2012年8月26日日曜日

攻めに攻める大学教育は日本には向かないのか

新聞によると,中教審が「大学生の勉強時間@自宅を増やす取組みをせよ」と命じたそうで,反論として,教える側の質の向上がまずは第一という意見が出ていた。もっともである。僕のような教員を解雇するのだ! さて,どうやったら勉強時間が増えるだろう。我が大学でも悩ましい対応(後述の四学期制も含めて)を模索しているようだが・・・
さて宿題はある程度の数を出している。最初の数回の講義は導入なので,その後の 10 講義くらいに 6 課題であれば十分だろう。しかし,いくつかを提出しない学生が少なからずいる。そしてそういう学生は期末試験でも失敗して単位は取れない。そしてそういう学生に限って不合格試験後,「何かレポートで浮かしてもらえませんか?」と来る。もちろん拒否である。授業初回にそういう過去の経験・実績を述べるのだが出さない学生がいる。試験には A4 一枚裏表自筆用紙持込可としている。カンニングを抑制する効果もある。が,しかし,採点して返した宿題の縮小コピーを今年初めて見た。確かに自筆ではあるが,何のための持込用紙かが理解されていない。復習が大事,自分の言葉で習ったことを見つめ直して整理する操作が,持込用紙の作成なのだが。これも初回にそのように述べているが,馬鹿にはつける薬は無いということか。
上述の新聞では米国との勉強時間の比較があるが・・・米国は毎週末,金曜の午後は思いっきり遊ぶ,土曜は宿題をこなす,こなせないくらい多い場合もある,日曜の朝は教会で午後はまた宿題だ。一つの科目の授業は,60 分授業月水金 3 回か,90 分授業火木 2 回で,科目当り 180 分授業が 2 ヶ月くらいある。90 分授業が 15 回ある日本とほぼ同じだ。この攻めの講義で毎週末燃え上がって期末試験で燃え尽き,そしてすべてを忘れる。という繰り返しだ。まさにトレーニングである。しかし実力は日本の昨今の学生よりもついているのではないだろうか。詰め込み教育が悪いと,誰が言ったのだろう。基礎は詰め込まないと使えないのに。
ただし大学は覚える方式の学習場所ではないことは前に書いた。

2012年8月19日日曜日

オリンピックは特別

負けた選手を誰もけなさない。それなのに選手は謝るような発言をする。何か約束したかのような発言には違和感を持つ人もいるようだ。僕もそう感じる。がんばったんだからいいじゃないか。努力は報われるなんてことは,まぁ無い。研究も・・・とは余計なことか。
普段の J リーグの試合,負けた途端にサポータのブーイング。野球も同様で,かつ個人攻撃すらするようにも感じる。普段からスポーツには興味の無い人間にとっては,このブーイングが次への励ましとはとても思えないくらい過激で,なんでそんなことをするのかわからん。が,それとオリンピックとはどこが違うのか。国を背中にしょっているからか。プロとアマの違いか。そういえば高校野球も負けても差別しないが,これは相手が高校生だからかなと思っていたが,やはりプロとアマの違いか。プロには私企業が金をかけている。オリンピック選手には国が金をかけている(トレーニングセンターのニュースを見て初めて知ったが)。なら,後者にこそもっと厳しくあってもいいような気もするが。スポーツにはほとんど興味の無い人間が見ると,わからないことが多いようだ。
音楽家はどうだ。3 位入賞したらチヤホヤだが,そうでない人たちは公にすらされない。アマチュアの個人競技であるにもかかわらず厳しい状況ではないのだろうか。ま,けなすことは無いだろうが・・・やはりよくわからない。

2012年8月12日日曜日

違うんだと思うのですが,そうですね

前から学生さんの返答での違和感があったのだが,このオリンピック選手の返答のいくつかでその印象がまたひどくなってきた。なぜ,何も答えないうちに一旦の是認をするのだろう。語尾が上がっているならわかるよ。考えをまとめたいから「そうですねぇー,ちょっと考えさせてくださいねぇ」となるかもしれないが,そうは聞こえない。解説者は両方の意味で使い分けているのだが,学生さんや一部の選手はそれを誤用しているようにも聞こえる。
「宿題は全部自分でやったんだろ?」「そうですね。全部友人のを写しました。」「じゃ,試験前には必死に復習しなかったのか?」「そうですね。したんですけどね。」「出席はどうなんだ,毎日大学には来たんだろう?」「そうですね。十日に一回くらいですかね,大学には」「じゃ毎日アルバイト三昧かい?」「そうですね。毎日家でゲームしてましたね。」

2012年8月5日日曜日

アメリカの中途半端な真似

大学の単位認定では通常試験をして点数で表すが,授業の内容・目的によっては合否だけで判定することもある。アメリカの場合は,ある範囲の数の講義で,点数による成績報告なのか合否だけにするのかを選択できる。なぜかというと,その学期の平均点の低下が除籍に直接結びつくからである。
本学工学部でも,ある学期の成績がいいと次の学期に制限数以上の科目を履修できる。結果的には早めに卒業要件を満足させることが成績上位者にはできるわけだ。何がいいのかまったく理解できないが,それはともかくその工学部では,合否の成績判定に反対している。数値化して欲しいそうだ。例えば複数の教員が代わる代わる講義をするオムニバス方式の(いい加減な)講義がわが国にはある。工学部ではこれもレポート等で数値成績をつけるべきだとしている。しかし,いい加減な講義だから,中にはある学生にとってはつまらない内容の講義しかできない教員も複数いるだろう。そんな課題に対して,その学生はまともなレポートができるわけがない。それをさらに基準の曖昧な判定で数値化されたら,学生はたまったものではないだろう。米国の丁寧なシステムとの思想的な不具合がよく見える。なんとかならないものだろうか。