2022年9月10日土曜日

大学教育は研究と一体

 東北大高度教養教育・学生支援機構教授の大森不二雄という人(どうやらお役人さん出身らしいが)が朝〇新聞に困ったことを書いている。二種類の教員を導入しろとか,大学教育における研究の位置づけの誤解とか,とても大学院重点化した東北大学の教授の言葉とは思えないものが 6 日の『私の視点 研究力強化と大学教育 研究と授業、まず役割分担』に掲載されていた。
 文章の最初に挙げてある「大学ファンド」とも何ら連携すべきことでも何でもないのだ。米国の大学の実態等を知っているのだろうか。とはいえ僕も30年前くらいのことしか知らないが,教育担当の教員なんて無駄。そんな教員がいるのは研究型ではない大学ではないのか。世界的な権威である大教授から学部 3 年生の講義,よく整理された講義を聴く幸せをこの大森氏は知らないだろう。試験問題も極めてよく練られたものだ。それなのに米国大学には卒論が無い。研究を学部学生はしないで卒業するにも拘わらず,研究者からよく準備された講義を受ける。東北大の短期留学プログラムで研究の真似事 `individual study' に触れた米国大学生はとても楽しいと感想を言い,場合によっては修士で東北大に戻ってきたりする。
 一方,米国大学院の学生だった我々にはその大先生達の学部生も含めた講義は研究遂行には必須な内容だ。教育担当の教員なんかが担当できる内容ではない。大森氏曰く「講義を聴くだけの授業」が日本の実態だと言うが,米国のトップクラスの大学でも同じだ。ただ毎週のように宿題も出る。学生には日本の学生よりは実力がつくのである。すぐに忘れるかもしれないが。理系の講義でグループで議論なんて米国大学でもやっていない。素人同士で議論して何が得られると思っているのだろう。講義内容はそんなに低いレベルではない。
 また「研究室教育」という得体の知れない・実態を知らない言葉が出てくる。教員の研究テーマに参加させることで 3 年間の緩い学習を埋め合わせていると思っているらしい。そもそも大学では「学習」なんかしていない。学生が「勉強」しない限り実力はつかない。だから,昔の大先生たちはわからないように・難しいように講義していた。アハハ。卒業研究は,ごくごく狭い範囲の勉強だけで成果を求めているわけで 3 年間の何らかの不足分を埋め合わせてもいない。誰もまだ解決していない問題にどう対処するかを学生本人が実感して,プロ(指導教員)に読んでもらうべき論理的な文章を執筆するのが目的だ。就職後に現場で出くわす難問,回りの誰も正解を知らない課題を,どうやって料理してそれを上司に提案するのか,という,科学者のみならず現場の技術者にとっても重要な作業の最初で最後の訓練の場である。
 現場を知らないお役人さんの言で済むならいいのだが,大学院重点化した東北大学の教授がこんなことを書いていいのだろうか。大学の教員が研究時間が無いと苦情を言っているが,それには言及が無い。米国の研究室の雰囲気と日本のそれとの最も大きな違いを書いておこう。米国では教授が毎日朝から夕方までいる。夜も来ることがある。もちろん週 2~4 コマくらいの講義時間は講義室だ。なぜか。教授会が無い。委員会が無い。自分の研究費は稼ぐ必要があるが,大学の概算要求のような仕事は無い。学会活動なんかしない。社会貢献も無い。出張しない,いやできない。週に 2~4 コマの講義があるし,そもそも研究室で学生と議論しないといけない。毎日しないといけない。そして研究室には国中・世界中から PhD の学生がいる。その学生は,教員の研究費で授業料と生活費をいただいているから,研究へのプレッシャはものすごく高い。日本の大学の博士課程は,ほぼ社会人と留学生しかおらず,米国的には修士レベルのように感じるし,学費はほぼ全員が自腹だ。全くと言っていいくらい違うのだが。教員の二重化とか研究室教育なんてことで解決できる問題じゃないんだがねぇ。