2015年1月10日土曜日

トンデモ建築・東北大人間・環境系

    被災した東北大の建築・社会環境工学科の教育・研究棟が昨年秋にようやく完成した。なぜか鹿児島の南日本新聞(2014/11/29)に某大教授の建築評論家五十嵐太郎氏がその内容を紹介していた。しかし・・・である。建築についてはたいていは造る側の理念しか公表されないので,素人住人が公表したい事実を書いておこう。
    「揺れに備えるべく」はまず基本だ。しかし「室内から柱をなくして今後の自由な間取り変更を可能」になっているが,「V 字形の柱」の一部はいくつかの研究室内の邪魔なモニュメントにすらなっている。また壁はお粗末で隣室の声が筒抜けであるため,人事用件等の内緒話はし難い。「階ごとに風景の見え方も変わるように」する必要性は全く無い。ここは教育・研究を行う場であり,展望台ではないからだ。それを可能にした「ガラス張りの建物」も,寒い(外気零度の昨日廊下は 12 度)暑い(10 月の南側コピー室は体温以上,廊下も多分 30 度越え)生活空間を生み出しただけだった。また教室壁もガラス張りなためブラインドは下りたままだし,もちろん研究室のブラインドも下りたままだ。「風景」なんてのは「見え」ないようにしないと生活できない場を作っておいて風景の見え方も無いだろう。
    「場所を均質にせず,個性を与え」る必要も,教育・研究の場には全く必要無い。オフィスビルと同じだから,結局はすべてがユニット化された個性の無い部屋が並べばいいだけの施設である。そういった不要を今回重視したわけだ。「2 階にテラスを抱き込みながら,青葉山という緑あふれるまわりの環境に開く」必要も,居住の目的からからは全くありえない。あるいはそちらを優先する理由は,限られた予算の中では成立しない。建築物の目的の本末転倒が,建築家の欲求によって行われている。「限られた予算と条件のなかで,無駄をそぎ落とした」らしいが,そのテラスには無駄な床が造られ,その代わり建物内の廊下はコンクリート打ちっ放しである。これも室温を上げられない原因ではないかと素人は感じている。「過剰なディテールや仕上げなどに余計なコスト」をかけなかったと言うが,余計なものをどこに当てたかの反省は無い。そのため,ガラスのフィルム貼りや目隠しボード貼りや,追加暖房・床改善等で多額な支出を余儀なくされているのが現実である。また無駄を無くすことによって果たして「自由な教育の場を創出する」ことができたかという現実とのギャップについては,素人にはもはや理解不可能である。
    「また停電になっても移動しやすいよう,中廊下とせず,自然光が入る外廊下を採用」したのも室温を暮し難いようにした原因の一つだろう。100 年あるいは 1000 年に一度あるかないかの災害のことの方を重視して,ドア窓等を通して十分に光が入る中廊下(旧棟であの大地震時に実際に経験した十分な光量)を設計する工夫はせず,短絡的・単純に外廊下にする選択をする気持ちも理解できない。選択肢そのものが少なすぎたのではないか。悪い副作用の方が結局は多かったわけだ。「東日本大震災後に」ネガティブな「付加価値をもたらす,復旧」すら達成できなかった「(の)建築である。」と感じる毎日である。
    毎日・毎時ストレスの溜まる建物が完成した。この建物から何かを感じたい人は,表から写真を撮ったりするだけではなく,わが研究室に一人分の机と椅子を用意するので,週末を含む真冬と真夏の一週間,ぜひともそこでご自分のお仕事をしていただいても構わないと思うが,どうだろう。青葉山の書店・売店・食堂と同様,無駄な設定を建築家に強要されてしまったという印象が強い。