2012年12月29日土曜日

一劫の長さと教養教育

1 年生のときに笠原一男先生の(退官のときに何か問題があったと聞くがネットではわからず)浄土真宗についての講義を受けた。なぜかというと,単位が取り易いという噂だったからだ。昨今の学生さんと全く同じ発想である。
覚えているのは「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや。」の連呼による刷り込みである。呵呵。が,面白かったのは(これも何度もおっしゃった)「一劫」の長さだ。正確ではないが,確か次のようだった。「ここに 100 km 辺の立方体の岩があります。100 km というのは,東京駅の新幹線ホームの南端から熱海(だったかな?)のホームの*m 手前です(わかり易い良い授業の見本かも)。ここに天女が 3 年(『年』という概念が既に確立されていることが前提で,今となっては面白い)に一度降りてきて羽衣で一度なでるのです。そしてその岩がすっかり磨り減ってしまうまでの時間が『一劫』なのです。」だった。文献にあると思われる比喩を書き直して話すことに感激したものだった。
が,最近の学生さんが(特に東北大での問題かもしれないが)教養課程(現在は全学教育というごまかした言葉が使われているが)で履修した科目の内容や雑談を覚えていないようなのだ。例えば第二外国語で 1 から 10 までも言えない。簡単な挨拶も覚えていないザマだ。どこに問題があるか。学生さんか。きっとそうだろう。大学の教員か。絶対にそうだろう。教養部を無くしたことか。わからん,というのも,実態は同じで,悪くなったのはいわゆる「教養」を教育せずに,使える知識を埋め込む路線を取ったこと(ここ東北大だけかもしれないが)も関係するだろう。