2011年9月25日日曜日

総合学習

ま,そもそも,こういうものが小学校で成立するはずがないのに,それを進めた元役人の悪口は既に書いた。相変わらず TV に出てきて,つまらんことを言っている。さて,友人の模型屋さんに,小学校 3 年生がグループでやってきたという。「仕入れ等の仕組や効率化や売れ残り予測についての質問ですか」と訊ねたところ,笑いながら「プラモデルって何でできているんですか」「今一番売れているのは何ですか」だそうだ。これじゃ総合学習ではなくって,単なる情報収集に過ぎない。
そもそも知識も知恵も無い小学生ごときが,総合学習のような,大学で呼ぶところの「デザイン型科目」をこなせるはずが無い。どう好意的に考えても,論理が成立しない。課題が与えられた(自ら見つけることは不可能だろう)として,まず文献調査をし,現状を分析し,それに考察を加え,衆人の前で発表する,という段階の「分析」で必要なのは知識だ。「考察」では知恵が必要だ。残りの二つは訓練しないと身に付かない技術だ。知識も知恵も無い訓練もされていない小学生には無理だろう。大学生でも・・・ムニャムニャ。
ところで,もう一つうかがった話・・・女子生徒の方が元気がいい。男子生徒はその子分みたいなものなんだそうだ。子供のときの成長は女性の方が早いらしいから,これは仕方がないだろう。僕もどっちかというと女子にいじめられていたような・・・今も小学校同窓会では何となく肩身が狭い。実は,大学院入試面接時もほぼ同様である。男の元気が無くなって既に長い時間が経ってしまったようだ。

2011年9月24日土曜日

世俗カンタータ

「遊びをせんとや生まれけん・・・」というのは,確か学生時代に TV CM で聞いた(観た)歌だったと思う。CM では前半だけが使われていて,何故か興味を持ったことから,どうやって調べたか覚えてない(当時はインターネットが無い,google が無い)が,後半まで調べて覚えた記憶がある。出典が「梁塵秘抄」というものだということも,そのときに知った。誰が編纂したかには全く興味は無かった。高校まで国語の試験は 90 点前後(もちろん 200 点満点でだ!)で,だいたい,クラス平均の若干下を維持できていたし,歴史等の社会は全校 400 人中下から 2 番等(あまりにもひどいときは,解答用紙の漢字の間違いを先生が赤で直してくださった上で点をくださったりした)をキープできていたから,こういうことには興味すら持ってなかったはずなのだが,きっと CM が面白かったんだろうね。
さて,その超訳本が出版された。訳者はあとでネットで調べてみると,「歎異抄」を大阪弁で訳した人だ。朝日の書評で見つけたのだが,面白い。少しは予測していたが,多くが「春」(いろんな意味で)を謳っているように訳されている。読んでいるうちに,「カルミナブラーナ」が頭の中に突然出現した。あ,そうか。「今様」というのは「世俗カンタータ」なんだな,きっと。オルフは,僕ら素人には,この曲くらいでしか知られていないだろう。しかし,TV の挿入曲としても多用されるし,衝撃的で面白い音楽(僕の恩師が「声を打楽器のように使って」と修飾した)である。歌詞はまた面白い。梁塵秘抄の超訳の方に近い。
この超訳を読んでいて,僕も普段のウップンを面白く調子をつけて書いてみたくなった。以下,駄作。
『大学は/習うんじゃなく/学ぶ場所//わからなければ/それが実力』
『大学に/行きたくないのも/わかります//教員だって/そうなんだから//だけど行かなきゃ/始まらぬ』
『宿題は/出すのが当然//それが学びの/入口だ//試験ってのは/その中にあるドア/開(あ)くかなぁ?』
『宿題を/写しただけで出す君は/なんにも理解できてない//期末試験は/絶望的だ』
『宿題を/締め切りあとに持ってった//点はやらぬと言う教員/おまえは鬼か/どうせ暇だろ//そう言う学生/大人にゃなれぬ』
『学生さん/部活だ趣味だとご多忙だ//週一宿題迷惑と/授業評価に記載する//君は何しに大学に/来たのか教えて/ちょうだいな』
『コピペして/復習しなけりゃ/意味は無い//コピーしただけ/罪深い』
『質問を/するのは君の権利だが//やってみるのも/君のため//失敗恐れて/何になる』
『期末試験/ 8割以上が回答の/ 6割以上で正解だ//模範解答/なんで必要』
『模範解答/聞いて覚えて何になる//どぉーせそれも/使えない』
『失敗を/したら友達/聞いてみろ//教えてくれる/友人持つのも/実力のうち』

2011年9月18日日曜日

地方の事情

鹿児島と仙台と TV CM を比べてみると,前者には方言使用がとても多いと感じる・・・ことは既に書いた。旅行者もいるだろうから使われている単語はほぼ標準的なものだが,イントネーションは「かごんまべん(最後は上げる)」だ・・・と見ていたら,時間帯によっては標準語をしゃべるバージョンもあるようだ。あの「・・・ケンミンショー」で,鹿児島の合言葉として紹介された「コームイン(最後は上げる)」はしかし,意味が通じないようだ。前にも書いたように,大学に進んで東京に行ってすぐ,吉祥寺駅の地下街のソフトクリーム売り場 (!) で「ソフトクリームをください」が通じなかった。東京の人は,そんなにイントネーションを聞いているのだろうか。英語は,確かに通じない,というのも前に書いた。
さて本題に入ろう。鹿児島のスーパー(2 軒見た)に,食パン 8 枚切りが無い! 何故だろう。そして 5 枚切りというのがある(4, 5, 6 枚切り)のだ。うぅーむ。仙台の場合のメインは 6, 8 枚だ.

2011年9月17日土曜日

学力を下げ理解を遅らせるスライド利用

大学院の講義室のマーカーが薄くなったのだが,僕以外は使ってないらしいことが判明した。私費で買って使っている。多分,ほぼ全員がスライドを使っているのだろう。しかし FD (faculty development: またぞろアメリカの真似でかつ英語)でも,スライドは使うなと指導されていたはずなんだが。学生にとってスクリーン上での講義は辛い。もらうのもスライドのコピーだ。紙面にはキーワードしかなく,数日すると何が目的なのかもわからなくなる。やはり,頭をちょっとだけ使いながら「写す」という行為には,脳の活性化と記憶という信号発信が含まれているのだろう。学生は板書は写すが,しゃべったことをメモする習慣はまだ身に付けてない。スライドはやめるべきだ。
さてそのスライドだが,皆さん某社のソフトの名称をお使いになる。決して「スライドのファイル」とは呼ばない。しかも僕の嫌いな短縮「パワポ」だ。あとたったの 3 音節 4 文字「ーイント」(英語的発音すればそもそも 2 音節?)なのだが。禁煙グッズか筋力トレーニンググッズみたいだ。
またそのスライドには(特に学生の場合)意味の無い・存在の必要が無い画像があって,それも,違う人が全く同じ画像を使う。意味が無いから使う必要はないし,個性は全く感じられない。グラフはカラーだが,線が細くて黄色や緑の線は無いのと同じだ。学会発表で見るスライドにも,こういった自己満足は少なくない。それから面白いことに,ポインタあるいは差し棒をスクリーン上の該当箇所に当てない発表が主流だ。いま,何をしゃべってるの? 画面にあるキーワードを一言も発しない。ポインタはスクリーン上をくるくる回っている。君は何が言いたいの? もう発表やめたら? 聞いているのが苦痛だ。

2011年9月11日日曜日

世の中,優先順位はどうなってる

被災証明があれば高速道路がロハなんだそうだ。で,仙台ではほぼ誰もが許可をもらえるらしい。マスコミによれば,停電したことすら被災になるとか。ふぅーん。たった 2 日電気が停まっただけだし面倒なので証明書をもらってない。
で,高速道路はどうなっているかというと,普段使わない人が路肩で写真を撮ったりしているとか,もっぱら農道を走っていた老夫婦がノロノロ運転をするとか,一番困るのはパンクが多いらしい。普段使わない人がタイヤ圧不足で走っているのが原因らしい(以上 NEXCO 東からの情報)。困ったものである。本当に被災して必要のために使う人以外の車の方が多いように聞こえてくる。
出口の料金所! これが問題だ。証明書確認のために時間がかかり,本線まで渋滞することがあるという。ということはだ,僕が走ったとすると,停電しただけでロハで利用する人と一緒に何十分も並んで金を払うのかね? えぇー? 何故? ETC は相変わらず優遇されているんだっけね? 料金所を次のようにして欲しいのだが・・・正規料金を払う人を最優先にして特設レーンを設けよ!

2011年9月10日土曜日

生かされている

震災直後から,TV に出てくる一般人(宗教家ではないという意味)が用いる言葉だ。高校野球の宣誓でも使われてしまっていた。どういう意味で使っているのかは難しい。自分だけが生き残ってしまった(代りに誰かが亡くなってしまった)ことを気持ちに含めているようにも聞こえるが,残念ながら真意は理解できない。人が自分でコントロールできない生命のことを指しているようにも聞こえるが,それは当たり前のことだ。あるいは,あの他力本願を庶民的な言葉にしたのだろうかとも推測していた。少し違和感はあるが,それは何だろう・・・と。
そこでお盆にお坊様と話をしてみましたよ。どうも他力本願とは若干違うのではないかという見解を得ましたよ。確かに宗教家や先生等からの影響もあるのだろうが,どういう意味で使われているかはわからないと。他力というのは,所詮自分では何もできないのだから「精一杯行きなさい」「生きるために殺生しなければならない(悪人)なら仕方がないからそれでも精一杯行きなさい」という能動的なもの。因果は神様が決めているからどうしようもないが,だからといって神様に誘導されているわけではない,受動的なものだというわけではない,精一杯生きたのなら(条件としては念仏を唱えれば)阿弥陀様が極楽に連れて行ってくれるというのが他力本願。微妙な違いだが,大事なのは能動的に生きていこうということだろう。それが他力本願。このお坊様からもらうカレンダーには「念仏唱えて今日も元気に生きましょう」とある。これは「生かされている」よりも前向きだ。念仏のところは,ま,置いておいて・・・ね。そして,そのお坊様は TV に出てきた若い女性が家族を亡くしているにも拘らず「しっかり生きていきます」という言葉を笑顔で発したことに感動を覚え,これが本当の生き方だとおっしゃってた。

2011年9月4日日曜日

数字の「7」にはなぜ「チョン」がある?

東京大学出版会の季刊誌に注釈を多用した随筆がある。シリーズ名はとっても洒落た「注文(ちゅうぶん)の多い雑文」で,著者は須藤靖先生だ。また同誌では,「科学・技術」に中黒が必要かどうかについて,理学系(?)の上出先生と工学系(?)の木村先生で 180 度違う文章が載っていて,拙著にも書いたように僕は前者に賛同するのだが,須藤先生は最近その後者への反論を出しておられる。が,本日はそのことではない。なんじゃそりゃ。
須藤先生が,片手で 10 以上まで数えられるインドのやり方等を紹介しながら,アラビア数字の謎について書いておられた。実は上の図は,チュニジアからの留学生が僕に教えてくれたものだが,角の数で値を表したのがアラビア数字であるとのこと。だから零には角があってはならないのであり,斜めに棒を引いてはいけないのである。なお,アラビア数字には,今僕らが使っているのとちょっと違うものもあり,それはアラブ文化圏では今でも使われていると聞いた。
上の図が正しいかどうかはともかくとして,日本人のかなりの数の人たち(理系だけかも)が数字の「7」の腹に「チョン」を書く。僕は大学に入ってからそれに気付いたような気がするが,すぐに真似るようになった。そして留学先のアメリカで使って,ボスに「これは付けるな」と叱られた。どうして? ただ,どうしてそれが付いたのかは知らなかった。「7」があまりにもあっさりとしたデザインなのでアクセントを付けたのか,と考えていたが,上の図からはその「チョン」が必須であることが理解できる。面白いねぇ。

2011年9月3日土曜日

東北人に比べれば不真面目な九州人

全国チェーンのコンビニの TV CM である。鹿児島である。店を訪れたおばちゃん(微妙に顔が見えない)が鹿児島弁で「これから家族で海に行くからおにぎりを買いにきたんです」店員「あぁそうですか」おばちゃん「ところで私はこの歳でビキニを着てもいいですかねぇ」店員「あっ・・・」と逃げる。てなものは仙台ではついぞ見たことが無いぞ。東北人は真面目だというが,それと関係しているのだろうか。仙台でこれをやると顰蹙を買うのであろうか。もちろん僕ら九州人が不真面目だと言っているのだが。あ,僕だけ?
どの講義だったか忘れたが,九州人に歌手(クラシカルミュージックの範疇)が多いのは,気候のせいで(ぼぉーっと口を開けて暮らしても死なないで)喉にストレスがたまってないからと言った先生がいた。ま,言い換えれば,ほとんど僕らはクルクルパーだと言っているのと同じなのだが,僕自身もそうかなぁと実感している。ウェイトレス等に何か面白いことを言いたくて仕方が無い。しかもくだらんことを。あ,これも僕だけ?
アメリカ中西部にいたとき,一年中気候が穏やかなカリフォルニア人(一年中緊張感が無いから)のことをアンポンタンだと言った米国人がいた。それと同じだな。かな?