2011年2月27日日曜日

大学教員の仕事と通勤形態

法人化されて大きく変わったのが,就業規則と安全対策だ。後者については,実験もしないものだから,委員のときにはかなり苦労させられた。が,難しい点が多いので,ここでは述べない。
前者はとても面白い。僕も最近はそうできなくなったが,かつては毎日 9 時くらいまでには出勤し,平日は晩御飯の後も大学にいて夜 10 時くらいまでは勉強したり学生と意見交換をした。ま,ノルマがあったり監視する上司がいるわけではないから,教育と論文出版という成果さえ適切に維持していれば,どういう勉強の仕方をしても構わない。土日・祝日も当然のように朝から大学に行って,さすがに夕方には帰宅するものの,何かしていた。学生さんも週末を含めて毎日夜まで大学で勉強をしていた。概算要求等の教室の雑用を担当すると,夜遅くまで一人でコピー室で作業をすることもあり,文字通り泣きたくなったこともあった。
その残業が,法人化後の監督役所である労働基準局に禁止された。彼ら曰く「自らそんなに残業をしたい労働者がいるはずがない!」というのが理由だ。大学教員の実態を全く理解できなかったようだ。とても面白い。実際には,裁量労働制という規則の元,適切な時間帯に適切な出勤記録を残せばいいことになった。平日のある時刻からある時刻までの夜中と土日・祝日に(大学で)労働するには学部長の命令が必要になり,必ず振替休日を取ることになった。労働基準局は,自宅で勉強や研究をしているとは思っていないのだろう。そこがまた面白い。

2011年2月26日土曜日

30 年変わらない講義ノート

11 月の朝日に(主に会社から赴任した)教授の資格についての記事があり,またぞろ「毎年同じ講義ノートで・・・」という批判の記述があった。例えば Newton の力学がこの 50 年で何か変わっただろうか。学生の質が下がったとき,それに合わせて単純にレベルを下げればいいのだろうか。実は現場は困っている。
さて,本学の前の工学部長さんがこの 50 年の入学者の能力の変化と,社会が卒業生に求める資質の変化を簡単に表したグラフを見せてくださったことがある。簡単に言うと,入学者の能力は,大学の大衆化以降単調に下がっていくし,ゆとり教育によってまた極端に下がった。一方,社会に出てから対処しなければならない問題がどんどん難しくなっていることから,卒業生に求められる能力は単調に上がっている。したがって大学在学中に,学生が持っているポテンシャルを上げる勾配は,単調に増大しているというものだ。つまり,入学してから卒業するまでに身に付ける知識は,50 年前よりも倍増しているくらいのものだ。そんな教育は不可能に思えるほどだ。
もう何年もやっている講義ノートをこれに対処しようと工夫を試みてみるが,不可能だ。講義回数は 14 回しかない。毎年のように出版される種々の教科書を見ると,二種類あるように感じる。一つは 50 年前と同じ教程の内容だ。古典的だが,工学的な基礎の真理は 50 年や 100 年では変化しない。いや,体系化されたとても美しい完成された真理であるから教えることは変化しない。もう一つは昨今のトピックスに対処するような内容だ。これは斬新に思えるが工学部基礎科目(学部のほとんどすべての科目)には使えないのである。この種の教科書を使うためには,その前にもう一冊の基礎教科書を勉強しないといけないからだ。
ただ推測するに,社会(会社)は大学卒業生を冷静に評価しているように思え,それが社会を高度に保っているように感じる。卒業生の能力が下がっていることを現場は実感しているから,同じ大学出身者でもムニャムニャ・・・

2011年2月20日日曜日

平成学内資料の変

「**のパブリックコメントが行われています」っていう「日本語?」理解できますか。どうやら「誰でもいいから**について意見がある人は自由に提出しなさい」ってことらしい。うぅーむ。頑張ればそうも読めるか。僕には,またうちの大学の社長が「コメント」をネットの動画で「不特定多数」に対して「流して」いるのかと思ったものだが・・・
さて現在の民主党というのは,言ってみればかつての自民党+社会党+民社党のそれぞれ一部のちゃんぽんではないのか。どこかに背骨というか中心的な骨が無い。くらげのようにふにゃふにゃしていて透明感もほとんど無い。どこか濁っている。ふにゃふにゃなので使う言葉も英語のようなカタカナ語が使われる。そしてそのカタカナ語と同じ意味の適切な日本語も存在する。きちんとした定義のある日本語や,「遺憾」「粛々」という政治家用語「以外」のちゃんとした漢語やら日本語を使う自信が無いらしい。おかげで役所が「パブリックに」使うから,対応して大学にまでカタカナが蔓延してきた。ま,言葉は変化するものだからいいのかな。しかしね,学生の英語による発表で「僕は**を選択する。」と言いたい場面で `I choice **.' だよ。カタカナ蔓延の弊害が英語にも及んでいる。
さて,その同じ資料のコメント例を示す見出しは,なんと! あの 4 文字だ! 「パブコメの例!」うーむ,イギリスのパブでも日本ブームで米でできたつまみが出るようになったらしい。米はもっと食べる日本人が増えるといいからね。イギリスにも協力を申し出ましょう。ところで米価っていうのは高いの安いの? わからんよね。長年にわたって政府が価格を制御していたらしく,本当の価値がわかりません・・・と資料を読み続けると「アトランダムに」というお言葉! うーむ。英語を使いたいわけね。和製カタカナ語なら「ランダムに」で十分で「無作為に」という日本語もあるところを,大学人(あるいは役所かな? この資料の出所は?)は英語を知っていることを披露したいらしい。あるいはスペルを知らないしょうもない人の作文かもしれない。
ところで,英語を日本語のように使うとき,例えば「choice する」と言うだろうが「choose する」とは言わない。しかし「select する」は使っても「selection する」っては言わない。規則は無いようだが・・・

2011年2月19日土曜日

イモリの生態

11 月の朝日に「アカハラ」記事があった。もちろん,例の 4-letter words である。呵呵。具体例がとてもいいので,その実態を併記してみよう。
「論文を指導しない」:
言ったことをしないし大学に来ない
「正当な理由がないのに単位を与えない」:
正当な理由がないのに宿題の締め切りを守らない,無断欠席をして出席率が足りないのに期末試験の受験権利を主張する
「本人が希望しない研究テーマを押しつける」:
多分結論が出るだろうと親切心で提示したテーマから自ら選んだものに興味を持とうとしない,教員が知らないことを調べてきて驚かそうとしない
「加筆訂正しただけで指導教員を第一著者とする」:
学生が書いた草稿に加筆修正をした第二・第三稿等には既に学生の書いた言葉は 10% も残っていないのに,自分を第一著者にせよと主張する。そもそもテーマやアプローチ等は誰が提案したんだったっけ
「深夜や休日に指導を強制する」:
毎日昼過ぎにしか出てこないし昼間もどこにいるかわからない,中間報告は全く持ってこない,仕方がないから彼をつかまえられそうな休日や夜間の時間帯に約束して打ち合わせに行くとソファーで寝ている,起こすと逆ギレする
こんな風に「アカハラ」の種は,大学には無数に存在する。だから最近,教員の学生に対する態度は「触らぬ神にたたり無し」だ。毎日ビクビクして過ごしている。大学に出てこない学生を,昔は迎えに行って無理やり仕事をやらせたが,今はそんなことできないからギリギリまでお互いに何も改善されない。今,社会はこういう環境を大学に求めているらしい。
「幼稚園児の作文だ」「死んでしまえ」などと暴言をぶつける・・・というのもあった。だって,高校までに論理的な文章を書く授業も訓練もない。国語? 数学より役に立たない科目だ。単に作文の宿題が出るだけだ。幼稚園児よりはましだが,とても読めたものではないのは明らかである。僕の卒論も(実は恥ずかしながら修論もPhD論文も)真っ赤だった。もちろん自分が選んだ言葉はほとんど残っていない。実はそれで喧嘩をしたことがあったが,今ではいい思い出だ。で,「死んでしまえ」という教員はまずいないから,これはある極端な数少ない例をマスコミ流に挙げただけだろう。しかし「幼稚園児・・・」は,大学教員のほぼ 120% が実際に直面して(自分の過去を棚に上げて)口に出そうとして,(自分の過去を思い出して)思いとどまった言葉の一種であることは確実だ。卒論の最初の草稿のコピーをそのままご両親にお送りして,感想文を 400 字くらいで書いてもらったらどうだろう。

2011年2月13日日曜日

博士号は資格らしい・・・知らなかった

大学教員は(かつては)採用試験があるわけでもなく資格も要らなかった。僕なんかも学閥と出身校からの天下りに過ぎない。しかし,それを改革すべく導入されている昨今の論文数信奉(特に英語による)には大きな違和感を感じる。某国の若手研究者は,中身はともかく論文数稼ぎに必死だそうで,実際に統計上の数字でも明らかだ。就職には不可欠な数値基準らしい。最近,学会の委員会論文集だけではなく権威のある論文集や国際誌に投稿される論文(査読と呼ばれる論文審査で接することができる)にもゴミみたいなのがたくさんある。資格獲得のためには数集めが必至なのである。お互い様なので査読も甘いのか?
研究の手法や規模にもよるが,50 人で書いた一編と単著が,各一著者にとって同じレベルの成果だろうか。方法論を発見した一人の最初の論文と,それを使って応用した論文が同じ質だろうか。自分で発見したモデルを使って応用した論文が,そのモデル提案の論文と同じ質だろうか。対象としている技術そのものの国内基準と国際基準が異なる分野の研究で,英文論文が出せない人の質は低いのだろうか。きっとそうなのだ。でなければ論文数信奉は成立しない。1 年に 10~50 編の論文を執筆する。後者は週 1 編だ。中身のレベルが高ければ高い程,1 編執筆するのには,結果が出てから 2 ヶ月くらいはかかると思うのだ。結果が出るまで 1 年で,ここは学生さんがやってくれたとしても,どうやって年に 10 編も作れるのか理解できない,というのが今日このごろのボンクラ頭の思う不思議である。きっと頭が 5 つで効き手が 18 本くらいあって,寝ている間も思考とワープロ作業ができるに違いない。確かに,頭のいい学生さんにとってはすばらしい教員になりそうだ。

2011年2月12日土曜日

我が国は芸術・アニメ・芸能が最大の強み・・・か

役所はもとより大学や,最近ではノーベル賞受賞者も同じことを述べているが,我が国は資源が無いことから「最大の強みは科学・技術であり」「ものづくりが得意な」国として発展するような政策・教育・研究を目指すべきらしい。
実は僕の研究室(工学部)にいる学生十数名中三分の二以上が「旋盤」「タッピング」「モンキースパナ」「レンチ」「ニッパ」を知らない。役所はどういう教育方針で,こういった学生になるような道筋を初等・中等教育機関に指導・実施していたのだろう。極めて興味深い。一体どこが「技術」であり「ものづくり」なのだ。自動車会社に勤めた人が,学生時代にお世話になった模型屋さんのご主人に言っていたそうだ。「最近の新入社員はプラモデルも作ったことない。そんな奴がどうして車を作れるのだろう」と。役所や家庭では,突然変異で技術者が育成されるのだと信じているようだ。もちろん大学は学ぶところで,丁寧に教える場所ではないし,ここには旋盤も無い・・・
そんな中で,どうやっていい技術者になる人材を育成したらいいのだろう。困った! いや,役所の将来予測ではきっと,我が国の発展はアニメが助けてくれるから,もうそろそろ「ものづくり」は卒業ということか・・・

2011年2月6日日曜日

成績がなんぼのもんか

さて出世とは直接関係は無いが,4 年生になって卒論をする研究室を選ぶ際に成績順に希望をかなえて欲しいという要求が学生側から何年か前に出て,そのときはそれを容認した。ということは,そのような選び方を主張する学生は,成績の悪い人に対しての思いやりは全く無いということを意味する・・・ということが,彼らはわかっていたのか。一所懸命やった人だけを評価すべきだという考え方は,国家公務員試験に合格した人はそうでない人よりも優れた人材であると主張するのと同じだ。確かに TV のインタビューでそう応えた役人がいて,びっくりした。でも,本当にそれは正しいか。あるいは現実の,要領のいい人,もう少し建前的に書くと,話し合いや根回しで何となく決めようと努力する人を排除する方向にしか思えない。僕は嫌いだ。
さて僕は宿題で相談をすることは禁止していない。人に教えることは理解を深めるし,教えてもらったことを自分の言葉に翻訳して勉強すれば実力がつくからだ。大学 3 年生のときに 16 進法を初めて理解した(したがって,そのとき初めて 10 進法を理解した)のも,友人と一緒に宿題をしていたからだ。しかし最近,宿題はほぼすべて満点なのに,定期試験がメチャクチャな学生が目立ってきた。きっと他人の宿題をコピーしただけなのだろう。さすがに採点のときには怒りを覚えるが,僕の知ったことではない。その学生が自分で自分の人生に責任を持ってもらえれば済むだけ。ただ,アメリカ人と違って,こういう学生は「1 週の持ち帰り試験 (take-home-exam)」でもカンニングするのではないだろうか。ここがアメリカに負ける一つの理由でもあると感じる。日本はもう駄目かもしれない。

2011年2月5日土曜日

コピペは日本人を進化させる

TV で標記の話題があって一瞬驚いたが,中身は,ペーストのあとに加筆修正をするという極めてまっとうな内容だった。現状とはかなり違う。
ただ,少なくとも大学では,カンニングもコピペもやりたい学生にはやらせればいい。見つけたら摘発して停学にしたらいいだけのことだが,それも面倒だし不要だ。世の中,要領のいい人が出世するのは現実(要領のいい人がそういう倫理違反をしていると言っているわけではない)だし,他人がどういう手段でどういう利を得るかに文句を言う前に,自分を律しておけば済むこと。損をしようと・・・である。「天網恢恢,疎にして漏らさず」という言葉は多分死語だろう。しかし,何をどうこう言おうと,自分のことを正しくしておけばいいだけのこと。根底にある問題はカンニングする人の倫理観でしかない。それを他人がどうこう言う必要はない。その人の自己責任にすればいいこと。大学で工学倫理とかくだらない授業をする必要がある現状が問題なわけである。家庭の問題,育ちの問題である。現場では,きっと,そういう人はいい技術者にはならない・・・と期待しておきたい。
実は,a) 学会発表を無断で欠席してわびない,b) 駐車票をもらった初日に駐車違反をする,c) 長期休学する直前に無断で家財道具と車を大学内に保管,のすべてを一人でやった学生がいた。顔も見たくない下衆な根性の持ち主だ。足は引張らなかったが,僕には 3 回も唾を吐いたのだろうから,協力もしなかった。その後も無断で研究室のゼミはもちろん中間報告会も欠席した上で,研究の結果も見せに来ないから,どうしようも無い。