2015年3月7日土曜日

大学は何をするところ

    朝*新聞等によれば,文系学部は無くすとか,文系では実技を教えるべきだとか,特に地方大学では理論より実技だとか,不穏な雰囲気がジワジワと広がりつつある。その理由の一つが大学進学率の増加だ。
    大学は何する場所か。基礎知識の幅が広くて適応能力の高い人を育てる場所。内田樹先生はもっと適切な言葉をお使いだったが忘れた。決して職業訓練学校ではない。ところが,少子化にも拘わらず役所は県立大学等を増産,学部新設等も際限が無いようにも見える。ということは,大学にはエリート候補(適応能力で臨機応変に他人に適切な指示ができる人という意味)ではない者がたくさん入ってきたってわけだ。先生の定員を維持し,世の中の母親を敵に回さないためには,学生定員を守らなければならないから,卒業できない学生が増えてしまった。また全学教育(つまりは教養教育)に,いい先生がいない。東大や京大の教養学部のような教育の質の維持ができない(研究はできるのだろうが)から,学生は全学教育を舐めてかかって何も身につけてこない。本は読まないから,卒論が書けない。日本語でである。英語ならもっと書けない。読めないし。
    前から主張しているのだが,もっと中学卒とか高校卒の生徒を民間企業はたくさん雇うべきではないか。大学なんか行かなくても幹部にはなれる人材がいるはずだ。だって,理科や数学・英語・国語の成績と幹部候補生の資質とは無関係だろうから。そして,大学をこれ以上増やさずに,定員割れをある程度まで許容すべきである。さもなければ,進級・進学・卒業をもっと厳しくすべきかもしれない。学期の履修科目の成績平均が 60 点台というのはどういうことか? 60点以上が合格であり成績にはそれ未満の点数は含めない。つまり 70 点以上を取った科目が皆無だということだ。面白かった科目・興味を持った科目・得意な科目(専門科目というわけではなく広く教養科目)が一つも無かったということだ。多分,趣味の世界では深く多くの知識を持った人物だろうが,それが人としての質の肥やしになっていない。趣味を持っている意味もないわけだ。もったいない。こういう人は大学にいても意味が無い。