2014年8月30日土曜日

考える力を入試に

    昨今の新聞記事では,例えば意欲を評価すべきとか,荒唐無稽なことが書いてある。不安である。僕は物理の入試問題を作ったことがある。3 問作るのに 10 人の教員が,朝 9 時から夜中の 2 時過ぎまで数回にわたって完成させる。知識だけでは解けないようになっているが,もちろん知識が無いと解けないようになっている。それを外部の人間は「知識を問うだけのくだらない入試」と呼ぶ。本当か。理工学部の受験生の半数は問題の半分までしか回答できない。解答用紙の裏表にすべて書き込みがあるのは医学部だけだ。知識が,使える形で身について(整理されて覚えられて)いるからだろう。
    土木工学科の外部評価で,積み上げ式のカリキュラムを岡村先生@コンクリートに批判された。子供の野球を考えなさいという。まず練習試合をやって面白いということを覚えさせるべきだという。確かにそうだ。しかし岡村先生は基礎の詰め込みを否定したわけではない。まず楽しさを知ったら次の苦しい訓練を乗り越えられるとおっしゃっているわけだ。
    その苦しい訓練が実は中学高校のプロセスだ。ここで大事なことを使える形で覚えておかない限り,応用の可能性は無い。小学校の総合科目。ほぼ無意味だ。自由研究。不可能だ。教わらない限り(秀才でもない限り)科学的な報告書は書けない。単なる感想文なのだから「総合」とか「研究」とかいったまやかしはやめて,例えば「隣の花子ちゃんと一緒に二種類の肥料を用いた朝顔の発育の違いについての感想文」で十分な教育になる。そしてそれを教諭がすべて読んで,一語一語に赤を入れて返すことが必須だ。国語のいい勉強になる。僕らが,学生が生まれて初めて経験する研究の報告書である卒論に対して実施している教育手法だ。
    経済も行き詰まり,首相も言っていることがわからない,この苦悩の時代。こういったときには半可通が教育論をぶつ・・・と言っているのは僕のおやじだ。まことにその通りのことが起こっている。