだ入れ歯と補聴器と寝不足が重なると,もう認知症や脳梗塞に間違われて救急車が呼ばれるという可能性が非常に高い。

2011年1月1日土曜日

TA とか RA とか

役所が TA(Teaching Assistant)に予算を付けたのはほんの数年間しかなかったような気がする。この役所は米国等のシステムのうわべだけを真似る。というのも,財務省に対して最も力が無いからというもっともらしい噂がある。もちろん元々の米国の TA の仕事はかなりきつい。米国では宿題がほぼ毎週あるし定期試験も複数ある場合があるからだ。RA(Research Assistant)は,僕がアキレス腱を切ったときにボスが「週 20 時間は研究してますか」と言ったから,システムとしてはきっとそのくらいの負荷だったのだろう。いずれにしても,目に見える成果を出すことを約束した上でボスが授業料を払ってくれて生活費をくださる。
法人化後役所は研究費を毎年 1% ずつ減らしてくださる。大学とは関係の無い方の誤解の無いように書いておくが,教授・助教授・助手 3 人の一研究室単位で,教室の共通経費・光熱費等と消耗品・備品・出張(国内外)・図書・コピー等の全費目合わせて,年間 200~250万円程度だ。大きな実験はできない。しかしこれは法人化前の規模であり,幸いなことに僕が所属する工学部の現状だ。実は法人化後にトップダウンの運営のために各長の裁量経費が増え,学部によっては研究室単位で 100 万円にも満たない所があるらしい。そのため外部資金獲得が教員の重要業務になっており,それが成果としても評価される。だから教員は集金で多忙なんだそうだ。表に出る報告書等に「教育・研究に当てる時間が無くなっている」と平気で書くくらいだ。さてそれなのに,その外部資金から学生を補助することができない規則になっている。
先に述べた米国の場合の RA 経費は外部資金からだ。お金の確保ができない役所が,お金を獲得できる教員の研究とそれを援助する学生のために,規則を緩和することを考えようともしないのは何故だろう。理解できない。とはいえ,そうなったとしても,外部資金獲得が難しいいわゆる基礎研究をしている先生は,博士課程の学生の確保が難しい上に,ご自分のボーナスが学生の学会出張旅費に消えるという状況(実際にそういう先生がおられるという噂がある)になる。奥様は怒っておられるだろう。米国の軍事予算は大きい。しかし,そのある部分は大学(日本も含んで)の研究者に外部資金として配られる。しかも,基礎研究のようなものにも配られている。これも噂だが,研究支援するにしても数撃たないと当たらない,つまり多くの研究を援助して一つでもいい芽が出ればいいという立場なのではないか。そういう意味で,我が国の政府と官僚は教育にはあまり熱心ではないのだろう。予算配分を見ると技術でも科学(某総理のわがままによる一部の高額研究を除く)でも教育でも立国なんかできそうもない。