大学教員は(かつては)採用試験があるわけでもなく資格も要らなかった。僕なんかも学閥と出身校からの天下りに過ぎない。しかし,それを改革すべく導入されている昨今の論文数信奉(特に英語による)には大きな違和感を感じる。某国の若手研究者は,中身はともかく論文数稼ぎに必死だそうで,実際に統計上の数字でも明らかだ。就職には不可欠な数値基準らしい。最近,学会の委員会論文集だけではなく権威のある論文集や国際誌に投稿される論文(査読と呼ばれる論文審査で接することができる)にもゴミみたいなのがたくさんある。資格獲得のためには数集めが必至なのである。お互い様なので査読も甘いのか?
研究の手法や規模にもよるが,50 人で書いた一編と単著が,各一著者にとって同じレベルの成果だろうか。方法論を発見した一人の最初の論文と,それを使って応用した論文が同じ質だろうか。自分で発見したモデルを使って応用した論文が,そのモデル提案の論文と同じ質だろうか。対象としている技術そのものの国内基準と国際基準が異なる分野の研究で,英文論文が出せない人の質は低いのだろうか。きっとそうなのだ。でなければ論文数信奉は成立しない。1 年に 10~50 編の論文を執筆する。後者は週 1 編だ。中身のレベルが高ければ高い程,1 編執筆するのには,結果が出てから 2 ヶ月くらいはかかると思うのだ。結果が出るまで 1 年で,ここは学生さんがやってくれたとしても,どうやって年に 10 編も作れるのか理解できない,というのが今日このごろのボンクラ頭の思う不思議である。きっと頭が 5 つで効き手が 18 本くらいあって,寝ている間も思考とワープロ作業ができるに違いない。確かに,頭のいい学生さんにとってはすばらしい教員になりそうだ。