2012年9月30日日曜日

日本放*協会

TV が改善されて個々をカードで特定できるのだから,民間の有料放送と同様のスクランブル・システムにしてくれれば,確実に料金も徴収できるし,観たくない人は選択できる上に,払わない人にはスクランブルができる。技術だけじゃなく人の心も含めて世の中がどんどん変わっているのに,国民が望む方向への法律の変更をしない政府・役人の怠慢ではないのだろうか。
ところでこのチャンネルの音量って,民放のものより若干高くないですか? おやじの耳が遠くなってから気付いたのですが,民放のチャンネルから切り替えた途端に耳にストレスが生じることがあるんですがねぇ。CM なんかの音量だけを上げるのは違反だったような気がするけど,のべつまくなしに他局より音量を高くしているのが問題無いのは何故?

2012年9月23日日曜日

ダイアルアップではありますが

実は今まで固定電話のダイアルアップを使ってましたが,いろいろ考えた結果,某社の 3G/4G モバイルにしてみました。自宅と実家の固定電話 2 台の契約変更とプロバイダの+α等による費用を考えて,自宅と実家および外ではメイル確認や稀なインターネット検索やチケット予約等が主であることを念頭に置くと,経済性を保持(ケチなだけ)したまま機能が高められる一つの有力な候補と判断したものです。おかげでブログ作成も,一段と速くできるようになりました。

2012年9月16日日曜日

ジンギレイチシン

論語は,当時の乱れた世の中を立て直すのに必要な号令を書いたものらしいが・・・先日アマ*ンコムを眺めていて見つかった内田樹先生の最終講義の本の目次から,「礼楽書御射数(順番は不確か)」というものも論語にあることを初めて知った。ジンギレイチシンと重複するのは「礼」と「智(「書数」に相当?)」か。ここいらが一番大事なのだろう。確か内田樹先生だったと記憶するが,人を「楽(文化的教養の高さ)」で差別してはいけないとあった(かもしれない・・・)ようにも思うが,この「楽」は精神的な余裕とでも解釈するのだろうか。「御射」は現在では何だろう。武器を見せるだけで取らずに近所付き合いをうまくやるということか(あぁー,日本はどうなっていくんだろう)。内田先生が書いておられるように「書数」が教育されているとすれば,最終的に個々人に必要で足らないのは「礼」ということになる。この教育は昨今うまくいってない・・・と僕のような無礼な人間に言われるくらい乱れている。ゴミの出し方,公共物の扱い方,出席の仕方,質問の仕方,研究室の訪問の仕方,食堂でのマナー,廊下の歩き方・・・大学内でも無数にある。本学工学部の教育改革案の中にも関連項目が出ている。
さて,「御射」の教育は「体育」と考えてみたらどうだろう。たいていは個々人ごとに「書数」とは両立しない。もちろん東大体育会の優良選手もいることはいるのであろうが。で,今学校では「書数」での順位付けをはばかる教諭・児童生徒・父兄はいないのではないか。しかしなぜ「御射」で順位付けをしてはいけないのだろう。運動会はみんなが手をつないで一緒にゴールで一等賞。なんで?

2012年9月9日日曜日

使いにくいものを作るのが日本建築の目標

予想していたことが起こった。工学部の食堂周辺が,景観や建物だけではなく什器も含めて,また施主や設計者・施工者が一体となって工夫して建設したということで,建築関連の二番目に由緒のある賞を受けた。あの使いにくい食堂のことである。大きさや形の違う机がランダムに並んでいて,誰もいないか少人数が静かにしているときのみ意味がありそうな什器の並んだ学生食堂のことである。使うのが不便な旅行仲介カウンターのあるあの購買店舗のことである。大人数ではとても使えない本棚配置の,あの書店のことである。僕の研究室の学生がいみじくも「建築の価値というのは一般人のそれとは全く異なる」と発言したあの建物群のことである。やっぱり。

2012年9月2日日曜日

そこまでして儲けたい

ある電話会社の TV CM である。料金が 5 年後にどうなるかの棒グラフである。左端が初年度で,画面の 2/3 くらいの高さだとしよう。右端は 5 年後である。高さは,画面の 1/5 くらいまで低くなるのだ。一見,料金が 5 年で 9 割くらい減るように見えるが,そのグラフの横には,左端が 4600 円ほど,右端が 4200 円ほどで,1 割しか減っていない。よぉーっく見ると,棒グラフの棒の下の方に二重の波線が端から端まで・・・
自動車の CM である。購入価格は表示されていない(あるいは見えない)が,大きな数字が画面にある。これは値引きされる分の額である。何か意味ありますのん? 自動車だけじゃないねぇ。他にも一杯・・・
「乗り換えるともれなくもらえる」自転車に乗っている友人や,「あなたの携帯が不便なことにあなたには責任無いのよ」と助言してくれる友人がいても,どうも自慢できるとは思えないのだが・・・
はっきり言って,下品だっ!

2012年8月26日日曜日

攻めに攻める大学教育は日本には向かないのか

新聞によると,中教審が「大学生の勉強時間@自宅を増やす取組みをせよ」と命じたそうで,反論として,教える側の質の向上がまずは第一という意見が出ていた。もっともである。僕のような教員を解雇するのだ! さて,どうやったら勉強時間が増えるだろう。我が大学でも悩ましい対応(後述の四学期制も含めて)を模索しているようだが・・・
さて宿題はある程度の数を出している。最初の数回の講義は導入なので,その後の 10 講義くらいに 6 課題であれば十分だろう。しかし,いくつかを提出しない学生が少なからずいる。そしてそういう学生は期末試験でも失敗して単位は取れない。そしてそういう学生に限って不合格試験後,「何かレポートで浮かしてもらえませんか?」と来る。もちろん拒否である。授業初回にそういう過去の経験・実績を述べるのだが出さない学生がいる。試験には A4 一枚裏表自筆用紙持込可としている。カンニングを抑制する効果もある。が,しかし,採点して返した宿題の縮小コピーを今年初めて見た。確かに自筆ではあるが,何のための持込用紙かが理解されていない。復習が大事,自分の言葉で習ったことを見つめ直して整理する操作が,持込用紙の作成なのだが。これも初回にそのように述べているが,馬鹿にはつける薬は無いということか。
上述の新聞では米国との勉強時間の比較があるが・・・米国は毎週末,金曜の午後は思いっきり遊ぶ,土曜は宿題をこなす,こなせないくらい多い場合もある,日曜の朝は教会で午後はまた宿題だ。一つの科目の授業は,60 分授業月水金 3 回か,90 分授業火木 2 回で,科目当り 180 分授業が 2 ヶ月くらいある。90 分授業が 15 回ある日本とほぼ同じだ。この攻めの講義で毎週末燃え上がって期末試験で燃え尽き,そしてすべてを忘れる。という繰り返しだ。まさにトレーニングである。しかし実力は日本の昨今の学生よりもついているのではないだろうか。詰め込み教育が悪いと,誰が言ったのだろう。基礎は詰め込まないと使えないのに。
ただし大学は覚える方式の学習場所ではないことは前に書いた。

2012年8月19日日曜日

オリンピックは特別

負けた選手を誰もけなさない。それなのに選手は謝るような発言をする。何か約束したかのような発言には違和感を持つ人もいるようだ。僕もそう感じる。がんばったんだからいいじゃないか。努力は報われるなんてことは,まぁ無い。研究も・・・とは余計なことか。
普段の J リーグの試合,負けた途端にサポータのブーイング。野球も同様で,かつ個人攻撃すらするようにも感じる。普段からスポーツには興味の無い人間にとっては,このブーイングが次への励ましとはとても思えないくらい過激で,なんでそんなことをするのかわからん。が,それとオリンピックとはどこが違うのか。国を背中にしょっているからか。プロとアマの違いか。そういえば高校野球も負けても差別しないが,これは相手が高校生だからかなと思っていたが,やはりプロとアマの違いか。プロには私企業が金をかけている。オリンピック選手には国が金をかけている(トレーニングセンターのニュースを見て初めて知ったが)。なら,後者にこそもっと厳しくあってもいいような気もするが。スポーツにはほとんど興味の無い人間が見ると,わからないことが多いようだ。
音楽家はどうだ。3 位入賞したらチヤホヤだが,そうでない人たちは公にすらされない。アマチュアの個人競技であるにもかかわらず厳しい状況ではないのだろうか。ま,けなすことは無いだろうが・・・やはりよくわからない。

2012年8月12日日曜日

違うんだと思うのですが,そうですね

前から学生さんの返答での違和感があったのだが,このオリンピック選手の返答のいくつかでその印象がまたひどくなってきた。なぜ,何も答えないうちに一旦の是認をするのだろう。語尾が上がっているならわかるよ。考えをまとめたいから「そうですねぇー,ちょっと考えさせてくださいねぇ」となるかもしれないが,そうは聞こえない。解説者は両方の意味で使い分けているのだが,学生さんや一部の選手はそれを誤用しているようにも聞こえる。
「宿題は全部自分でやったんだろ?」「そうですね。全部友人のを写しました。」「じゃ,試験前には必死に復習しなかったのか?」「そうですね。したんですけどね。」「出席はどうなんだ,毎日大学には来たんだろう?」「そうですね。十日に一回くらいですかね,大学には」「じゃ毎日アルバイト三昧かい?」「そうですね。毎日家でゲームしてましたね。」

2012年8月5日日曜日

アメリカの中途半端な真似

大学の単位認定では通常試験をして点数で表すが,授業の内容・目的によっては合否だけで判定することもある。アメリカの場合は,ある範囲の数の講義で,点数による成績報告なのか合否だけにするのかを選択できる。なぜかというと,その学期の平均点の低下が除籍に直接結びつくからである。
本学工学部でも,ある学期の成績がいいと次の学期に制限数以上の科目を履修できる。結果的には早めに卒業要件を満足させることが成績上位者にはできるわけだ。何がいいのかまったく理解できないが,それはともかくその工学部では,合否の成績判定に反対している。数値化して欲しいそうだ。例えば複数の教員が代わる代わる講義をするオムニバス方式の(いい加減な)講義がわが国にはある。工学部ではこれもレポート等で数値成績をつけるべきだとしている。しかし,いい加減な講義だから,中にはある学生にとってはつまらない内容の講義しかできない教員も複数いるだろう。そんな課題に対して,その学生はまともなレポートができるわけがない。それをさらに基準の曖昧な判定で数値化されたら,学生はたまったものではないだろう。米国の丁寧なシステムとの思想的な不具合がよく見える。なんとかならないものだろうか。

2012年7月29日日曜日

ペーパークラフトを峰打ち!

仙台市教育委員会開催行事で,中学生に橋のペーパークラフトで工作してもらった。ケント紙を型紙として与え(線を予め引いてある),それをデザインカッターで切り,グルーガンで接着して組み立て,重りを載せて壊れる重さを測定するのである。
テーマは事前に提示してあるから,ある程度は器用な子供達だと想像していたのだが,まさかの連続であった。まず定規に沿ってナイフを動かすことができない。ずれはじめても止めないで切り続ける。深く切ることができないから,何度もなぞってずれていく。何よりも驚いたのは「峰」を紙に当てて切ろうとする。注意しても,また持ち直すと「峰」を当てる。ナイフを「見たこと」もないのかもしれない。
一緒に指導してくれた助教さんの観察では,「このナイフ切れないなぁ」と指に刃を当てようとしたというのだ。なにしろ朝,すべてのナイフの刃は新しいものに交換してあったから,力をあまり入れなくてもケント紙は一回のスライドで切れてしまう状態だったはずなのだ。大事には至らなかったそうだが。
小学生には危険だからナイフを使わせないとか。鉛筆が削れないのは知っていた。しかし,この行事,ちょっと間違うと訴訟問題に発展するかも。ちょっと怖い。今後どうしよう。しかしですよ,ものづくり云々と言っている国の中学生(多分平均的な生徒だったと想像するのだが)がこの程度で,将来は大丈夫なのでしょうか。