2011年5月29日日曜日

要らないものを買うデフレ

デフレーションと言われている。本当か。どこでもかしこでも値引きであることをデフレーションと呼んでいるように聞こえてしまうが,購入形態を見ていると,福袋のように要らんものも入っている商品を買う,一シーズン用だけに廉い商品を買って捨てる,一点豪華主義でブランドものも買われている,という状況をデフレと呼んでいいのであろうか。大半の家庭では我慢に我慢を重ねて買い控えをしている一方で,残りの人たち(TV 画面では決して裕福な階層には見えないのだが)は上述のような商品で贅沢をしているだけではないのか。これをデフレーションと呼ぶのだろうか。なんとなく違うような気がする。格差が大きくなっただけで,そこが一番の問題なのを見て見ぬ振りをしているように,あるいは他に責任転嫁しているようにしか思えない。
しかし,なんですねぇー。日本という国は誠によくできた国です。政府が存在しなくても,そこそこ生きて行くことができて暴動も起きない。

2011年5月28日土曜日

フェルディナンド

有料 TV で「しあわせの隠れ場所」が放送された。特に気になったわけではないが,時間つぶしのために録画して観てみた。ちょっと横道にそれるが,主役の S. ブロxx 嬢の発音は若干だが米国南部だったように感じた。かつて `French lieutenant's xxx' という映画に,M. ストxx 嬢が女優役で出ていたが,女優のときは King's English を,自宅に帰ると American English を使うのを観てとても面白かった記憶がある。さて閑話休題。この「しあわせ云々」で絵本が出てくる。その中の言葉がキーワードにもなるのだが(どうしてキーワードなのか忘れてしまった),実はこの絵本,僕が子供のときに一番気に入った本だった。牛の話である。
Amazxx.Com ではなかなか見つからなかったが,牛の名前の英名で洋書を検索してようやく和書の絵本にたどり着いた。そして両方購入した。実は,この絵本の話はリドという作曲家によってナレーション入りのバイオリン曲になっている。バイオリニストのギドン・クレメルが Philixx レーベルの CD に収録している。
何に感動したのか覚えていないが,この「しあわせ云々」の美談で使われたことから,きっと琴線に触れるものがどこかにあるのだろうなぁ。僕も相当に鈍感になったようだ。
さてついでに・・・英語をまず読んだ。そのあと日本語訳を読んだが,面白いところが面白くは訳されていないことに気付いた。表現が堅い・・・75 年前の絵本の訳本を 56 年前に岩*書店が出しているということもあるのかな。おや? 初版は僕の誕生年だ。だからうちにあったのかな?

2011年5月22日日曜日

雨なめる?

鹿児島弁はほとんどイントネーション・抑揚が無い。あるいは尻上がりが標準とも感じられることが多い。薩摩狂句というとても面白いものがある。正調・純粋 鹿児島弁の発音と語数とで狂句を作らなければならない。3 音の「すごく」は例えば 2 音の「わっぜ」になる。先日 TV で題が提示されていた。「雨」である。しかしアナウンサーは「あめ(抑揚無しあるいは若干知りあがり)」と読んだあと,いわゆる標準語の「あめ(↓)」と追加して発声した。面白い。
実は鹿児島では「雨」も「飴」も同じなのだ。だって,抑揚があろうと無かろうと文脈で何を指しているかわかるから不便は全く無いわけだ。そういう方言は少なくないと聞いたこともある。
ちょっと違うことで,團伊玖磨氏の随筆だったと思う(あるいは芥川也寸志氏だったか?)のだが,著名な某作曲家・作詞家による「音楽教育弊害」のために「標準的な?」イントネーションに合致した曲創りを強要された長い歴史があったそうだ。それが音楽を面白くなくしていると。しかし,そういったこと等を破って自由な曲創りができるようにした著名な音楽家の一人が荒井由実氏(ご存知か? 呵呵)なのだ,という主張でもあった。とても面白いと思った。頭の中では常にいろいろな角度から現象なり対象を眺めることが,どんな分野でも重要なんだろう,ということに通じていると主張するのは唐突過ぎか。

2011年5月21日土曜日

横に拡がる学生

かつては,道を歩く女性が横に拡がり,後ろから追いついても前から近づいてもよけようとしなかった印象がとても強かった。それが何と! 昨今は男子学生も横に拡がって会話をしながら,歩道や廊下の幅一杯にお歩きになる。後ろからの僕の足音が聞こえていないのだろう,目の隅にもとらえていないのだろう,よけようという雰囲気はどこにも感じられない。どうやら「すんません」と声をかけなければならないのだろう。
これをどう見るのか。他人を思いやる心が無いということか。いや,単に馬鹿になっただけだと思っている。
それから,日本人なら仕方がないのかもしれないが,ドアを開けて外に出たあと,後ろを振り返る学生はいまだに少ない。すぐ後ろにいるのに,ドアが閉まるのだ。ま,俺は男だから・・・と思っていたが,後ろの人間の性別には関係しないようだ。もちろん,開けて待ってくれる学生さんも,僕らが学生のときよりは増えていると思う。とても気持ちがいい。
しかしここ東北大には,この逆のおかしなこともある。もしかしたら東北人気質(今回の震災でそう言われているから・・・)かもしれない。例えば学食でグループで食事をしたあと,学食のドアを開けて外に出るのであるが,すぐうしろに仲間がいようといまいと,自分のグループがすべて出るまで(つまり最後の人間以外は)ドアを開けたままなのである。外がどんなに吹雪いていてもである。東北の人が我慢強いというのは,もうよくわかったから,勘弁してもらいたいものだ。以前は切れて,僕が立ち上がって「バタンッ!」とドアを閉めたこともある。そのくらいの時間開け放しのこともあるのだ。もう少し他地方から来た寒がりの他人のことも考えてもらえないだろうか。おっと,僕は暑がりでした。

2011年5月15日日曜日

プロの言っていることがわからない

震災前後,金を持っている者は金を使え,箪笥預金をするな,という声が高い。政治家だけではなく経済のプロと思われる人も声高に叫ぶ。
大金持ちさんにはそれでいいだろう。しかし僕のような小金持ち(呵呵)が,それを例えば今鵜呑みにして要らん物も買ったとしよう。預金が底をつくくらいまで・・・。そして 10 年後,年金は雀の涙,貯蓄はほぼ零,体はボロボロ,医療負担は今より高い・・・そして,施設に入る金も無い。つまり,このボンクラ頭には,プロが僕らにそういう生活を覚悟せよと言っているとしか聞こえないのだ。あるいは国債を買えと言う。元本保証なんだっけ。本当にいつでも確実に現金化できるかどうかは知らないが,無能・無策の政府・政治家のために金を一時的とは言え寄付することには大きな抵抗を感じる。将来構想・計画も示せない会社に金を出すプロの投資家が存在するとは思えない。国であっても同じではないのだろうか。このボンクラ頭には・・・プロの言っていることが,よくわからない。

2011年5月14日土曜日

20 になるまでに酒は飲めない。日が沈むまで掃除を終わらせる。

大学でも用いられている文部科学省の言葉使いで変なものがある。その代表は「まで」だろう。ある書類の提出が求められる。すると「*月*日まで提出せよ。」となる。英語にすると `till' だ。おかしいだろう。`by' だろう。おかげで毎日毎日同じ書類を出し続けなければならないのだ。受け取る方もたいへんだろうが,出すこっちもたいへんだ。
もう一つマスコミも使う変なものがある。「に」と「には」だ。例えば『直ちに害はない』という見出しだ。他にも TV のアナウンサーが読むものでも多用されている。これは確信犯的に使っているとすると「すぐであっても害はないから,未来永劫害はない」と読むことができる。そう解釈しても間違い無いように思うのだがどうだろう。しかし,本文を読む限り,これは「直ちに【は】害はない」という見出しと解釈すべきであって,「すぐには害はないけど,これを続けると危ないよ」という意味で使っているように判断できる。こういった微妙な区別がそもそも国語にはあったような気がする。言葉は生き物らしいが,意味が正しく【は】伝わらない使い方をマスコミはすべきではないと思う。
似たようなもので学生さんも使うものに「ため」と「ために」がある。「**を調べるため,**の割合を変えて配合・・・」でしょうか。これは「ために」だと思うのだが。「**が閉鎖されているために,**を使わずに・・・」こっちは「ため」だろう。何がどう違うか,うまく書けないが・・・「ために」は目的,「ため」は原因・・・だと思っている。

2011年5月8日日曜日

津波被災地に住むこと

漁師は高台に住んで港に通勤するという国家計画が,地方自治体もみこしを担いで実施されるかもしれない。しかし TV のインタビューを見る限りは,漁師は賛同していない。一部の末端自治体も,住民とじっくり話し合うという慎重な姿勢(被災地の新築だけは当面の間見合わせる程度)を見せ始めている。さらに被災地を国が買い上げという話すら出ている。この方向だと,安全だが見てくれがいいだけで使い勝手の悪い街が沿岸部にできあがるだけだろう。
かつてある事件が外国で起こったとき,「自己責任」という言葉が流行し,そのまま今に至っている。ほとんどの場合の使い方は批判的な雰囲気を持っていて,あまり好きになれないが,この被災地に関する復興については,積極的に使ってみたらどうかとも思う。
今回のような津波が起こる確率は小さい。震災後すぐに地震・耐震のプロ教授もおっしゃっていたが(誰だったか忘れた)『確率の高い津波は今までの規準(素人用語を用いるなら「想定」:ただし原発を除く土木・建築構造物の場合)で被災を回避できるんだから,それはそれで保持した上で(経済的・文化的観点から見てもそれを変更することは現実的ではないという意味だったような・・・),そうでない方法(避難)を平行して考えるべきだ』ということで,必ずしも高台居住を表には打ち出してないように聞こえて,「さすがプロ!」と感じた。つまり,どうしても被災地に住みたい人はそのリスクを理解した上で住めばいいのではないか。今回の津波は首藤先生の新聞記事を参考にすると 1,000 年 2,000 年に一度ということらしい。もし確率的ではなく確定的に津波が生じるとすると,一世代が 40 年ずつ家を維持するとして 25~50 世代は被災しない(床上浸水程度か?)ことを意味する。
残念なことに地震・津波は,我々の生活時間軸上では確率的に発生してしまう。したがって,2,000 年に一度の津波が三陸でまた明日発生するかもしれない。そういうリスクを理解した上でも被災地に住む決断をすることは,あり得る一つの選択ではないか。必要なのは 1,000 年に一度の災害時の避難路・避難場所の国・自治体による確保と提供ではないのか。もちろん今の技術でもっと安全な構造物が造れないと言っているのではない。あるいはそういう技術開発を諦めようと言っているのでもない。その方向の技術開発は,これまた経済と関係してしまうので悩ましい。

2011年5月7日土曜日

技術と科学は確かに違う

5/5 の NHK 9 時のニュースで,原発事故に関係して科学はどうあるべきか? ということで,ノーベル賞をとった野依教授がインタビューされていたが,ほとんど意味の無い内容だった。無駄な番組であった。やはり理学屋さんは,ものごとを理想化したがるのか。原発を無くすことを前提にするなら問題は簡単である。科学と技術が違うという点は昨今は自明なこととして認知され,従来「科学技術」と記していた言葉を今は「科学・技術」としている。発言中,そこは理解されていたようだが・・・
問題は,原発を維持することを前提にしたときに,今回の事故から何が学べて,技術開発者,つまり工学者は何をすべきかということだろう。科学者,つまり理学者にはちょっと荷の重い質問だ。設定した安全率(破壊確率)で構造を設計した場合,その安全率を超えたことが発生したときに,どういう性能を構造に要求して第二第三のデザインを「どのようなレベルまで」すべきかということが今回の問題だ。極端なことでわかり易く言い換えると,テロが発生したからといって高層ビルの対航空機安全性を要求するだろうか。爆弾による被害がフロアを越えて伝播しないようなデザインを要求するのだろうか。そういうことではないのか。ちょっと極端だが,野依氏の発言はこの極端な例では「テロを無くせばいい」と言ったに過ぎない。

2011年5月1日日曜日

この人は日本人じゃない,その 2

ある先生から以前「法律は運用するもの」と聞いたことがある。この在日韓国人の女性は多分小さい食堂の店主である。M 某大臣の純粋な「単なる」応援団である。海外の大会社の下心のある会長とか社長ではない。法律は微に入り細にいたって記述するものではない。その思想が伝わればいいのである。であるならば,今回の個人献金がその法律で禁止しているものには該当『させなくてもいい』ものであることは火を見るより明らかである。
マスコミは怖いからか,すべてが「違法」と判断しているようだ。しかし,本音はどうなんだ。僕がこの西田だったら M 某大臣に電話をして「M さんよ。あんたが世話になった食堂の店主(在日韓国人)が日本語姓で献金をしているのを見つけちゃったんだけど,誰か阿呆な議員に見つかる前に名義変更なり返却なりしてじっくり店主に説明しといた方がいいよ。僕は知らなかったことにするからね。もしばれたときは,精一杯弁護応援するからさぁ。」とでもこっそり言ってやるけどね。ま,ばれたときにはもちろん僕は,寄らば大樹の行動をとるとは思うが・・・呵呵
日本の文化がことごとく壊れてしまいつつあるような不安があってならない。しかし藤原正彦の考え方は大嫌いだし危険を感じる。