2014年3月30日日曜日

人前で食べること

    大学生協食堂内です。学生さんはともかく秘書さんたち(おっと,ちょっと前まで学生さんだったのかな)にも,足を組んでお食事中である。品が無いねぇ。学生さんは,平らな皿を左手に持って口まで運びますよ。どうなってるんでしょうねぇ。
    と,昨今の TV を眺めていると,レポーター(タレントではなく TV 会社の)も品が無いねぇ。ナイフもフォークもきちんと使えない。職業柄,単に人前で食べているわけではないですよねぇ。不特定多数の,多くの異なる価値観を持つ人に「見せる」ための姿勢が下品なのです。どうしたんでしょうねぇ。食べているものもまずく見えています。

2014年3月25日火曜日

地下水バイパス

あそこに井戸を掘って汲み上げて,山からの地下水が汲み上がり始めたあとしばらくしたら,今度は海側の汚染された地下水が山側にある井戸側に戻り始めて,アージャパーってことにならないのだろうか,とは,水理学の単位をギリギリしか取れなかった者の空想ではある。だいたい,地盤なんて訳のわからない材料中の,見えない水の流れ・流速を,どの程度の精度で把握しているんでしょうね。理論的には難しそう。コンクリート屋さん達のように実験しかないかぁ。土木学会誌に何か書いてありましたっけ。読んでないのでわからん。

2014年3月22日土曜日

論文の書き方をどう教えるか

    *日新聞の投稿欄で誰かがその必要性を説いていた。僕は教えている。60 分だけだが,本多氏の名著(本多氏自身のことはさておいて)を説明している。この最初の 100 ページを読むだけで,日本語で書く科学論文はとても良くなるからだ。教職員の助成金申請書の A4 半分程度の文章でも,きちんと書いてあるのは 20% くらいではないだろうか。今年度は業務として若手の数種類の申請書案を読ませてもらったが,ほぼ 100% 駄目だ。LaTeX で書けば,魂=本文(本学工学部のある先生の常套句)が込められるのだが,ワードプロセサだといい文章は書けない。手書きの方が多分もっとよくなる,という話はさておいて・・・
    本多氏の著書にもあるが,小学校から高校までの国語で「文章の書き方」は教えてくれない。論理的な文章をいくら読んでも,自己流だけではうまくならない。昨今はそれを英語にしろという無茶な要求まで加わっている。学生さんや若手教員の英語の口頭発表は意味がわかりにくい。動詞と名詞がごちゃまぜ,生半可の海外経験だと不要な常套句が挿入される。You know. とか I mean. だ。4-letter words でないだけましだが。教員会議(もちろん日本語)でも,わかりにくい発言も多い。それを学科長が聞いてきて学科で披露すると,もっとわかりにくくなっている。なぜだろう。

2014年3月16日日曜日

一度も冷凍しない肉

    以前聞いた話だが,生簀で泳いでいる魚と,遠洋で釣れてすぐに冷凍した魚を解凍したものと,どっちがうまいか。というクイズが出るくらいだから,後者に決まっている。生簀での生活というのは魚にとっては辛い人生なんだそうだ。鬱屈した状態では生きていく気力が無くなって肉がまずくなるという解説だった。
    さて TV CM で,一度も冷凍しない赤みの旨い肉というものを聞いた。ながらなので「聞いた」だけである。本当か。腐ってないのか。腐ったくらいが旨いという例のあれか。と思いは巡る。国内産の和牛なら大丈夫か。しかし和牛ってのは無駄に脂肪が乗っていて,柔らかいだけでまずい。肉のえぐさが無いからだ。肉というよりも肉の匂いのついた揚げ豆腐ってところか。その和牛の赤身って,誰も食べない廉い肉のまずい部位なんではないかという勘繰りまで至ってしまった。

2014年3月14日金曜日

父兄が乗ったお受験バス

どうやら,生協が試験初日に父兄説明会を開き,先着*名とか,震災でアパートが不足しているとか,あおったのが原因らしいと,学生さんからの情報でした。生協も思慮が足りん。

2014年3月1日土曜日

迷惑な父兄

    しばらく忙しかったら,2 週間くらいの感覚で 2 月が終わってしまった。
    さて本学の前期日程入試で,仙台駅前からキャンパスまでの臨時バスを設定したそうだ。ところが初日の試験開始を 30 分も遅らさざるを得なかった。原因は父兄。バスの調達数は昨年度までの実績を見てのはずだが,例年になく付添いが多かったそうで,試験開始が近づいた時間帯に,まだ仙台駅前に受験生があふれていたそうである。なんともまぁ,不安だったろぉねぇ。臨時バスに乗った父兄を恨むよねぇ。そんな父兄の受験生は,土木は要らないよなぁ。まぁ,土木なんかには来てくれないんだろうがねぇ。
    僕のときはどうだったかなぁ。確か,同じ大学を受ける生徒 10 名くらい,あるいはそれ以上が,試験のあるキャンパスの裏にある旅館に一緒に泊まった。そのとき,確か僕の担任が一人引率していたような記憶がある。西駅(ってわかるかなぁ?)で乗った列車から一緒だったように思う。遊びたがる我々を一人で制御していたんだから大変だったろうなぁ。近くの食堂で昼飯を食べて 100 円札で払ったら,すごく驚かれ,その驚かれたことに田舎者は驚かされた。もう 40 年以上前のことなんだなぁ。