2014年10月25日土曜日

「覚える」から「考えられる」

    またぞろ某審議会による大学入試に対するくだらない提案が出て,朝*新聞で紹介された。見出しは『「覚える」から「考える」へ変換』だ。日本語が間違っている。正しくは『「覚えた」ことを「考え」ることに変換する』である。
    微分方程式を知らない学生が原発の温排水の拡散を予測できるだろうか。具体的には文系文学部の学生が拡散方程式に気づくだろうか。ま,普通はあり得ない。ここでアインシュタインを持ち出す輩がいる。物理の世界におけるアインシュタインは特異であることはよく知られている。彼は実験事実を見て何かを考えたわけではない。単に「こうだったらいいなぁ」という希望・夢想の結果が彼の理論であり,彼の真似は誰にもできない(井口先生@フェルミラボからの知恵)そうだ。しかし彼には知識があった。何かを一所懸命考える際に勉強したからだ。覚えたからだ。違うだろうか。
    覚えたものが無い人が問題解決手段を考えることはできない。小学生がトラス(橋梁の一つの形式)を設計することは不可能である。彼らは座屈という非線形問題の存在すら知らないからだ。しかし彼らも,30 cm の物差しを押すと曲がることは知っている。しかしそれを活かす方法がわからない。知識が無いからだ。

2014年10月11日土曜日

ディプロマポリシー

    標記を作るときに東*大の学部のそれを見せてもらった。いいことが書いてあった。「日本語によるコミュニケーション能力を伸ばす」である。グローバル・グローバリゼーション・コミュニケーション・・・全部「英語」を念頭に置いている昨今のくだらない基準をすっぱり切ってくださった。うちも真似しようと働きかけてみたが,最終的にはどうなったんだったか・・・忘れた。ま,学生さんもそれを読んで何の足しになるかわからないから,ま,いいか・・・
    工学部の多くの分野では,多分,バックの業界が無くなっていると聞く。しかし土木には建設業界が歴然と存在し,それ無しには社会は発展しないし維持もできない。それなのに,従来の土木科目は旧いということで削除する傾向が全国的にある。そのうち,土木構造物が外国のそれと同じように,ある日突然・・・なんてことが起こるのではないか。と,一応の心配をしてみたい。何が一番大事なのかを昨今は考えていないのではないか。最低限必要な専門知識を日本語でまず(頭の中で用いている言語でまず)身に付けることからすべてが始まると感じているのであるが・・・そういう意味でも土木は他分野とかなり違うのかもしれない。

2014年10月4日土曜日

大学の行方

    朝*新聞 10/1 のオピニオン。フェリス女学院大学の高田先生。高田先生と同じく,大学の点数制がくだらないことは大学人は全員知っている。さてオフィスアワーが予約制だと役所は評価しないとのこと。つまりは役所は部屋に縛り付けておきたいわけよ。各種プロジェクトの書類作りを教授にはさせたいってわけね。やはり役所は現場を知らない,知ろうとしない。ディプロマポリシーとアドミッションポリシー(役所はこの和訳を知っているのだろうか)は作りましたよ。作っておけばいいだけですよ。でも科目ナンバリング(そろそろうちでも始まる)はいいかもよ。留学したとき「D11 はベストな科目で必ずとること」という会話ができる。学生も B10 を取らないと多分 C12 は理解できないだろうとわかる。履修ガイド(我がコースでは絵入りで作ってある)だと思えばいいことです。さて,UCLA の竹崎先生。「プロジェクトは結果が既に予測された研究」というのは簡潔な表現で気に入りました。うちにも金集めばかりする吝嗇教授がいますよ。授業はさぼるし教授会にも出てこない。ま,現場も荒れてます。昨今,金を使わない研究はゴミらしい。