論語は,当時の乱れた世の中を立て直すのに必要な号令を書いたものらしいが・・・先日アマ*ンコムを眺めていて見つかった内田樹先生の最終講義の本の目次から,「礼楽書御射数(順番は不確か)」というものも論語にあることを初めて知った。ジンギレイチシンと重複するのは「礼」と「智(「書数」に相当?)」か。ここいらが一番大事なのだろう。確か内田樹先生だったと記憶するが,人を「楽(文化的教養の高さ)」で差別してはいけないとあった(かもしれない・・・)ようにも思うが,この「楽」は精神的な余裕とでも解釈するのだろうか。「御射」は現在では何だろう。武器を見せるだけで取らずに近所付き合いをうまくやるということか(あぁー,日本はどうなっていくんだろう)。内田先生が書いておられるように「書数」が教育されているとすれば,最終的に個々人に必要で足らないのは「礼」ということになる。この教育は昨今うまくいってない・・・と僕のような無礼な人間に言われるくらい乱れている。ゴミの出し方,公共物の扱い方,出席の仕方,質問の仕方,研究室の訪問の仕方,食堂でのマナー,廊下の歩き方・・・大学内でも無数にある。本学工学部の教育改革案の中にも関連項目が出ている。
さて,「御射」の教育は「体育」と考えてみたらどうだろう。たいていは個々人ごとに「書数」とは両立しない。もちろん東大体育会の優良選手もいることはいるのであろうが。で,今学校では「書数」での順位付けをはばかる教諭・児童生徒・父兄はいないのではないか。しかしなぜ「御射」で順位付けをしてはいけないのだろう。運動会はみんなが手をつないで一緒にゴールで一等賞。なんで?