2010年11月28日日曜日

文科省公認就職予備校

新聞によると,地域の課題解決やインターンシップなどを通じて職業観を培い,卒業後の自立につなげる目的の事業助成に 30 億円を計上したらしい。学生の質と価値観の変化に対応した事業のように見えるかもしれないが,大学で? もう既に遅いのではないか。こんなもの仕分けせぃ! 他人のために,嫌なことを耐えて他人が喜ぶことを喜ぶということをもっと若いうちにやらないと間に合わないと思う。それができない人は大学教員くらいしか就職先は無い。呵呵。大学では,本当のインターンシップ,つまり,嫌なことを耐えてやることを知っていることが「前提」で,もっと仕事の本質を学んでもらわないと困る。学部学生の段階でこの前提が無いとなると,インターンシップはもはや,仕事の本質に少しでも触れる経験にはならない。
同じ記事に「就職活動を三ヶ月以内にできるような学生を育て」というのがあった。僕の専攻・学科では 3 年生と修士 1 年生の 11 月末くらいに 2 回,上級生からと教員・OB からの就職ガイダンスをする。二つの学年共に 2 月初旬までは授業と試験がある。企業は 12 月か 1 月あたりから学生に接触できるが,原則 2 月初旬以降に工場や現場の見学とか事実上の面接である懇親会等を実施し,3 月末までにはおおよその候補を絞り込んで 4 月から 5 月にかけて内々定がある。つまり,大学の指導と企業の自粛の連携によって,春休みを中心にした約三ヶ月の就職活動が実現している。たいていの学生はこれで内々定をして,その後,卒論や修論に取り組める。もし国家公務員および地方公務員の試験が 5 月の連休明けくらいまでに終わってくれれば,学生への負担はかなり減るのだが,夏休みまで続くので悩ましいところだ。結局夏学期の前半,研修に時間を十分に取ることができない学生が残ってしまう。
いずれにしても,30 億かける事業は本人の問題と大学企業の連携の問題ではないのか。これはもっと別のこと,子供とか福祉とか奨学金等に当てたらどうか。実際にうまくいっている業界があるのに,なんで役所が税金を無駄に当てないといけないのか理解できない。もしかして故意の仕分けられ枠?

2010年11月27日土曜日

大学は就職予備校か

新聞だったと思うが,大学入試の英語は TOEIC でやればいい,余計なくだらん英語を教えるな試験に出すなという意見を見たことがある。TOEIC は就職したら必要な資格だから,という論理だったように誤解したが,そこまで本音を言われると現場の教員としてはちと頭にくる。しかし,学部一年生へのアンケートで大学・学科を選んだ理由を聞くと,ほとんどすべてが「就職を考えて」となる。僕らの時代とは違う。大学は勉強をする所であって,就職先を探す場所ではなかったと思うのだが。ということで,一部のインテリと学生の立場からすると,大学はやはり就職予備校である。
しかし,きちんとした会社からは「即戦力を期待していない(期待なんかできない)」とも聞こえてくる。それはそうだろう。現場と理屈の間には深い谷がある。しかし理屈を身に付けていない人が現場で新しいアイデアを出すのは難しいというのも,そこそこ当たっているのではないか。
しかしですよ,こと英語に関しては,確かに学生のレベルは非常に低い。4 年生になって英語の論文や本を読むことになるが,訳は滅茶苦茶だ。僕が学生のときもそうだったから全く何も変わってない。その TOEIC で入試を代用すればいいと主張する人が推奨する中等教育を経れば,どんな論文でも読めるようになるのだろうか。疑問だ。
確か英語は論理的な記述に適した言語だ。英語の校閲をお願いしている女史によると,留学した先生の論文とそうでない先生の論文の英語は全く違うという。その,構造も含めて論理的な英語が苦手なのが大学生だ。つまりそれは,日本語のレポートでも論理が明確になっていないことを意味する。そんな人が TOEIC でいい点数を取ったとき,彼や彼女が書いた日本語の文章がわかり易くなる保証があるのだろうか。かなり疑問だ。面白いことに英語の論文執筆が得意な先生の日本語の論文・文章は僕には読み易い。ただし,多くの人には「くどい」らしい。ここあたりが英語論理表現と日本語表現の差かもしれない。
さて予備校にもどろう。東北大学では AO 入試をやっている。この面接員に OB を含めること(米国の丁寧な入試等の表面的な真似)に僕は反対したが極めて少数派だった。TOEIC の議論も同様だが,自分が受け持つことになる学生の審査で,別目的の試験や会社の立場の人を使うことには違和感しか覚えない。しかし上述のような学生の指向を見ると,こちらが本流なのかもしれない。大学は随分と変わってしまったなぁー。

2010年11月21日日曜日

肉食メインの教員コンパをしてくれぇ

大学生になって東に行ったとき,ちらし寿司に刺身がたくさん乗っているのに非常に驚いたことがある。子供のころから魚はほとんど食べなかったし,肉もそんなに好きではなかった。が,こんなに豚になってしまった。おっと・・・ちらし寿司ってのは錦糸玉子とか干瓢が乗ったもので,海産物はせいぜいエビくらいだった。刺身が好きなわけではなかったから,寿司屋ではちらし寿司を食べていたのだ。大学生になって一人暮らしをするようになってから魚を食べることができるようになった。ま,特に食べたいものではない。しかし教員コンパがあると魚介類がメインになる。職場に客が来ると寿司屋に行こうということになる。僕は半生のステーキが食べたいのだが。
ようやく最近になって,例のケンミンショーの中の発言で,魚の乗らないちらし寿司が西の文化だと知った。やはりそうだったのか。

2010年11月19日金曜日

みんなと一緒

B 級グルメのコンテストで上位になった店に客が行列を作るらしい。昨今の経済状態で提供する方ががんばるのは,ま,いいとしよう。しかし,そこに行列を作る客の気がしれない。行列ができたら,もはや B 級ではなく,単に不特定多数の客が集まる一級にはなれない味の店になるだけ。そして集まる客の舌が疑われるだけではないのか。あるいは逆にそこは A 級の味だったことになる。B 級を本当に好む人は多分,他人のあまり知らないそれなりの店が好きで,そこを B 級だと称しているのではないか。たとえ味が一級並だったとしても,あるいはその人だけの好みの味だったとしてもだ。そういう人は,だれもが行列を作る店を B 級とは思わないのではないだろうか。俺しか知らない美味しいものを出す店,それが B 級ではないのだろうか。
B 級映画ってのもある。`Resurrection' というアメリカ映画はもはや中古ビデオしか無いようだが,見たときは面白かった。ふふふ,これは誰も知らんでしょう? StarTrek Voyager 艦長役のケイト・マルグルーが,アーチェリの名手の母親役で子供の危機を救う映画も多分超 B 級だ。有料 TV で観たのではあるが,これもあまり知らんでしょう? これが,誰でも知ってたら僕にとってはもはや B 級ではなくなると思う。確かに,史上最高のミュージカルである「ブルース・ブラザーズ」は多くの人に愛されているとは思うが,本当に好きな人は(我が国では)少ないのではないか。やはり B 級映画だと思う。
一般人の中では,芥川也寸志氏を知っている人は意外に少ないという印象がある。指揮はとても下手なように見える。校歌をたくさん作っているが,有名な曲はあまり無いのではないかと思うが,トリプティクが好きだ。これも僕にとっては B 級の音楽である。

2010年11月14日日曜日

宮崎県は九州にあるか

地図上はそうだろう。僕は経済は全く苦手で興味も無いが,きっと,大分と宮崎は大阪の方を向いている瀬戸内経済圏にいるように見える。これに対して福岡を中心とする熊本・佐賀・長崎は九州の中心だろう。そして下関周辺の山口も福岡経済圏だろう。一方鹿児島は,ちょっと他とは一緒になりたくなく(独自・独特とも呼ぶが),でも福岡の方も向いているようでいて,直に飛行機で東京の隣にいるつもりかもしれない。そんなこともあり,また歴史的な経緯もあり,鹿児島と熊本が新幹線の車両名「みずほ」でもめるのも仕方がなさそうだ。
東北はどうか。誇張だろうが,大間の人は函館で散髪するという。がしかし,青森が北海道の方を向いているようには感じられない。きっと,ちょっと東京とは遠いが我慢(仙台を通過)してそちらを向いているのではないか。もうすぐ新幹線もつながるし。秋田・岩手・山形・福島はもう新幹線で東京とつながった(仙台は単なる通過駅だ)から,青森と同じく東京を向いているように感じる。宮城は,東北一というプライドを捨てきれないでいて,東京を向いてはいない振りをしたい。しかし他の 5 県にとっては宮城なんてどうでもいい存在だということには気付いていないか,気付かない振りをしているように感じる。仙台市商業中心部が鹿児島市のそれより格段に「活気」があるか(面積や人の数ではなくなんとなくの雰囲気)というと,僕にはそうは感じない。まして,同じ政令指定都市の博多とは比べ物にならない。
ときどき僕の周りでも「道州制」という言葉を聞く。こんなことを言っているのは地域に密着した文化を大事にしない人達なのではないかと感じる。誤解の無いように書いておくが,東京の土着の人はそれなりの「地方」文化を持っている。

2010年11月13日土曜日

佐賀は何県か

東北新幹線に「はやぶさ」が決まって,おもしろく思ってない人が九州にはたくさんいるだろう。しかも「はやぶさ」は投票の 7 位で,もちろん 1 位は「はつかり」である。誰もがそう思う。さてそのとばっちり (?) で大阪=鹿児島の新幹線が「みずほ」になり,鹿児島人はもっとおもしろくないらしいし,熊本は通過駅待遇が我慢ならんらしいし,あるいは「みずほ」は熊本で終点とでも言っているんだったかな? というコメントがテレビから聞こえてきた(『ながら』をしてたので)。ま,そんなローカルな紛争はともかく,「つばめ」と「さくら」は確保できたのに「はやぶさ」を失った。「さくら」は将来の長崎への延長を念頭に置くとキープしなければ。それが何故,一番大事な(失礼!)「はやぶさ」が? JR 東日本より格下の JR 九州では力関係から無理だったのだろうか。
通過駅といえば,東北新幹線の発展途上において大宮や上野が一時憂き目を見た。上野は今でもその影響が残っているのかもしれない。熊本はそのあたりを心配しているのかもしれないが,熊本は実質的に福岡とつながっていて(地理的にも経済的にも)共生している(少しは食い合っているだろうから)ようにも見える。これに対し,佐賀はどうなっているのだろう。九州人にとってもまさに通過エリアのように見えていないか。鳥栖のかしわ弁当は絶品だが・・・九州人以外の方には佐賀がどこにあるかご存知ない方も多いらしい。サッカーファンでも鳥栖は福岡だと思っているかもしれない。以前,学内の電子掲示板で「佐賀は福岡の属国」と書いたところ,すぐに強い! 反論があった。彼曰く「そんなことはない! 東半分だけがそうであって,西半分は長崎の属国である」と。
そうそう,「はやぶさ」が使えないなら,大阪までを「つばめ」にして九州島内は「有明」にしたらどうだろう。もちろん長崎からは「さくら」だけども。大分・宮崎? うぅーむ,そっちに新幹線は・・・むにゃむにゃ

2010年11月7日日曜日

尻上がり決死隊

最近ん,学生はぁもとよりプロのアナウンサのぉ言葉がぁ汚い。単語がぁ,という意味ではない。音である。句やぁ文節のおしりにぃ若干ではあるがぁ,直前の音の母音がぁ残るのである。本当にぃ若干なのでぇ,この文の小さい文字ほどのぉ大きさ・強さ・長さではない。本当にぃ一瞬といったぁ長さでぇ,それ程強くはないもののぉ,僕の耳につくくらいのぉ強さはぁある。鼻濁音のようにしてくれぇとまではぁ言う積もりはぁ全く無いがぁ,誤解をぉ生まない程度でぇ,句末文末はぁもう少し弱くぅ発音できないものでぇあろうかぁ。
それがぁ,一部のぉ,学生やぁ,比較的ぃ,若いぃ女性をぉ,中心とした場合にぃ,限定するとぉ,これがぁ,若干ではぁ,なくなるぅ。まさにぃ,この文のようにぃ,なるぅ。しかもぉ,読点がぁ,とてもぉ,多い。聞くことがぁ,苦痛にぃ,なるぅ。そのぉ,人がぁ,下品なぁ,人間にぃ,思えてぇ,くるぅ。あるいは語尾が上がる。例えば街角でインタビュー↑,されたとしよう。すると一見主婦↑,に見える女性↑,が問題↑,となっている店舗↑,を利用したときの様子↑,を,事細かにしゃべる・・・といったような語尾上げだ。何か質問したいのだろうか,それとも自信が無いので相手に目で確かめながらしゃべっているのだろうか。これもまた聞き取り難い。
もう一つ, 学生, に多い, のは文の切れ目, がなんだかおかしい, と思われる発表, が多いことだ。助詞,が次,の単語の方,にくっつくのである。実はこれは,英語を読ませたときと全く逆の現象で,英語の場合は冠詞までをまず発音した上で次の単語から発音する(例:The/ problem is a/ typical example of/ applications of the/ thoery of the/ .... 息継ぎ箇所が / である)のだ。なんでそうなるの?

2010年11月6日土曜日

学生の権利

授業評価というシステムが導入されている。またぞろ,米国の表面的な真似である。質問項目も不適切なものも多い。例えば,スライドを用いない授業であっても「スライド等の機器類の利用は効果的だったか」等だ。教科書を使わない授業に「教科書は十分考慮されたもので効果的に引用されていたか」等だ。そして,教科書を使っていないのに,その質問に答える学生が複数存在する。スライドの多用やプリント大量配付の講義が悪弊を及ぼすことがわかっているにもかかわらず,それを是認するようにも取れる質問が存在するから,学生はそのような講義の方がいいと誤解する。そして,スライドを多用する授業評価には,当然ながらスライド利用に対する批判が書かれることになる。
さて評価結果であるが,そこそこ効果はある。とんでもなくやる気の無い授業やドタキャンの多い授業の評価は,必ず教室内の最下位に並ぶ。もちろん,僕がやっている「物理」現象を「数学」モデルで解くための手法を「英語」で教えていると,その評価はそのすぐ上くらいに位置することになる。僕の学科ではすべての評価結果を教員のみならず学生にも公表し,教員からのコメントも学生にフィードバックしている。しかし中には,学生が権利意識を持ちすぎていると思われるものもある。小テストで成績を決めるなとか,こちらが意図してやっていることで個人的にお気に召さないものに批判をする。多数派ではないものの,1 年生のときから授業評価ができるので,自分が正しく,それに反するものを批判するのが権利だと思っている節もある。特に成績が悪くなるようなものに敏感だ。当たり前ですか? それでいい? 僕はそうは思わない。大学は勉強するところだ。成績を高めて競争する場所ではない。資格を取る場所でもない。就職するための技術を身に付ける場所でもない。
さて米国の授業の板書はすばらしい。写しただけで何となくわかった気になるし,後日ノートを読み直して論理構成もわかる。教科書は要らない。僕が日本で学生だったころのノートはあとで読むとわけがわからないものが多かったが,米国留学した先生や秀才と言われる先生の板書はとてもよかった。しかし,同じことを日本でやる(実は米国で受けた授業で写したノートをそのまま和訳して板書していたことがある)と「腱鞘炎になるからプリントにして配れ」となる。講演会でメモを取るという習慣は学生は持っていない。手を動かさないでどうしてものごとが理解できるのか不思議だ。義務を怠った人は権利主張はできないことになっているのだが・・・