ま,確かにその表現は大問題だった。ただ本意は僕には理解できたと思っていたら,「***のそこまで言って委員会」の三宅氏がいみじくも簡単にその趣旨を示してくださった。僕もその通りだと思う。
被災した人の心と完全に一緒の気持ちにはなることができないので,真意はわからないのであるが,ちょっと気になる表現(高校球児も使った)に「生かされている」というのがある。これは自分では決して使わないような表現なので気になっている。が,某仏教宗派(僕のお寺さんです)の「他力本願」つまり「阿弥陀さまがすべてを決めているのであって,我々は何もなす術は無い(以下曲解して)から,阿弥陀さまの名前を唱えることがせいぜいできることであって,自分が他人を幸せにできる本来の仕事なり役割に最大限尽くして生きるのが本務である」ということを,簡単な言葉で述べたのかなぁとも解釈できる。笠原先生から習ったことはもう忘れてしまったが,阿弥陀さま云々は,きっとそういうことだと思うのである。
人ができることはとても限られている。いろいろな偶然でものごとの時間的変化(運命という言葉には抵抗があるので)が発生して,人はそれを能動的にはほぼ変更できない。それを分かり易く,あたかも阿弥陀さまという超存在を民衆の前に置いたのがその宗派の気持ちだったのではないか。我が国本来の宗教(哲学)は,八百万の神様の下で精一杯生きるということなんだろうと思う。それを仏教にすり寄せたのが阿弥陀さまなのではないか,と思う。自然あるいは先輩なり上司の大所高所からの言葉には真摯に対応して,精一杯自分の役割を果たすことが幸せなのではないか,ということかな。