2013年2月3日日曜日

教育職は聖職なのか

知識を得たいという行為は(興味さえ持てば)本能的なものではないだろうか。うまく(いろいろな意味で)生きていくために体が必要としているのではないだろうか。そうやって得た知識を次の世代に伝えるのも本能ではないか。大工さんがいい家を建てようと努力することや,その技術を弟子に伝えることと同じであり,他の職種と教育職には違いは無い。教育も労働である。まず学ぶため(覚えることではなく自分の言葉で翻訳して整理して記憶するため)には体力が必要である。教壇に立って説明するには体力が必要である。一日に二コマ授業をすると,夕方には疲労でとっても眠たくなることが多いため,滅多にそういうことはしない。
先日,退職金額が下がることに困って学期途中で退職した教員がいて問題になった。学期途中というのは弁解の余地は全く無いが,これは予測できる事態であって(県によっては年度末の措置にしたところもある),原因はこの措置を決めた役所側にあるのは火を見るより明らかである。通常は事前聞き取りをやって,被害を最小に留めるようにするべき措置だったはずだが・・・
教職だろうとどんな職であろうと人は,家庭を持っているのであればなおさら,将来計画を立てて仕事をしているだろう。もちろん経済的な観点からがその計画の大きな比率を占める。その計画を遂行できなくなるようなとんでもない事態に陥ったというのが今回の事情であり,それ以上でも以下でもない。