2011年4月30日土曜日

この人は日本人じゃない

先日,外国人の個人献金が元になって M 某大臣が辞任した。それを言い出したのは自民党の西田昌司という議員だ。この人は日本人じゃないんじゃないか。下品で極めて質の悪い人間だと思う。朝日の声の欄の方もきっと心の中ではそう思っているんじゃないか・・・という投書があった。声によると,この西田という人の支援者は拍手を浴びせたとある。あぁーあである。しかし,民主党はもとより嫌いであり,その後少しは自民党の再生にも期待したが,こんな人物がいるんじゃもう駄目だ。選挙はどうしたらいいのよぉ。民主党は嫌いだから擁護する積もりも全く無いから書くけど,この西田という人がやったことは,例えば,柔道等で傷ついた箇所を攻めて勝とうとする卑怯で卑劣な攻撃と全く同じことだ。本来の日本の文化では実行してはいけない行為であると思う。続きは明日・・・

2011年4月24日日曜日

無機質な街づくり

復興に関して,高台に住宅を,漁師は通勤を・・・人の匂いが無いですねぇ。
朝日新聞に本学の越村先生が「高台移転は住民主体で(無駄な「に」は省略)」というコラムを載せた。あたかも高台移転が前提のような題目でありながら,明言はしていない。本当にそれがベストなのか。政府の案から受ける印象は,昨今の郊外の開発宅地のような,ほとんど個性の無い(景観屋からは素人の個性は独りよがりだという言葉の方が多いが)家が高台に整然と並んでいる。生業が漁業なのか製造業なのかは外からはまるでわからないが,漁村なのだ。
シカゴにマリナシティというトウモロコシのようなビルが 2 棟建っている。シカゴ川に接する地下にはマリナがあり,その上は駐車場,その上に(そもそもの企画では)病院・学校から住宅までがすべてあって「シティ」を形成している。僕はそんな狭いところには住みたくないね。近所付き合いは希薄でいい。信頼できる友人宅は少し離れている,まわりの小規模自営店舗のいくつかは常連である,程度が程よい町である。僕の周りが全員大学教職員で,個人店舗が歩いて 10 分以上のところにしかなかったら,一ヶ月もしないうちに気が狂いそうだ。
今回の教訓については,越村先生の恩師の(今村先生の恩師でもある)首藤先生が,越村先生のコラムの前日に朝日新聞に書いておられるように,「避難」がキーワードではなかったのか。人の力で防止できる自然の力のレベルは小さいことを改めて(我々土木関連者は既知だったはず!)見直すことができた事象だったはずだ。街づくりと避難とがうまく協働できるような復興はできないものか。少なくとも B/C 信奉の土木技術者には取り組んで欲しくない事業だ。あっ,そうそう,建築家はもっと駄目ですよ。みてくれが第一ですからね。

2011年4月23日土曜日

某知事の天罰発言

ま,確かにその表現は大問題だった。ただ本意は僕には理解できたと思っていたら,「***のそこまで言って委員会」の三宅氏がいみじくも簡単にその趣旨を示してくださった。僕もその通りだと思う。
被災した人の心と完全に一緒の気持ちにはなることができないので,真意はわからないのであるが,ちょっと気になる表現(高校球児も使った)に「生かされている」というのがある。これは自分では決して使わないような表現なので気になっている。が,某仏教宗派(僕のお寺さんです)の「他力本願」つまり「阿弥陀さまがすべてを決めているのであって,我々は何もなす術は無い(以下曲解して)から,阿弥陀さまの名前を唱えることがせいぜいできることであって,自分が他人を幸せにできる本来の仕事なり役割に最大限尽くして生きるのが本務である」ということを,簡単な言葉で述べたのかなぁとも解釈できる。笠原先生から習ったことはもう忘れてしまったが,阿弥陀さま云々は,きっとそういうことだと思うのである。
人ができることはとても限られている。いろいろな偶然でものごとの時間的変化(運命という言葉には抵抗があるので)が発生して,人はそれを能動的にはほぼ変更できない。それを分かり易く,あたかも阿弥陀さまという超存在を民衆の前に置いたのがその宗派の気持ちだったのではないか。我が国本来の宗教(哲学)は,八百万の神様の下で精一杯生きるということなんだろうと思う。それを仏教にすり寄せたのが阿弥陀さまなのではないか,と思う。自然あるいは先輩なり上司の大所高所からの言葉には真摯に対応して,精一杯自分の役割を果たすことが幸せなのではないか,ということかな。

2011年4月17日日曜日

そこかしこでリーダー不足

震災初日から一ヶ月。相変わらず国のリーダーが存在しないままだ。
実はローカルな本学我が学部等でも同じである。確かに役職としてのリーダーがいるが,その人が本当に先頭に立って責任を取る積もりの行動を起こしているのかと言われると,はなはだ疑問であるという方が若干おられる。誰のことかって? それは言えない。実は組織の末端はすべてそれを見ていて,驚きながらおかしいと思っているが,そのリーダークラスの人間には自覚が無い。彼(一人かな?)は,どんな陰口をたたかれているかすら知らない,あるいはどうでもいいのだろう。自分さえよければいいのだろう。我が教室の建物封鎖と危険回避対策も,実はリーダーの下での秩序ある指令はほとんど何も講じられていない。末端がボランティアで種々の繕いごとをしているだけだ。一番働いているのは用務員さんかもしれない。かく言う僕は,大所高所で物を見る能力に欠けているため,用務員さんと一緒にときどき繕いごとをさせてもらっているに過ぎない。
ときどきそのリーダーたるべき人から細かい提案があるが,それに僕が(枝葉末節の繕い事は得意なので)率直な反論をすると,容易にその提案がくずれるというのことがよくある。それは,この危機的状況でだけの話ではなく,通常のルーチン業務上でもしょっちゅう起きる。僕が若いときは,うるさいリーダーがいた。僕はよく積極的に反対してきたが,結局は,そのリーダーの言った方向に動いてしまっていた。そんなものだろう。そういう偉い人が今はいない! 何故かわからない。

2011年4月16日土曜日

民主党は日本を滅ぼす

政治主導がうまくいかないこと,そして役人さんと地方の出先役所が必要不可欠だったことを明らかにしたのが,今回の震災だったのでは。国交省の東北地方整備局は地震発生当日から建設会社等に指令を出して復旧を始めていた。翌日に簡易舗装されて復旧した道路も多々あった。今回は高速道路も一般車を排除し,また東西の道路復旧を急いだことで,あれだけの被災の中でガソリン等の緊急用物資輸送も比較的早く開始された。
もし民主党が先走りして地整を無くして県に任せ役人の首を切っていたら,この震災は一ヶ月以上経った今でも,ほとんど何も復旧できなかったかもしれない。地方政治家が走り回って建設会社を動かしたとしても,それは微々たる力に過ぎないからだ。役人を馬鹿にして政治主導と称して,行動はしないまま東京にいて思考していても何も解決しない。地方の役人は思考は後回し(失礼:思考したとは思うが)で,普段から想定していた復旧行動をまず起こし,現場現場の状況を見ながらアクティブに思考して行動を改善させてきた。もちろん役所所有の資材・機材・人材等は限られているから,**協会等を動かして(そういう力も政治家は持たない)民間に資材・機材・人材を提供させてきた。それでも足らない部分は自衛隊への依頼だ。もちろん,そのため,一般工事はすべてストップして後回しであるが,それは国民も十分我慢できる措置だろう。
だからといって,自民党に期待しているわけでもない。今の原子力システムを作ったのは彼らだろうし・・・日本はどうなるのだろう。

2011年4月10日日曜日

安全の程度の予めの通知と「想定」

同様に,液状化の報道もあったが,早稲田大学の H 先生はいみじくも「役所からは液状化危険度の地図が公開されているから,それを見て家をお造りにならないと」という主旨のことをおっしゃったが,これが「想定」の意味であると思う。もちろん,一般の人にとっては「いまさらそんなこと言われても」というのが本音だろう。新築のときにそんな地図の存在は知らなかっただろうし,大工さんも知っていたかどうかわからない。不動産屋は知っていても教えなかっただろうし。しかし,設計する側からしたら「それが想定」なのである。絶対に安全な構造物は造れないという事実を,確率的に「できるだけ安全な構造物を造ろう」としているのが土木技術者(一般家屋は建築技術者の担当)である。
とはいえ,あの問題の原子力発電所は他原発との比較からも明らかなよう(新聞報道を信じれば)に,貧弱な設計であったことは否定できない。津波や地震で壊れた土木構造物とは意味が全く異なる。未だに御用学者が存在することも知らなかったし・・・

2011年4月9日土曜日

安全率を決めた段階ですべては想定内

この災害で頻繁に使われ,専門家すらも使ってしまっている「想定外」という言葉には,かなりの違和感を感じる。少なくとも専門家は「安全への余裕が低過ぎたかもしれない」等と述べるべきではないのか。きっと,この文章には素人さん達からは異論がたくさん出るとは思うが・・・専門的な想定の考え方を書いておきたい。
安全率を 1.7(壊れるまでの余裕のこと)にしたということは,1.8 倍以上の外乱に対しては安全性を保証しないと「想定」したことになるはず。1.7 は経験に基づく曖昧な数値ではあるが,少なくともこれまでは通用していたレベルである。そして今回の誤解を生む表現に関することだが,1.8 倍以上の外乱は起きないとは想定しているわけではなく,それが起こる確率がある程度以下であると想定している。つまり 1,000 年に一度の外乱には安全を保証できないと「想定」したことになっており,今回の災害も「そういう想定の中では起きてしまう」と設定したことになっているわけだ。少なくとも専門家は注意深く言葉を使わないといけないが,素人に分かり易くする必要もあるのであれば,上述のように「工学的・経済的に合理的な範囲での設定を経験的に決めていたが,それを超えた極めて稀な外乱による災害」と呼ぶべきだろう。自然現象に「想定」は無いという新聞記事ももっともだが,そういう哲学とは別に「ある費用規模の範囲で最大限安全を確保して機能を維持するためには,**以上の外乱には耐えられない構造しか造れず,あとは確率論的に,壊れてもできるだけ犠牲を少なくしようとして設計」したのが土木構造物だと認識している。つまり,そういう想定で作ったものがその設定で,ある確率で壊れないものは壊れないし,ある確率で壊れることもある,というのが土木構造物ではなかったか。そう習ったような記憶もある。実際には,すべての橋梁の親柱に「***の地震が発生したときに本橋が落ちる確率は 1/1,000 程度だが,それが明日起きないとは限らない」と記載すべきではないかという意見交換を,神戸の震災後に誰かとしたような記憶もある。

2011年4月3日日曜日

ものは訊きよう

マスコミが大地震の被災者個人に「今のお気持ちは?」・・・はぁー? 自分が尋ねられたら何と答えるかシミュレーションしたのだろうか。もちろん即答してくれる人なんかいない。そりゃそうだろう。複雑な心境だからだし,かなり混乱しているからだろう。なんでこんな訊き方しかできないのだろう。本来なら「ご心痛のほどお察ししますが,ご家族ご親戚とは連絡はとれてますか?」とか・・・具体的なことを訊いた方がいいのではないか。今のお気持ちではなく,こんなときだから個人のコメントが直接政治家や政府に届く機会だ。それを引き出すのがマスコミの第一の仕事ではないのか。
「**のときどう思いました?」・・・はぁー? 回答を想定しているだろうなぁ。紋切り型の質問じゃないのか。「**のときはおばあさんはさぞお慶びになったと推察しますが,二度とこういう事態にならないような自治体や政府の普段の方策か何か思いつく点がありましたら,ぜひご披露いただけないですか」とか・・・
「私達も何かして・・・」? ま,余計なお世話ってこともあり得る。それよりも,こんな状況でも復興が遅々として進められない政府,会社の発表を鵜呑みにする政府,役人は馬鹿だと言った政府が役人の言葉をそのまま発表して風評被害を積極的に拡大する,そういう人たちを選挙で有り得ないくらい圧倒的な勝利に導いた国民自体もこの被害を増大させている可能性もある,ということを常に考えて選挙なりに常日頃から真面目に参加することが,国民の防災のための行動の一つでもあるのではないか。

2011年4月2日土曜日

どっちが大事? あいさつ喚起と重要情報

もっとおかしなことが,大地震直後の TV CM に起きた。それは・・・
被災地以外の方はご存知ないかもしれないが,その時間帯の番組が縮小されて表示された上で,その左と下等のマージン中に被災地周辺の交通情報や避難所・店舗情報等が表示されるようになっている。このマージン内の情報の方が,TV 番組そのものよりも重要なことの方が多い。ところがこれが,コマーシャルメッセージの時間になると,マージンが消失してしまうのである。そして全画面にわけのわからない「思いやり」の詰まった「心遣い」のメッセージを繰り返し表示し,地元にとって最も重要な脇に表示されていた被災地周辺の情報は消え去るのである。しかもだ! どうも,この CM の最中の情報は流したまま(ワンセグでは表示されているとか?)のようで,CM が始まるときと終わったときの情報に連続性が無い。つまり,CM 中に流れる重要情報がすぐには伝わらないままなのだ。本末転倒としか言いようがないのだが,どうですか? この「民間の広告ネットワーク AC」が出す CM の内容の方が,被災地の人たちにとっても重要だという判断をマスコミはしたのだろうか。本当にそれでいいのか。この「AC」という団体は,そんなに力のある圧力団体なのか?
あれ? そうか! 推測するに,この「民間の・・・」には,わざわざ「民間」と明示しているところからして,これが公務員さんの天下り機関なのではないのかな? どうなんだろう。その機関の CM を第一にして,地元の情報公開は二の次にしているマスコミ,あるいは政府,あるいは政治家,あるいは役人さんの意図が理解できない。困ったねぇ。こういう形にした「見せ方」が「心遣い」なのかねぇー。