2016年9月11日日曜日

英語強化と民主主義の危機

    9/8 の朝*新聞のオピニオン欄に九大の施先生が主張しておられた。うぅーむ,なぁーんとなく「風が吹けば桶屋」的にも感じるが,あり得ない話ではなさそうだ。それはともかく,教育現場に政治家や財界が口を出すことがそもそも問題なのであるが,僕のおやじが言うには「何か世の中が行き詰ってくると彼らは教育に口を出し始める。素人でも何でも言える分野だと思っているらしい。」というのである。ちょうどそういう時代が 10 年くらい続いているようにも感じる。もっと何か中立で見識のある集団の判断が教育内容についての議論には必要で重要だと感じている。もちろん学長や総長が集まってできる議論ではないのは火を見るより明らかである。
    英語は数学と同じく道具の一つであって,頭の中では日本語を使って欲しいと思う。それが国民性(人種性)というものではないのか。したがって,論理的に日本語で考え・記述し・発言する能力がまず必要だ。逆かな? 日本語で表現可能な論理で考え・記述し・発言する能力かもしれない。確かに英語は論理的な言葉だろう。しかし頭の中は日本語ではないのか。もし頭の中も英語にできるなら英語がベストかもしれないが,それでは日本人という範疇の人間であるかどうかは不明になるような気がする。数学者にフランス人やロシア人が多いように感じているが,そういう得意・不得意は脳味噌の先天的な構造が影響しているのではないかと思わせる。日本人には日本人が特に得意な考え方等があるのではないかと感じている。