2010年12月26日日曜日

大学教員の本性

今年もメジロがベランダに来ました。
さて,学生さんや同僚あるいは仕事をする仲間以外の人とは何も利害関係にはないし,エーカッコシィーもしないでいいので,素が出る。同僚には悪いが・・・通っているジムで会う人々が持っている大学教員の評価は,このところ随分下がってしまっていると思う。かなり前,会うたびにいろいろな話をしていたそのジムの非常勤職員の女性は当時 20 歳台後半だったと思うが,あるとき(僕でも東大に入学できたのだから)「先生,私もなんだか東大に入れそうな気がしてきました。」とおっしゃった。そう,きっと大丈夫だ。
先日届いた東京大学出版会の機関誌 UP の No. 455 に,とても面白い随筆があった。理学部の須藤靖先生の連載で「注文(ちゅうぶん)の多い雑文」という洒落た題目のシリーズであるが,今回は「大学教師をめぐる三つの誤解」というものだった。ご自身のお嬢さんとの文頭の逸話が傑作だが,その三つの誤解とは「講義以外は大学に出てこない」「人格者である/変人である」「頭が良い」である。何となくわかる人には予想がつくと思うが,興味を持った方は是非眺めて欲しい。どこで読めるのかな? ネットにはありませんでした。正解は「会議には出てこない,出たがらない,出ても建設的な提案はしない」「わがままである/価値観が狭い」「頭が良いと思い込んでいる」・・・なのかもしれないなぁ。

2010年12月25日土曜日

PhD はレベルが低い

東北大学工学研究科ではそういう声をよく聞く。きっとそうなのだろう。確か K 大では,PhD には学位を取り直させるとか。
プールの受付のお嬢さんの妹さんが米国の Summer Session に参加して哲学の勉強をしたそうだ。そして,米国の学生の勤勉ぶりというか,必死に学習する姿にとても驚いたそうである。多分一つの科目が月水金 60 分ずつ 3 回か,火木 90 分ずつ 2 回で 1 quarter を過ごす。金曜午後から土曜は(米国人学生は)思い切り遊ばなければならないし,日曜は教会に行った上で,その週末には宿題もたくさんある。試験は一週間の take-home exam だったりする。平均 C が二学期続くと強制退学だ。必死にならざるを得ない。PhD 課程の最初の 2 年間も同様のスクーリングだし,これに加えて TA か RA 研究が付く。東北大学工学研究科博士後期課程のように,実質的に講義は無く実用研究にほぼ 24 時間 365 日没頭するのに比べれば,それはそれは PhD の評価が低くなるのも当然だろう。
米国の中等教育までのレベルは日本のそれより低いと思う。大学 2 年生の複素数の第一回目の授業中に「板書にたくさん出てくる i(虚数単位)って何?」という質問が出たりする。履修の順番を間違えた学生だ。しかし 4 年生・修士になると,日本の少なくとも国立の同学年学生の平均よりも学力(知識かな?)は付いているのではないだろうか。
僕のところの最近の学生は卒業要件分だけしか講義を聴かない。単位を取らないというのではない。講義を最小限しか聴かないのである。試験を受けないでもいい講義をノートも取らずに聴くのはとても楽しいと思うのだが,それもしないのは何となくもったいない。我々の時代は,なんでもかんでも聴いた上で合格になりそうな科目の試験だけを受けた。知人には文学部の講義まで取ったのがいた。食べ放題の店では元が取れるくらい食べて脂肪を身に付ける学生が,授業料の元を取るくらいの知識や知恵への執着が無い。自分で払ってないからか。僕らも自分では払ってなかったよ。食以外はもう満ち足りているのだろうか。

2010年12月19日日曜日

物理的な意味

米国で学生していたときによく耳にしたし,たいへんお世話になった M 先生もおっしゃっていたが,例えば講演会などで何か質問しなければいけないとき,よく「**の物理的な意味は何?」というのを使う。僕は今でも使っている。本当にわからないときはもちろん,礼儀的に何かを発言しなければならないときに便利なのだ。しかし,数理モデルの勉強や研究をしていると,やはり物理的な意味というのが大事だし,理解するためにも必要な情報である。
僕のところの最近の土木の学生さんは,しかし,この言葉が嫌いらしい。というのも,工学部で勉強するために入学してきてはいるものの,嫌いな科目は「数学」「物理」「英語」だからだ。しばらく前には「東北大は英語の配点が低いから受験した」という学生もいたくらいだ。いま学内の事情があって,英語で応用数学を教えている。「物理」現象をモデル化して解くための「数学」的手法を「英語」で教えている。だから学生の授業評価はそれはそれはもう滅茶苦茶だ。この三つがすべて嫌いな人が土木技術者になって,どうやって世界で創造的事業に従事できるのか心配な今日この頃だ。ま,僕の知ったこっちゃないけども。

2010年12月18日土曜日

映画の終わり方・始まり方

ストップ・モーションで終わる映画は邪道だといった趣旨のネットの書き込みを見つけた。ま,中身とのバランスだから必ずしもそうではないだろう。いつ終わるのか・・・が急にストップで終わる。まだ続く・・・と思ったのが急に終わる。印象は強い。僕が好きなのは「ディア・ハンター」と「いつも心に太陽を」の終わり方。ただし前者の中身には疲労困憊してしまう。後者の場合は,途中にも効果的なスティル画像の連続がある。テンポを変えるのに効果があるのだろう。ただし後者は古いので,今の若い人達には観づらいかもしれない。別の終わり方の例では,「クレーマー vs クレーマー」や「ユージュアル・サスペクト」もいい。その様子は敢えて書いておかない。
始まり方は,そう 007 はいいねぇ。中身はどうせ全部同じなんだけど,最初のタイトル前のあの数分はとてもいい。一番いいのは「ムーン・レイカー」だ。何度も撮り直したものをつなぎ合わせた上に,一部スタジオの偽の映像挿入。でも,この数分でもう満足といったところだ。そうそう,スペース・シャトルは本物より先にボンド中佐を宇宙に連れて行った。
映画会社のロゴ(と言うのかな? 始まりに出てくる会社のクレジット映像)に重ねて始まるものに「失われたアーク」がある。これも面白いじゃないか。

2010年12月12日日曜日

フタヘヤスムスム

東北大学の理念の基礎の一つに「門戸開放主義」というのがある。元教養部には塀も門も無く,それを含む文系キャンパスでも工学部・理学部キャンパスでも,その真ん中を仙台市道が通っていて警察の車も自由に通行することができる。この市道で一旦停止を無視する車をつかまえるために,大学内のある道路では夜間,警察の車が停まっていたりする。それが,マルクス経済学が主流だった経済学部の目と鼻の先だ。これが本学の「門戸」開放主義だ! ・・・・・というのはもちろん嘘である。
さて,土木と建築以外の工学部学科ではあるとき,学士編入学の門戸を閉ざした。理由ははっきりとは覚えていないが,あまり筋のいいものではないように僕には聞こえた。建築には毎年のように受験者がいると聞く。土木には滅多にないのだが,僕の研究室には一人,理科教育系大学からの編入者があった。彼は最初,修士に入学して土木の仕事をしたいと相談に来たが,僕ともう一人の先輩先生で学部教育の重要さを説明し,絶対損にはならないから学士編入学した方がいいと説得した。その結果,編入学できて成績もよく,今は立派な土木系の地方公務員だ。
もう一つの理念の基礎は「研究第一主義」だが,特に本学工学研究科は産学云々というキーワードも漏れてくることからわかるように,大学ではなく専門学校にムニャムニャ・・・

2010年12月11日土曜日

トリビア

我が国にはあまりこういったデータベースが無いように思う。TV 番組があったが,さほどウィットに富んでいるものでもなかった。B 級(ま,ちょっとマニアックなという意味で)グルメとかに殺到するのに,種々の事項の裏にあるマニアックな情報を集めて仲間うちで楽しんだりはしない。米国には TV や映画等に関する著名なトリビア本がある。邦訳もされているが,例えば Mr. Bond の好きな飲みものとか,**という映画に出てくる警官のバッジの番号とか,超 B 級な情報が満載である。何の役にも立たないし,知っていても自慢にもならない。一部の人しか知らない。ネットの映画のデータベースにもそういうトリビアが羅列されている。僕が大好きな,世界一のミュージカル映画 `The Blues Brothers' も,例えば「無意味に壊した車の数の世界レコード保持(『無意味に』は僕が加筆)」とか,「主人公の運転免許証の番号がイリノイ州の規則に忠実である(?)こと」「領収書の住所は・・・」等である。映画館でこれに気付くことはほぼ不可能だろう。
日本人には余裕が無いのだろうか。あるいはこういう,最近呼ぶところの「ヲタク的」なものを嫌うのだろうか。実は裏にあるのは,例えば映画を製作する人がどのくらい「楽しく仕事をしているか」を表す指標なのではないかと思っている。上のような情報からは,映画を製作する人が連続徹夜で仕事をしながら一所懸命工夫して,「ふっふっふ,こんなところには誰も気付かないぞ」とほくそ笑んでいる姿が見えてくる。
インターネットがここまで普及する前,各種便利なソフトをフリーで公開配布する人がいたが,そのバイナリのファイルを無理やりエディタで覗くと,データエリアに「このソフトをダウンロードした人は・・・」といった落書きがされていたりした。添付の著作権ドキュメントにも「これはフリーで使えるが,使う前に東に向かって二回おじぎをして・・・」みたいなのもあった。僕も,LaTeX で使える外字を作るソフトを公開配布したことがあるが,画面のある箇所を押すと「マインスィーパー」になるようにした。
組版ソフトの TeX は米国数学会の商標でもあり,Elsevier への投稿もそのままできて校正不要になる等の便利でフリーのすばらしいものだ。これを作った人が出しているマニュアルの索引には有名な遊びがある。日本の出版社なら多分許さないだろう。僕は,ネット配布の講義ノートで真似をしている。仕事を楽しみながらやるという余裕は,我が国にはあまり無いのかもしれない。大学人くらいは遊びながら仕事をしたらいいのにね。

2010年12月5日日曜日

学生さんのご挨拶

最近は,学生さんは会釈すらしない。僕らが学生だったときは,習ったことのある先生と廊下ですれ違うときには会釈くらいはした。中には学生全員の名前を覚えておられる先生(土質の福岡先生)もいらっしゃって,学生の会釈に名前を付けて返してくださって驚いたものだ。僕は学生の顔と名前を覚えられない,が,会釈くらいしてくれればこちらも声を掛けて挨拶くらいはしますよ。高校のときの担任が還暦を迎えたときに,夏休みの高校のかつての教室で漢文の授業を卒業生で受けた。高校の廊下を歩いていると生徒(夏補習だ!)がみな会釈をするので驚いた。が,これが当たり前だったはず。ちなみに漢文の授業は「論語」についてだった。
さて,就職担当だったときにリクルートに来た OB が,挨拶もできない人は仕事もできない(我々は集団で協力しながら仕事をする)から,そういう学生は雇わない。いくら誤魔化しても,見学会や懇親会等ですぐボロが出るからわかるということだった。付焼刃ではだめということだったが,就職担当としては立場上学生に注意事項をアナウンスしなければならない。しかしメイル連絡をしてすぐに後悔した。というのも,そのアナウンスの直後から多くの学生が急に会釈をするようになったからだ。あぁーあ,面倒臭い・・・

2010年12月4日土曜日

英語を聞く・英語で話す考える

10/20 の朝日に鳥飼玖美子女史の英語教育へのコメントがあった。一部しか引用しないのは誤解を招くかもしれないが,敢えて「・・・、これまで企業人が外国に放り出されて何とか英語でやってこられたのは、読み書きの基礎力があったから・・・」とあった。短い文節にして(論文でも関係代名詞なんかは極力使わない!)文法通り話せば通じます。一番の問題点は聞く力。正しい発音を覚えてない(聞いたことない)からということと,頭の中では日本語で考えているということ,この二つを克服しないと英語での会話はできないだろう。ならば,何度も聞き直せばいい(時間稼ぎのためにも)ことであり,相手の癖にできるだけ早く慣れればいい。`Pardon↑'(シカゴ周辺の米国中西部なら `Excuse me↑')を恥ずかしがらずに使う。そうすればあとは文法通り話せるかどうか。特に相手がインテリであればこれでいい。冠詞もどうでもいい。ただし相手が子供だともういけません。
英語で考えるのは難しいとしても,発音は大事だ。「こ’ーひー」は `Coke' に聞こえるとよく言われる。「ばーぼん」ではビールが出てきたりする。空港から `E'vanston' の `O'rrington Hote'l' に行きたくて,「えヴぁ’んすとん」の「おり’んとんほ’てる」と指示すると,タクシー運転手は理解できない。でも,相手が大学教授なら大丈夫。そんなものだ。また,一息でどこまで口に出すかも大事かもしれない。日本語でも,九州地方の標準語の抑揚の無い文章は関東地方人には理解しにくい。大学に入ってすぐに吉祥寺の駅ビル地下で「ソフトクリームをください」が通じなかった。ソフトクリーム売り場でである。鳥飼女史は「・・・(冠詞のことを述べた上で)そのかわり日本人はもう少し丁寧に子音の連結や強弱のリズムをマスターしたほうが理解されやすくなる」と書いていた。努力はしましょう。
一方,英語で書く場合は大丈夫だと思う人は多いかもしれないが,これこそ論理が英語的でない場合には理解してもらえないからやっかいだ。英語校閲をお願いしている女史も,英語だけを直しても駄目なときにはすっごく疲れるとおっしゃる。論理構成が上から下へとストレートではない文章の場合だ。やはり英語は難しい。そもそも後ろから訳すことだけでもやめさせたら,英語への抵抗は減ると感じている。鳥飼女史の記事には,最近の英語教育は随分よくなっているとあったが,最近の学生の訳でも,いつもうしろからうしろからという人がほぼ 100% だ。関係代名詞や「to ~」もまず主文を訳してから続けることを教えてみたらどうかと思っている。僕のゼミではそうさせようと努力している。そうすると,少なくとも話すのは楽になってうまくなるのではないだろうか。とは素人の感想でした。