2016年7月2日土曜日

奨学金で困っている大学生・卒業生

    うぅーん。まず気になるのは,大学生が本当に「勉強」をしているか? ということであるが,これはまぁ,仕方がないのかなぁ。単位取得のために必要なことはするが,教員がふと授業中や昼食時に紹介した本を自発的に読んだり,その本からさらに孫引きで教養を深めたりはしないと感じる。研究室にはネットワークにつながったコンピュータがあるが,それを使いこなしたり,ソフトウェアを自発的に利用して練習したりする学生さんもほとんどいない。いずれにしても自発的な「学習・勉強」をする学生さんは 10人中 2 人いるかいないかではないかと感じる。和書・洋書を問わず専門書を購入する学生さんは皆無だろう。昔のように,先輩と一緒に洋書を一冊読む自主ゼミをしようという学生さんも皆無である。誰かに教える学生さんも少ないと感じる。そういう学生さんたちが奨学金を得ているというのは,貸与している側も把握しているのだろうか。そういう,いわば高校生並みの「習う勉強」しかしない人が奨学金を得ていてもいいのだろうか。・・・と書くと批判をもらいそうなので,ここいらでやめよう。
    さて,今は大学に交付される校費は光熱費でほとんど消えて,出張するにも研究や実験のための費用にも,外部資金を獲得しなければならない時代になった。米国では,その外部資金の一部を学生の奨学金として使える。しかも貸与ではないし,授業料だけではなく生活費もカバーしてくれる。その代わり,その外部資金に関する研究を補佐しなければならないが,それは学位論文のテーマである。学生は研究スタッフであって,研究という場面では教員と対等である。というのは,僕らを米国に送り込んだ恩師の言葉であり,当時の僕らとその恩師の間の人間関係でもある。少なくとも卒論や修論の学生さんとの関係は,今でもそういうものだと考えて僕は接している積りである。当時,僕も含めた日本からの多くの留学生も,そういった外部資金で生活して PhD をもらった。こういう裁量は,我が国の外部資金提供機関からは許容されていない。役所が大学院重点化つまり博士課程重点化だけを形式的に実施し,役所も研究関連機関も学生さん(実質的な研究スタッフ)の奨学金のケアを全くしてこなかったわけである。少なくとも,この外部資金による学生のサポートを解禁したら喜ぶ教員と学生さんは増えるのではないか,さらに博士課程にも進学してくれるのではないか。とは,何も裏づけの無い感想であり,外部資金をもらえない下っ端の推測であるが。あの ips 細胞の山中先生は,当時の学生さんを成果が出るまでは私費ででもサポートする覚悟があるから,一緒に頑張ろうとおっしゃっていたらしい。偉い!