2016年6月25日土曜日

国民を馬鹿にした政党員

    稲田という方が発言したらしい。ニュースでの断片ではあるから誤解かもしれないが「自衛隊が無くなったら熊本等の災害時にはたいへんだ」という趣旨だった。しかし,これは論理のすり替えであって,国民は馬鹿だからだましてやろうというだけの発言である。まことに貧しい心を持った女性あるいは政党なのだろう。彼らがやろうとしていることとは異なる発言であり,こういう人には上に立って欲しくない。

2016年6月11日土曜日

過去問は果たして役立つのか

    もう何年も前から大学院修士の入試問題は公開されている。が,しかし,最近妙なことに気付いたような気がする。問題は公開されているが,正解は公表しない。もしかしたら,ほとんどの受験生が正しい答,否,試験時間中の解き方を知らないかもしれない。勉強してないかもしれない。そういう意味では問題公開が役立ってない。少なくとも次のようなことはあり得そうだ。
    僕が出す問題は,多くの学生さんが使う手法だと計算間違いをしたり時間がかかるが,ちょっと気付くと,数行の計算で済むというものをできるだけ選んでいる。と,ここで気付いたわけだが,過去問をダウンロードしてそれを解いた学生さんは,実はその時間がかかるオーソドックスなやり方で解いて満足し,それで解く練習・準備をして入試に臨んでいるのではないだろうか。だから出来が悪い・・・うぅーむ。

2016年6月4日土曜日

大学院は勉強するところじゃないのぉ?

    さて,昨今はほぼ全員が修士課程に進学する。が,彼らのほとんどは学問に興味があるわけではない。宿題を出す。曖昧な題意になるような出し方をわざとする。90% が工夫をしないで,結果の例えば式だけを出して満足する。それを工夫した図にして,ひょっとしたら僕が知らない結果を見せてやろうという意欲は無い。また,目的とは直接は関係ないかもしれないが,副産物的な結果を図示してくれることは無い。英語の文献を紹介する。読む人はいない。義務のある成果を出すための論文を探して読むことはするが,そのときにダウンロードした論文の中から必要最小限だけを読む。その論文の文献リストからの孫引きのようなことをして,自分の知識を拡げようとはしない。卒論を始めてから修士を修了するまでに触れる論文は数編。これで大学院で学んだことになるのだろうか。修士課程だけでも 20 編くらいの論文は,卒論や修士論文に関連するものとして読むのが常識,なんてことは 30 年前のことなんであろうか。学習に今も昔も無いと思うのだが。むしろ今は,junk も含めて論文数は某大だ。その中からいいものを見つけるのもたいへんだが,junk でないものもある程度は見つかるだろうに,そういう努力をしているようには見えない。与えられた課題だけをこなして知識が増えるのだろうか。好奇心が無いんだろうなぁ。否,勉強以外への好奇心が強いから,勉強に当てる時間が無いくらいご多忙でお疲れ様なのだろう。若い頭脳が浪費されている現状で,何か新しい科学的な成果が果たして出るのだろうか。もうろくじじぃは,もう何も頭からは髪の毛すら生まれてこないのだが。