2010年10月31日日曜日

米軍の研究支援その2

PhD を終えた僕が日本に帰るに当たって,何か守秘義務のようなものを課せられたことはなかった。やったことすべてが論文で表に出ているから当たり前。昨今,留学生・外国人研究者の受け入れで面倒なことがある。軍事技術に使え「そうな?」技術や成果物に触れさせてはいけないというのだ。これは基礎研究にも適用される。当たり前の措置だとは思うが,どうやって「軍事技術関連」と判定するかは非常に不透明だ。キーワードのリストがあるが,それだけを見るとすべての研究が当てはまりそうなのだ。担当役人の個々の判断によるようにも聞こえてくる。某大学で米軍の支援を受けた先生の新聞記事によると,その先生もこの輸出技術の審査(書類がいっぱい!)をこと細かく受けたようだ。
さて,事業仕分けでも問題視されたが,文科省(学振や JST 等の関連独立行政法人を含む)は原則基礎研究支援だけにしたらどうか。応用技術はすべて他の関連省庁に任せる。土木応用力学研究はは文科省で支援,実用土木技術開発研究は国交省が支援といったようにだ。しかも一省庁一研究代表者一件で,もっと欲しければグループを組むか民間から。現在は,ある応用技術に複数の役所等から金が(重複は許可しないというが,本当に調べてますか? 兼業やら技術指導やら合わせていわゆる「エフォート」の合計が 200% を超える教授が実はたくさんいるとか?)出ている。カミオカンデでの理学研究のように光熱費だけで膨大な資金が必要なものを除けば,こういった重複は無駄。特に文科省は研究分野も研究者年齢も幅広くする(かつての?)方針を維持した方がいいと思う。
しかし実は基礎研究には金が要らないものもある。紙と鉛筆と頭(と光熱費)でやる研究だ。せいぜい昨今の高性能 PC やある種のソフト等があればさらにいい。しかし大学は獲得外部資金で競争をしたがっているため,そういう研究者にも外部資金の獲得を「強要」する。そのため,何日もの書類との格闘(かつては糊付けする作業だけでもたいへんだった)という時間を浪費させられている先生もいる。大学側は,誰が何を獲得しているかを知っているだけではなく,「あなたは**にも応募できますよ」と「とても親切な圧力」をかけてくる。法人化とは,大学の営利企業化のことだったようだ。どうりで最近,社長の権限が強い。

2010年10月30日土曜日

米軍の研究支援

標記が問題視されているようだ。特に基礎研究の場合外部資金を求める先はたくさんはない。戦争は否定するが,それが技術開発のドライビング・フォースになったのは事実だ。安全安心快適便利社会への貢献のための競争で技術開発をしている分野が土木だ。競争もお金(適切な)であり,そのお金(それなりの)がインセンティブになっているのかもしれないが,今のインフラはそうやって造られてきたし,これからも造られていく。そしていいものができていく。しかし,土木も含めて基礎研究となると国の補助金くらいしか支援はないだろう。しかし不思議なことに役所が「流行」を意識する(他省庁の標語等にそのまま乗っかる)ので,成果がいつ出るかわからない基礎研究はほとんど見捨てられる。基礎研究者のドライビング・フォースは,不思議を解明したいという純粋な探究心だろう。ま,誰も金は出さないやね。実は友人が米軍の研究費関係の仕事をしている。彼の話では,基礎研究だろうが何だろうが,申請があれば審査して支援するそうだ。成果はあくまでも学問的なものになるというような印象を持ったが・・・
僕が PhD をやったときにはボスが授業料と生活費をくれた。今さかのぼって出版した論文の謝辞を見ると,NSF 以外は米陸軍と NASA だ。僕が参加した研究が,明日陸軍が使える技術に転換できるとは思えないが,米軍というのはそういう文化のようだ。その文化もあって日本の研究支援をしているのであろう。上述の友人の話の印象もそうだった。というわけで,役所が支援もしてくれない研究に金を出してくれる米軍の支援を受けることは,仕方が無いだろう。某協会もぐちゃぐちゃ言わないで積極的になってもいいのでは。もし役所なり協会やマスコミが問題視するのであれば,それに代わる手当てをまずその人たちがすべきだろう。
ある学内の仕事でご一緒した他学部の先生が面白いことをおっしゃった。ちょっと演出・誇張して書いておこう。「あの役所の役人さんは能力が低いので,企画の大枠を作る時に T 大の懇意な先生(昔は御用学者と呼ばれていた範疇を含むのかな)から内々に提案をもらい,それを含む企画を打ち上げる。その先生がまずは採択されて,残った金を審査員がばらまいているんだな,きっと。」面白い推測・観察である。ところでその T 大は,米軍からの支援を受けないという決議がなされていると聞く。きっとうるさい教員がいるんだろうが,実際必要が無いというのが本音か。

2010年10月23日土曜日

アヒルがしゃべってる

プロのアナウンサの文が長いが,どうやって長くするかというと,すべての文を「が」で終わらせるのだが,がぁがぁアヒルのようにうるさいが,言いたいことが次々に頭に浮かんでくるのだろうと考えられなくもないが,プロが職業として正確な情報を伝えるといに相応しいかと考えるとまずいように思えてならなないが,話し言葉がこんなに長く続くと意味がだんだんわからなくなってくるのだが,聞いている方も実はなんとなく聞いているだけだからこれでいいのかもしれないが,これを一度授業でやってみようかなとも思わないわけではないが,学生さんはきっと今まで以上に中身がわからなくなると思うが,正しい情報を間違いなく伝えるべきアナウンサや教員の場合はもう少し考え直す必要がありそうだが,リハーサル等で文章を起こしてはいないのだろうか。
ただ最近,原稿を一度きちんと起こした上でそれを話し言葉にしてしゃべっているようには思えないことがよくある。というのも,意味が一意ではないようにも聞こえることが多くなってきているからだ。本多勝一氏を嫌う人は多いが,彼の「日本語の作文技術(朝日文庫, 1999)」はためになる。特に,複数の修飾語がある場合に長いものを先に持ってくると誤解の無い文になる点はわかり易い。昨今のアナウンサの発言の,この修飾語の配置に問題があるように感じることが多い。
福田という首相がいた。彼は「薬缶(やかん)」を正しく発音できる最後の日本人と呼ばれていたと聞いたことがある。どういう風に発音するって? 教えないよ。

2010年10月22日金曜日

大学は学力で選ぶ

入学した学生に学科選択の理由を聞くとほとんどすべてが「将来の就職」との関係だ。では大学をどのようにして選んだかというと,多分半分以上が,自分の高校のときの学力レベルだ。大学入試センターという天下り先(理事の一人は多分:現理事長は某大元総長:大学ももちろん天下り先だが)がある。そこで実施した試験の結果は自己採点という方法で予備校が把握し,予備校生の過去の合格状況を元に,各大学の A, B ライン等が公開されている。自己採点が何点かがわかると,どの大学にどのくらいの確率で合格するかが志願前にわかる仕組になっている。大学入試センターがやっていないという「大学の序列化」が,かなり正確な確率的な数値で実現されている。大学毎に実施している二次試験成績と,センター試験成績の相関はほとんど無いと感じている。センターがやっていないという「資格試験」としてしか,そのセンター試験は利用されていない。本人の潜在的能力はセンター試験では測定できていない。
さて,喜ばしいことに日本の大学出身者にもまたノーベル賞が授けられた。彼らの出身大学が,それをきっかけに志願者を増やそうとしている,と新聞は書く。しかし,上述のように,外向きにはなれない若者,草食系の若者は,僕同様の高い安全率を確保するため,そんなことでは志望先を変更することはできないのが現状だろう。大学の名声が上がることで変化するのは,高校の優良成績者の志願先だ。だから,短期的には志望倍率が変化して合格者の成績は上がるとしても,それは成績中庸者の合格・不合格の確率が変化するだけで,長期的には志願倍率は元にもどるだけだ。そのとき,一時的に上がった合格者の成績がいつまで維持できるかが大学としては問題である。が,しょせんセンター試験成績と学生の潜在的能力にはほとんど相関が無い以上,「いい?」人材が増えるかどうかは疑問である。期待できる平均的ラインは,受験動機が就職から学問に向くことではないだろうか。それ以上を期待しても無理だし無駄だ。昨今の高校生の志望動機を踏まえると,センター試験の存在はむなしい気持ちしかもたらしていない。

2010年10月17日日曜日

冥王星の無くなった惑星群

秘密のケンミンショーという TV 番組は面白い。先日あったのは,ある地方で「夕焼け小焼け」の無伴奏版(小学校等で夕方流されるメロディー)を「パンザマスト」と呼ぶというものだ(理由はネット等参照)。番組中,ある出場者が「自分のところはドヴォルザークの新世界だった」と! 僕もそうだったような気がする。ただし「新世界」と呼んでいただろうか。何か別名で呼んでなかったかなぁ。あれは「新世界」だと親に教えられて驚いた記憶だけがうっすらとあるからだ。
さて,これとはちょっと(全く)関係が無いのであるが,最近,ホルストの惑星の中の木星(快楽の神)の中盤部分が違う曲名で呼ばれて(アレンジされて)いることを知った。ある番組のエンディングテーマにも使われていたような気がするが,クレジットにはホルストの「ホ」の字も出てこなかった。実は今やこの編曲の方が一般には有名で,その曲が流れたときに「あ,木星」と言ったら「違うよ」と友人に否定されたことがある。これは上の「夕焼け小焼け」とは違って,ちとまずいのではないだろうか。著作権云々とまでは言わないが,この曲を最初に編集した人が例えば「自分の曲名:ホルストの木星から」とでも副題を付けていれば,こんなことにはならなかったのではないだろうか。ちょっとホルスト氏に申し訳ない。
この曲が作られた当時は冥王星は発見されていなかったから組曲は 7 曲構成である。この曲を初めて知った学生のころ,ちょっと残念な思いがあったが,なんと最近,冥王星が惑星群からはずされてしまった。組曲としては完備になったものの,それはそれでまた残念だ。

2010年10月16日土曜日

本多勝一氏はお嫌いか

10/10 の朝日新聞の「公共工事をめぐる談合をやめさせようと談合した業者に課す談合違約金を,減額する自治体が出てきた。」の意味が,別の関連記事を読むまでわからなかった。ひねくれ者の僕は,最近は『談合をしないように一部の優良業者に談合をさせて形式的な違約金を取っていた』のかと思った。これ「・・・やめさせようと,談合した業者に談合違約金を課しているが,それを減額する・・・」の方が誤解を招かないと思う。本多氏の『日本語の作文技術』にはもっとわかり易い例が書いてあり,卒論など誤解を避けるべき文章を書くためには必読書だと思っている。実はもっと「・・・談合をした業者に課す・・・」だけで十分ではないのか。「やめさせようと」と来たら次には「導入された」か何かが来て欲しい。
さて,談合は悪いことだ。けど,公共事業だけではなく我が国の多くの場面の決断では,競争や多数決ではなく,回りの状況を見ながら何となく決まってきたことの方が多くはないのだろうか。多分米国が何でも競争だろう。例えば,戦後の公共事業をすべて公正な競争だけで実施していたら,今ある会社の多くが淘汰されて存在すらしていないのではないか。そして,次第に独占化するにつれてそれを調整するために,今度や逆に国が調整をするのだろう。国の調整は正しくて,そうならないような業者間の談合が 100% 不正だと断言するのは,僕にはかなり苦しい。
生物は多様なことが望ましいそうだ。価値観も多様化した方がいい,戦争さえしなければ。それぞれが少しずつ異なる得意分野を持つ業者が多数いた方がいいだろう。特に公共事業には予定価格がある(これが高過ぎるという意味の無い批判がすべてを駄目にしている)から,その根拠となる物価表等を国が適性に公表している以上,独占的に過度に儲ける業者は出ないのではないか。だとすると,談合は・・・

2010年10月9日土曜日

リズムが本質

音楽は何で聴くか。メロディ? かな? しかし,最も大事なのはリズムだ。友人に楽器をやる人がいたら,得意な曲をすべて(例えば)四分音符で演奏してもらうといい。全く何がなんだかわからないだろう。学生のときミヨーの「スカラムーシュ」に接した。最終章が特に楽しい。当時の人気 TV 番組の踊りながらの導入曲に似てるねって国立(くにたち)音楽学校出身の方からコメントをもらい,確かに!と納得した。やはり踊りだリズムだ。
学生のときの目覚ましに FM 局を使っていたが,ある朝(日曜だったと思うが),肉声を打楽器のように使った(僕の当時の指導教員の形容)曲に出会った。すぐに本屋の雑誌立ち読みで,オルフのカンタータ「カルミナ・ブラーナ」だとわかった。その後ボスと雑談の折に,偶然その曲の面白さの話になって前述の形容句をいただいた。リズム・リズムだ。何しろ言葉の意味は全くわからん。ストラビンスキーの「春の祭典」もリズム・リズムだ。画期的だ。すごいっ! だったらダンス音楽が最高ではないか・・・というので,どこかでピアソラを経験した。TV CM よりも早かったとは思うが,どこでだったか忘れた。そして,ついに「ブエノスアイレスのマリア」に到達した。ギドン=クレーメルが企画したものだが,ピアソラだっ! ジムでの自転車こぎにも最適だ。
ただし,最近の学生さんの聞いているヤカマシイ音楽のはちと退屈に思うのだがどうだろう。エレベータや電車・バスの中で,イヤホンからもれてくるのはリズム部分だ。これがどういうわけか単調だ。バッハの編曲もたくさんあるが,どうしてバックリズムが単調なのだろう。なんでこんな退屈なリズムで・・・と,おじさんにはわからない。ちと専門用語を使うが,発展則というのがどこにあるのだろう。ジャズは発展則そのものだろう。リズムもモチーフも・・・ストラビンスキーなんてのは発展則に突然変異もある。そこが,その意外性が楽しみ・心地よさにつながる。単調なリズムは貧乏ゆすりと同じでイライラするのだが,世代の違いか。

2010年10月7日木曜日

正確ではない報道

ノーベル化学賞の夜のニュースには 3 人の写真。報道内容・構成との間に大きな違和感を感じながら寝た。翌朝の新聞では,3 人目のアメリカ人 Heck 教授の成果がオリジナルで,それを二人の日本人が応用したように読める。しかしそれでも朝日の見出しは「日本人 2 氏 ノーベル賞」だ。間違ってないが,正確ではない。さすがに新聞には Heck 教授の写真と紹介があった。当たり前だろう。たまたまその午前中に乗ったタクシーの運転手さんは新聞を読んでいなかったのだろう。受賞が 3 人組でアメリカ人が入っていることを全く知らなかった。これはとてもまずいのではないか。逆の状況にある場合にアメリカの新聞見出しに日本人のことが書かれてなかったときに,この報道の人たちはどう感じるのだろう? ということを自問自答してそれを踏まえた上で夜に報道内容を構成・作成していたのだろうか。はなはだ怪しい。翌日の夕方と夜のニュースでも,まだ「ダブル受賞!」だ。間違ってはいないが正確ではない。
ちなみに午前中にネットで,New York Times と USA Today を探してみたところ,前者は `3 Share Nobel in Chemistry' であったし,後者は `2 Japanese, American share Nobel Prize' だった上でパデュー大の根岸教授の写真だった。日本の報道に比べると,見出しからしてとても正確だ。面白いことに Chicago Tribune には記事が見つからなかった。学生のときに某大学の音楽学科女性教授に「活字なんか信じちゃだめだよ」と言われたことがあるが,最近,それがあまりにも多いような気がする。僕のブログや講義ノートの中身も含めて・・・

2010年10月3日日曜日

何でも略す

随分前に大学の略称で UCLA というのが有名になった頃,UTYO (UTKY?) とかに略したとんでもさんがいたらしい。本家では NU だったりするのではあるが。そのせいか,語呂がいいからか,特に最近何でも 4 文字か 4 音節程度に略される。ここ周辺で並べてみると,「仙スタ(仙台 Stadium)」「ユアスタ(ユアテック Stadium 仙台)」「K スタ(クリネックス Stadium)」「スタコラ」「仙クラ(仙台 Classic[al] Festival)」「ボンクラ」。仙台には「ジャズフェス(定禅寺 Street Jazz Festival)」ってのもある。風邪に「インフル」「タミフル」。そういえばコンサートマスターも「コンマス」だし,「メンコン」ってな協奏曲もあるねぇ。会話ならともかく新聞もこうなる。レイアウトを楽にするためか。仲間内だけが通じればいい(コンマス・メンコンがそうだった)という大学軟派サークル的文化なのかもしれないし,日本語がほぼ一文字一音節なのがこうさせるのだろう。長くて有名な一音節の英語の単語は strength だそうだ。
大学人が使うのを今のところ聞いたことは無いが,社会人博士課程学生などの発言では「パラスタ」「アポイント」というのもある。前者はスタジアムではない。後者は多くの人が本当のスペルを知らないかもしれない。もうすぐ大学人も使うようになるんだろうなぁ。ビールの TV CM にも「プ*モル」というのがある。何なのか興味の無い人間には理解できないから,広報になっていないのではないか。
こういうのを four-letter word と呼ぶ,ってのは真っ赤な嘘だが,品が無いように感じられるところが共通か。僕は早口だそうだ。きっと略語をあまり使わないからかもしれない。

2010年10月2日土曜日

英語が公用語

いくつかの企業で社内公用語を英語にするらしい。大学でこれをやると会議が短くなっていいと言われる。日本語でも大議論ですれ違いがあるのに,英語だともう面倒でどうでもよくなるから。これで大学は駄目になっていく。工学部の先生で,英語で喧嘩ができる人がどのくらいいるのだろう。新聞のある記事によると,脳にはある大きさの作業場所(なんと CPU のレジスタと同じってこと)があって,外国語を処理しているときはその作業場所が思考以外に使われてしまうらしい。そらそうだろうね。英語耳でないのと,英語で考えられないから,英語を使うのは苦痛だ。学部学生に英語で授業をしているが苦痛だ。論文を零から英語で書くのは苦痛だ。誰か,とんでもない表現でいいから,論理的な英語の草稿を作ってくれないかなぁー。
ところで最近の若い先生は日本語でも議論をしない。会議で喧嘩腰の話はしない。TV 等で一般論として聞くのは,他人を傷つけたくないかららしい。傷つけないで相手の論理を否定することはほぼ不可能だ。だけど,議論されていることに賛同しているわけではないらしい。会議の本来の目的が成立していない。英語にしなくても,大学は駄目になります。しばらく前には,授業は雑用と言い放つ教授が TV に出ていたりした。今は,管理・運営を教授の雑用だとは思わない・やりたくないという教授が増えている。会議は短い方がいいからということで議論は成り立たない。法人化した大学の社長の思う壺だ。どんどん大学は駄目になっていく。