2011年6月26日日曜日

時計をもどしたら

エナジ・セイビング・タイム,いわゆるサマータイムであるが,我が国は戦前に失敗したというのに,その同じ方法をやろうとしている企業がある。諸外国のサマータイムは時計そのものをある週末に一時間進めて始まる。我が国がやったことは,時計はそのまま,9 to 5 を 8 to 4 に変えた。もちろん失敗である。だって,11 時にランチをしたいと思うか? と,ちょっと立ち止まって考えればいい。お昼はお昼だ。
これだけ電子時計が増えたのであれば,時計を一時間変更するのは簡単だ。学生さんは大喜びなはずだ。というのも,授業が終わってから(仙台でも)夜 8 時まで戸外でテニスができる,サッカーができる(放射線が飛んでこなければ)。朝,少しだけではあっても暑くなる前に起きることになる。電気使用の削減に効くかどうかはわからない(どうでもいいのである)が,時計を変える本物のやり方を試行する絶好のチャンスかもしれない。ただし,秋にはすごいインパクトがある。時計を元に戻した次の月曜の夕方退社時・・・突然真っ暗になるのだ! しかし冬を強く感じることができていいかもよ。

2011年6月25日土曜日

藤原道山さんの尺八

年始にぼぉーっと TV を流しっぱなしにしていたら,この人の活動の番組だった。既成概念としての尺八を変えたいとか・・・で,三味線とピアソラもやっているようだ。しかし,どうも武満徹のノヴェンバーステップスの琵琶と尺八による和的な静寂と狂喜(狂気?)のようなものではなく,ポップスのように聞こえてしまった。ま,そこがねらいなのだろうね。
もちろん武満さんのもご存知なのだろうと推測したのだが,ちょっと残念だ。きっと僕にその既成概念があり過ぎるのかもしれないが・・・と続けて番組を聴いていたら,お師匠さんが山本邦山さん。お師匠さんはノヴェンバーステップスを演奏していました。なるほど。だが,ちょっと違う方向の新しい音楽のような感じです。
しかし,この方のように,没頭してやることができる仕事を持っているというのは素敵である。最近,卒論等の学生さんで,没頭してしまうような姿を見せる人は半分くらいしかいない。言ったことをするだけだ。楽しそうでもない。なんのために大学に入って仕事に就こうと思っているのだろう。そういう姿勢でやる将来の仕事は楽しいと思っているのだろうか。そういえば現場でも,新入社員のガッツが無いという不満があるように OB から聞こえてくることがある。土木の分野の学生さんもみんな,いわゆる草食系になってしまったのだろうか。仕事が楽しくないから数年で辞めるのだろうか。

2011年6月19日日曜日

嗜好品に地方税

消費税の増が聞こえている。容易なところから金を集めて無駄に使おうというところか。いつもいつも「無駄を抑えて・・・」と言われながら,国は無駄使いをやめずに,国民には電気使用の節約を強制している。説得力が無いから,従う気も起きない。
ところで,酒やたばこに地方税はかけられないのか。あるいはかかってないのか。アメリカでは,確か(定かではないが),ビールは定価+国税+州税+地方税の合計で売っていたのではなかったかなぁー。これを県や市町村毎に決めることができれば,例えば都会から人を追い出すこともできるし,過疎地域に人を集めることもできるかもしれない。ま,いつも言うように,経済は不得手なので,どういう効果があるかわからないが,必要な部署が必要に応じて金を集めるというのは効率的であるように感じる。なぜ消費税は全国一律なのだろう。国が無駄遣いしたいから?
そこで,被災地の地方税を上げるということに賛同する人がいるかどうか。微妙だろうが,いつまでも被災地以外からの寄付に頼るというのもまずかろう。福島のごたごたに関しては,東京電力のカバー地域の地方税だけを上げるということも可能だろう。これも反対が多いだろうか。全国の電力料金を上げるよりも説得力はありそうだ。
うぅーむ。地方公務員および地方の政治家に性善説が成り立つなら,いいアイデアのようにも思うが・・・

2011年6月18日土曜日

電灯・自販機を無くしたら?

暑がりにとってエアコンの設定温度を上げることは苦痛以外の何ものでもない。前のアパートにはエアコンが無く,また当時は大学にもエアコンが無く(夏は短パン T シャツで研究室にいた),ほぼ 20 年くらい夏は熱中症ギリギリの生活をしていた。通勤時の 10 分間のエアコン付き車だけがオアシスだった。もうそんな生活には戻れない。
TV 等でよく「我慢しよう」と言うが,そうじゃないのではないか。「無駄を無くす機会にしよう」ではないのか。戸外にある自動販売機はすべて撤去だ。スーパーのような大型店舗や公共施設の天井の電灯は量を 1/3 にした上で LED に交換し,かつての半分以下の明るさで十分だ。街のネオンもこの際原則廃止だ。夜は見えなくてもいいだろう。飲み屋も? うぅーむ,いいんじゃないか。アメリカのように,一般家庭には天井の蛍光灯を全廃し,LED 電球のスタンドだけにする? (これは,眼の虹彩の色が我々とは違うからちと無理はあるものの)やっぱり無理か。・・・等等した上で,エアコンは低い温度で使いたいものだ。
15% 節約せよと言う。僕のように,蛍光灯は小さいサークラインが 2 つのみ。弁当・惣菜はチンしない。冷蔵庫は小さい。残る電気使用は TV とエアコンと,週末のスタンドにパソコンだけだ。水もそうだ。風呂は使わない。便所は一日に大は 1 回で小も 2~3 回くらいだろう。こんな生活からも 15% とかの一律の節約をしなければならないのか。国税のように,使用量に従って節約率を違えて欲しいものだ。

2011年6月12日日曜日

小金持ちのつぶやき

経済は単位が取れなかったくらい苦手だが,当初からの赤字予算が是となる国家予算は理解できない。借金も資産のうちという先生がいたが,理解できない。開業医さんはどうやらそうなっていて,借金を次の世代へと引き継いでいくらしい。しかし,研究費とか家庭の経理ではほぼ借金は(普通は)許されないと思うのだがどうだろう。
それから,文科省の予算要求の内容をどうして財務省の役人が選考できるのだろう。そんなに頭がいいのだろうか。文科省の中でも分野が違えば中身は理解できないと予想するのだが。予算配分は,総額のみをドンブリで各省庁に回答した上で,その再配分は各役所に任せたらどうなのだろう。赤字は許容しないことにして・・・文科省はもらった総予算を再配分すればいい。そこで競争が発生する。何が大事で優先すべきかは各省庁に考えさせればいいことであって,財務省(今となってはボンクラな政府とか某党員のにわか勉強の仕分け人か)が無理やり考える必要はない。少なくとも俄か仕込み素人の仕分け人よりも,当該役所の役人の方が内容を理解しているだろうし,そういう責任を役人には持たせるべきではないのか。そのために公務員試験に合格しているのではないのだろうか。大学内ではトップダウンで割り振られた予算を競争して割り振っているし,赤字は許されない。と,現実を見ると,ひょっとすると役所は実はレベルが低くて判断できずに,某大学(例えば T 大ってか)教員周辺に依存しているようにも見えないこともないのだが。

2011年6月11日土曜日

教員の成果としての論文

さて,教員の成果である論文についても面白いことがある。お一人の出版論文数が年間 40 件を越える人がいることだ。ほぼ毎週,論文を投稿していることになる。スーパーマンでも無理だろうが,それが当然とされている。とてもついて行けない。さて,この人たちはどこでどんな仕事をしているのでしょう。きっと家庭を犠牲にしておられるのだろうなぁ。大学教員の仕事振りってのは極めて不思議だ。
また論文 1 編を出版するのに必要な経費が,東北大学全体の平均で一千万円を超えるそうなのだ。僕が自由に使える年間予算は 100 万円には満たない(そんなに必要ない)から,論文 1 編を 10 年で書けば経費的には標準ということになる。この格差は一体どこから来るのだろう。確かに,実験物理学等では光熱費だけで数千万を越える研究があるのは知っているのではあるが・・・やはり大学っておかしなところだ。ほとんど理解できない状況がいま標準になっている。
最近はとても少なくなったが,工学でも「紙と鉛筆」的研究もたくさんあった。お金は要らない。頭脳と創造力がすべてだ。論文も単著で,4 ページくらいに図も無く,式も数個で大論文というのが目標だ。これはすごいよ。でも,こういう研究をしていた人は就職が難しかったが,もし今なら就職は不可能ということか。逆にある分野では大掛かりな実験が必須であることから,50 人の著者で 1 編の論文を書くものもある。これもまた理解できない不思議な状況だ。実は・・・企業が金を出さない研究はゴミと言う大学人もたくさんいらっしゃるらしい・・・はい,僕は毎日欠かさずゴミ出しをしています。

2011年6月5日日曜日

ゆとりのある講義だけを選ぶ教育その 2

たまたまかもしれないが,いわゆる「ゆとり教育」が叫ばれ始めたころの学生さん(ゆとり教育の学年ではないと彼らは言うのだが)の学年からだ。ただし,本学科がコース制度を強く推し進めてきた時期でもあるので,原因が「ゆとり」と直接関係あるかどうかは断言できない。しかし少なくとも内容は数学であってコース特有のものではないことから,コース制が受講生数を左右するとは思えない共通科目なのである。
このことから推測されるのだが,「ゆとり」というのが『内容レベルを保持した上で負担を軽減して身に付く知識・知恵の割合を増やす』というものでは全くなく,『「ゆとり」で理解できるようにレベルを下げた上で同時に負担まで減らし』て教育をしてきたのではなかろうか。
まさに我が国を危機に陥れる教育をあの役所のあのおじさん(寺脇氏は福岡出身らしいし僕の生まれ故郷の久留米とも何か関係がありそうだし同時期に鹿児島の高校にいたなんて嫌だなぁ)は強く進めてきたことになるのだが,彼はそれを自覚しているようではない。現場が主旨を理解しなかったとまで言っているように聞こえる。やはり困った役人さんだったのではないだろうか。
最近,会議でも議論というものをしないようになっていて,このおじさんや僕のように声の大きい者の主張が通ってしまう傾向がある。これでは将来は暗い・・・

2011年6月4日土曜日

ゆとりのある講義だけを選ぶ教育

表は,僕が担当しているある講義の受講者数の推移である。この講義は外国人を含めた応用数学科目であり,板書も説明も英語のみで行われる。最初の授業でそのことを伝えると,日本人学生からブーイングの声が上がり,最後の授業で行われる学生による授業評価では「英語を使うな」というコメントが毎年複数寄せられる。受講生は邦人・外人共に 3 年生であり,この授業の講義ノートは米国の 3 年生のための授業(僕が博士課程のときに受けた講義ノートそのまま)の内容を流用している。日本人学生にとってレベル的には全く問題は無いはずだが,例えば `substitute' が「代入する」だと知るためにはある程度の努力が必要になる。中身は素直なものだし,宿題も 6~7 題は出すし,A4 一枚の手書きカンニングペーパーの持ち込みを許可していることから,文句は言いながらも,成績が極端に悪いのはごく少数に留まる。したがって,どうにか最後まで付き合ってくれていた。
それが 2 年前くらいから急変している。途中で drop-out してしまう学生が増え。2010 年は半分しか最後まで付き合ってくれなかった。つづきは明日・・・