2012年1月29日日曜日

ハングルは平仮名

「阿弥陀」が `ameter' というのと似ている話である。留学していたときに S 君が語った面白い話である。彼はあるとき韓国人と話をしていた・・・そういえば,韓国人チームと日本人チームでソフトボールをしたとき,2 塁で問題が生じ S 君が走って行って交渉をしているのを,見ていたベンチの我々には,彼が韓国語をしゃべっているとしか思えなかった・・・呵呵。閑話休題。
その彼が語った韓国人との会話は,「迷路」のことだったそうだ。もちろん共通語の英語で会話をしていたはずであるが,韓国人が「メイズ」と言っているのを,最初 S 君は「迷路」を音読みしていると勘違いして,韓国語でも「迷路」と書いて音読みに近い発音をすると思ったというのである。いや,面白い。

2012年1月28日土曜日

何が本質なんでしょう

小中学生の全国学力テストの一部の問題を公開しないとか。その非公開問題は毎年出して学力の変化の指標に使うとか。本末転倒もはなはだしい。何のために試験をしているのでしょうねぇ。学力アップが第一義であって,「ついでに!」その結果を『専門家』が分析して変化を研究するべきではないか。もちろん問題そのものも『専門家』が作るのであるから。どうせその非公開問題も,かつての国家公務員試験問題と同様,生徒の記憶から漏れるものであるし,しょせんいい問題というよりも型通りの問題だろうから,ますます意味が無い。小中学生の能力が落ちたばかりか,テスト出題および結果を分析する研究者・教育者の質も相当に落ちているのではないか。
かつて入試問題を作ったことがある。数年前からの傾向を見ながら,予備校の反応を見ながら,高校からのクレームを背中に感じながら,決して同じ問題ではないものの,同じ分野の理解度を同じくらいの点数にできるように作題・配点するのである。毎週土曜は朝から日曜の午前様を 5~6 回も費やして作り上げるのである。微調整を経た最終版までには半年以上かかる。少なくとも僕が関与した数年は,予備校から(一応中立で高校教諭の気持ちも理解しているという前提で)「良問」という判定をいただいて,あの作題の苦しみを少しだけ忘れることができた。役所には,テストはもっと真面目にやれと言いたい。

2012年1月22日日曜日

沈める寺

ドビッシーの曲である。さて・・・え? さて?
TV のクイズ番組を見ていると,問題が出た段階で司会者が「沈みつつの時間開始」と言うようになった。僕は知らないが,英語でも「沈思黙考」という表現があるのだろうと推測している。
民主党になってからカタカナが多くなったと思いませんか。どうしてこうなるのでしょうねぇ。みなさん海外で政治教育を受けて戻ってきてすぐの人たちばっかりなんでしょうかねぇ。だから子供っぽい政治しかできないのかな? 僕が留学から戻って書き換えのために免許センターに行ったとき,対応してくださった係長さんが仙台弁(多分)で何かおっしゃったとき `Excuse me?' と口に出かかって自らうろたえた思い出がある。そういう脳ミソの状況にあるんだろうねぇ。
そうそう,学生さんが使う英語みたいなものに「チョイス」というのがある。もちろん動詞としてお使いになるから,英語でしゃべっているときも `We choice ...' となる。すばらしい英語教育がわが国では行われているではないか。米国でも「牛の糞」も「かしわ(肉)」も動詞として使っている。

2012年1月21日土曜日

「土金」とは靴を脱ぐことらしい

前の研究室の床が OA 床になって,絨毯(といっても化繊だろう)タイルが貼られたとき,多くの研究室が土足禁止にした。靴を朝はいたら帰宅するまで脱ぐのが嫌な僕は,その部屋には極力行かないことにしていた。誰が履いたかわからんスリッパを履かされるのは嫌だったから,靴下履きで歩くこともあった。ところがである。上履きを使う研究室の教員は,その上履きのまま便所に行ってくるのである。おぉ,気色悪ぅー! なんじゃこりゃ。まるでちぐはぐであり,靴を脱ぐ日本の習慣とはどこか違っている。昨今どちらのお宅にうかがってもトイレにはスリッパがあるが,日本古来の風習としてトイレはどういう扱いだったのだろう。きっと素足で入ったんだろうなぁ。
したがって,自分の研究室は上履き禁止にした。それなのに,ここに来る学生や教員が靴を脱ぐのである。そこで「日本の『いい』習慣にならって行動せよ」と言って,靴を履かせていた。誰も理解してくれなかったが,靴は履いてくれた。
近頃ある TV CM で宴会シーンがあるのだが,スーツを着た社員と上司がスーツを着て,靴下履きで乾杯している。スーツを着て靴を履いていない光景に違和感を強く感じてしまう。靴を脱いで入る部屋なら上着とネクタイも取ったらどうか。極めておかしな習慣である。西洋の風習では,靴を脱ぐのは下着姿になるのと同じとかいうことで,エリザベス女王様がおいでになって和室に上がるときにどうするか,という記事を見たことがあるが,どうしたのかはそのうち森先生の奥様に聞いてみよう。確かニュースでは靴は脱いでおられたのだが。

2012年1月15日日曜日

近代フランス

プールの受付に人懐っこい女子大学生がいる。MG 女子大で音楽を専攻しているそうだ。いろいろ音楽の話をしているうちに,僕の好きな CD を貸すことになった。そもそもは,ミヨーの「スカラムーシュ」の楽譜と CD を貸すことがきっかけだったが,ついでにプーランクも貸した。すると,卒業演奏に「ナゼルの夜」をやることにしたとのことでとても驚いた。実は,彼女の指導教員はこの曲をご存知なかったらしい。ということは彼女が独学で練習したことになる。すごいねぇ,近頃の女性はぁ・・・楽譜も自分で取り寄せて,年末に演奏したようだ。結果がどうだったかは,ちょっと怖いので聞いていない。
極めて偏見のある印象だが,アメリカの FM(局ごとに違うジャンルの音楽を流す)の古典音楽放送局では,よくフランス近代が流れていたように思う。大学の音楽図書館にも,書き込みがいっぱいある同種の楽譜があったなぁ。アメリカ映画では,奇妙な人間だという風にフランス人が描かれていることが多いように思うが,実はフランスがお好き?

2012年1月14日土曜日

ユーザーズマニュアル

僕は博士のときの指導教員に,マニュアルの作り方がうまいと褒められたことがある。そこに後ほどいらっしゃったポスドクからも同様のお褒めをいただいた。ま,自慢である。
マニュアルや製品というのは,それを使う人になり切って作らなければならない。しかしよく言われるように,特にコンピュータの取り扱い説明書は難解だ。しかも最近はそれが紙ではなくコンピュータに内臓してあるので,何か必要なことを探すことすら困難な場合が多い。検索機能があっても,結果がたくさん有り過ぎて,どれが必要なのかわかり難いのだ。やはり紙の情報で,ある目的毎に章節建てがあって,類似する複数箇所で同一の対処法が重複して説明されているのに加えて,不足の無い索引が必須だ。
製品の例で,また悪口を書くと,建築物だ。本学工学部の昨今の建築物は,正直言うと,みてくれ「だけ」を追究し,使う人の希望を無視したものが多い。我々の実験室はそこそこうまく行ったが,これは設計事務所がよかったことと,僕が怒りまくったこと(呵呵)があると思う。設計者だけが悪いわけではなく,発注者がきちんとした意思を表明できていないことが多い。遠慮は禁物だ。どしどし文句を言って聞いてくれる設計事務所でない限りうまくいかない。本学工学部食堂も,結局は発注者が明確な反対を表明しなかったのではないか,生協が大学より地位が低いこともあって強いことが言えない,などの原因がある。しかしである。地震で壊れた研究棟の改築にあたっては,そこを使う我々が欲しくないものを強要してきて,あちこちで困っている。建築家は,使う人になり切ることができない人が多いようだ。

2012年1月8日日曜日

因果無く生じた量れない存在

先日,何かをぼぉーっと読んだのか,相変わらず TV のながらだったのか,「無量寿仏」というのが阿弥陀様であることを知った。以前書いたと思うが,実家のお坊様がある講話でお話しになったことが正しかったことを改めて知った。否定の `a' と量る `meter' から `a-measure' つまり `un-measurable' な存在を阿弥陀様 `a-me-ter' = 「あみた」と呼んでいるのである。不思議でしょ?
しかしながら,その存在を崇めるというのではないところが親鸞の偉大なところなんだろうね。阿弥陀様に念仏を唱えるだけでいいようにしてくださるのだから,念仏を忘れずに,しかし自らは精一杯仕事(いかにそれが下等な仕事への従事(悪人)であろうと)をして「生きる」というのが本質だと説いたのであろうと予想される。さらに,死者と仏と阿弥陀様の区別が曖昧なのもいい。やはり宗教ではなく哲学なのだろう。
と空想しながら TV のチャンネルを変えていたところ,ホーキング博士が出てきて,宇宙のはじまりには因果が存在しないとのこと。実は実家のお坊様が好きな講話はこの因果なのである。ひょっとすると真宗では,この「因果」というのが大事な概念なのかもしれないが・・・さて,この物理と阿弥陀様をどう両立させるのが素直だろう。

2012年1月7日土曜日

なぜ買い直すことが環境保全になるのか

土木構造物は滅多には造り替えることができないので,メンテナンスで少しずつシステムをより良いものに「更新」しながら使っていただいている。と思っているのだが。また,携帯電話の OS も,パーソナルコンピュータの OS も,各種市販ソフトにおいても,基本的には無料の「更新」で機能を維持あるいは向上させることを努力している。
なのにである。自動車はどんどん買い直せという国のメッセージしか聞こえてこない。更新するよりも廉いのかもしれないが,買う方としては完全にもう一台分の出費が避けられない。自動車だけではなく電気製品もそうだ。そうそう,学生さんが建築志望になるきっかけの一つに「云々 before after(and が抜けているし)」という番組がある。あれも,放送開始時の数件を除けば,ほとんどすべて「改築」である。少なくとも「更新」ではない。土木構造物だって「改築」できるんだったら,よほどいいものができるのは火を見るより明らかだが,それをしてはならない。
やはり,どこかおかしいとしか言いようが無いのだが。国も増税しか言わず,役人は経費節減はしないまま国債発行を口に登らせる。どこかおかしい。しかもである。環境対策が十分で無い自動車は,わが国では廃車になったとしても,それが他国に廉く流れてそこの環境を破壊し続けている。それを手伝っているのが,新車購入を奨める企業や国なのだが。そうそう,それを金のやり取りで解消しようという案もあったが,それもやっぱり全く理解できない。